
世界の最高峰に立つ王貞治。しかし王選手の記録は本塁打だけに限られるものではない。知られざる王選手の意外な記録を調べてみた。
初ホームランまで
昭和34年のキャンプに参加した王選手は開始1週間で投手失格と見切りをつけられた。2月28日のオープン戦(近鉄戦)に八番・右翼手で起用され3打数2安打で野手デビューを飾った。7試合目の3月11日の阪急戦で秋本投手から右中間スタンドに " プロ初本塁打 " を放った。オープン戦23試合に出場し5本塁打を放ちシーズン開幕後の期待値も高かったが公式戦の壁は厚かった。4月11日の対国鉄の開幕戦に七番・一塁手で先発出場した王選手は金田投手と対戦して第1打席・三振、第2打席・四球、第3打席・三振に終わった。翌日のダブルヘッダー第1試合の第3打席で初めて打球が前に飛んだが二ゴロ。この試合も2打数0安打・2四球。
第2試合で犠飛を放ち初打点を記録したが依然として無安打が続いた。4月25日の時点で16打数0安打・9三振だった。翌26日の国鉄戦ダブルヘッダー初戦も3打数0安打だったが水原監督は辛抱強く王選手を八番・一塁手でスタメン起用を続けた。第2試合は巨人・伊藤投手と国鉄・村田投手の投げ合いで両チーム無得点のまま7回裏に入った。二死一塁で打席に入った王選手はボールカウント2-1後のカーブを叩くと打球は逆風をものともせず右翼席に飛び込んだ。待望のプロ初安打が初本塁打と後の世界の本塁打王誕生を予言するかのような一発だった。
一本足の前と後
ようやく初安打したが後が続かず、やがてスタメンから外されて5月は僅か5試合の出場だった。結局、1年目は打率.161・7本塁打に終わった。2年目になるとプロの世界にも慣れて開幕から20試合で打率.295・3本塁打と結果を残し、21試合目の4月26日の大洋戦から初めてクリーンアップ(三番)に起用された。これがいわゆる「ON砲」が初めて並び立った瞬間である。9月6日の広島戦で満塁本塁打、9月21日の阪神戦で村山投手からサヨナラ本塁打と初めてづくしの本塁打を放った。2年目の成績は打率.270・17本塁打と飛躍した。この年のセ・リーグ本塁打王・藤本勝巳選手(阪神)の22本と5本差だった。
ただし、ここから順調に成績が良くなるわけではなく3年目は打率.253・13本塁打。4年目の昭和37年も開幕15試合目にようやく一発が出た。6月7日に9号本塁打を放ったが、6月30日まで本塁打なし。30日の大洋戦はサウスポーの鈴木隆投手に2打数2三振に抑えられ、試合後に一本足打法を採用することが決まった。その成果はすぐに出た。開幕から6月30日までは打率.259・9本塁打(24.1打数に1本塁打)、7月1日から閉幕までが打率.282・29本塁打(9.4打数に1本塁打)と眠れる才能が覚醒した。
公式戦以外のホームラン
ペナントレース以外でも王選手は多くの本塁打を放っている。
・日本シリーズ:27本
・オールスター戦:9本
・日米野球:21本
・春のオープン戦:77本
・秋のオープン戦:12本
実は他に幻の本塁打が1本ある。昭和41年に来日したドジャースとの試合で、10月29日に全日本軍のメンバーで出場した王選手は左中間に本塁打を放ったが一塁走者の柴田選手を追い越してしまい、記録上はシングルヒットになってしまった。この1本を除いても合計901本。本塁打を放ちダイヤモンドを一周すると109.7mなので総距離は98.8kmにもなる。ほぼ東京から湯河原までの距離に相当する。

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