Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#279 伝統の一戦 ②

2013年07月17日 | 1982 年 



昭和11年12月9日から11日に行なわれた3回戦方式の王座決定戦が、いわゆる「洲崎の決戦」である。


             【阪神】                 【巨人】
          (一)藤井   勇              (二)三原  脩
          (左)藤村冨美男             (三)水原  茂
          (捕)小川 年安             (右)前川 八郎
          (二)小島 利男             (一)中島 治康
          (投)景浦   将             (左)伊藤健太郎
          (右)御園生崇男             (捕)中山  武
          (中)山口 政信             (遊)白石 敏男
          (遊)岡田 宗芳             (中)林  清一
          (三)伊賀上良平             (投)沢村 栄治



上記が第1戦の先発メンバーで両軍ともに知る人ぞ知る錚々たる選手が名を連ねている。特にタイガースは二塁手の小島を除く8人を当時の野球のメッカと言われ多くの名選手を輩出した四国出身者で固めた。尚、タイガース主将の松木謙次郎は怪我の為に出場できなかった。

第1戦は巨人が4点を先行したがタイガースは4回に小川の四球後に小島の右二塁打で二・三塁として迎えるは景浦。カウント1-3から沢村の懸河の三段ドロップを捉え左越本塁打で追いすがる。景浦はベースを一周する間、指を一本高々と上げて自軍ベンチの石本監督を見てニヤリ。決戦を前にして月給90円の景浦に対し「本塁打1本で100円」とハッパを掛けていたからだ。その後も攻勢を強めるが巨人が逃げ切り先勝した。

第2戦の巨人の先発は再び沢村。もう負けれないタイガースは死に物狂いで襲いかかり2回に先制し6回で沢村をKOした。一方、タイガースは先発の御園生を若林が救援して巨人の反撃を断った。

そして最終戦。巨人は前川、タイガースは景浦の先発で始まった。4対2とリードした巨人は5回から3連投の沢村を投入、タイガースは景浦を三塁へ回して第1戦で好救援を見せた若林が登板。後年に監督だった藤本定義によると沢村は志願の3連投で、さすがの沢村にも疲れが見えたが若林との息づまる投手戦を制して2勝1敗で巨人が初優勝を手にした。

この年以降両チームの戦いの結果が優勝争いに大いに影響を与える事となる。昭和12年春の対戦成績は巨人の5勝3敗だったが5勝は全て沢村があげたものでタイガース打線は沢村に対して155打数18安打、打率.116 と完全に抑え込まれた。打倒沢村なくして優勝は出来ないとして対沢村用に投手プレートの一歩前から投げさせた球を打つ練習を繰り返して秋季の対戦に臨んだ。

練習の成果は即座に表れて沢村を118打数34安打・打率.288 と打ち崩し、対沢村3連勝を含め巨人戦は7戦全勝だった。年度優勝決定戦でも沢村は1勝3敗と勝てずタイガースが4勝2敗で前年の雪辱を晴らした。こうして繰り広げられた両軍の戦いは昭和24年に1リーグ制が幕を閉じる時点迄はタイガース85勝・巨人84勝と拮抗していたが、2リーグ制以降は巨人の一方的な勝利の時代を迎える事となる。

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#278 伝統の一戦 ①

2013年07月10日 | 1982 年 



昭和11年7月15日、名古屋の山本球場で行なわれた「連盟結成記念日本選手権試合・名古屋大会」の大会初日の第2試合の初対戦から間もなくあと3試合で巨人と阪神の対戦は1000試合を迎える。内訳は 『 巨人:536勝、阪神:419勝、引き分け:42 』 となっている。



創立日:昭和9年12月26日                  創立日:昭和10年12月10日  
商 号:株式会社大日本東京野球倶楽部          商 号:株式会社大阪野球倶楽部
資本金:50万円                          資本金:20万円
所在地:東京市京橋区銀座西 3-1 菊正ビル      所在地:大阪市北区中ノ島2-25 江商ビル
取締役会長:大隈信常                      取締役会長:松方正雄
専務取締役:市岡忠雄                      専務取締役:富樫興一



「東京巨人軍」「大阪タイガース」と両チームは都市名をつけて出発した。東京の大隈会長は早稲田大学の創始者・大隈重信侯爵の養子で当時の華族である。一方の大阪の松方会長は明治維新の元勲の一人である松方正義公爵の三男でBK(現在のNHK大阪放送局)の役員をしていた関西財界の有力者であった。東京が侯爵なら大阪は階位が上の公爵を持ってきたわけである。まだ社会的にはプロスポーツとは認知されず警察などからは「遊芸稼ぎ人集団」扱いをされていたプロ野球界はトップに上流階級の名士を据えて重みを加える陣容を構えるのに懸命だったのだ。

東と西の大都市を本拠地とした両球団はやがて人気を博すようになったが両者が直接対戦する機会はなかなか巡って来なかった。昭和11年には巨人軍は二度に渡って米国へ遠征を行ない春季大会が開催されていた頃は不在だった。6月5日の帰国を待って7月1日から早稲田の戸塚球場で東京大会が開催されたが巨人軍は早々に敗退。7月10日からは甲子園球場に場所を変えて大阪大会が開催されたがここでも巨人軍はタイガースと対戦する前に敗退してしまい両者の対戦はこの時も実現しなかった。当時はトーナメント方式だったので1つ負ければ即終了であった。

ようやく7月15日の名古屋大会で対戦が実現。巨人軍が6対3とリードしたが終盤にタイガースが5点を奪い逆転勝利を収め、タイガースはこの名古屋大会で初優勝を成し遂げた。一方この無様な敗戦に業を煮やした巨人・藤本監督が群馬県茂林寺で伝説となった猛練習をする事となる。今でも語り草になっている巨人の存亡を賭けたキャンプはまだ残暑厳しい9月5日から12日まで行なわれた。藤本は生前に「あの時は早稲田の後輩の三原(脩)が助監督の肩書きで先頭に立ってやってくれた。俺なんかより彼がその後の巨人軍を創り上げた功労者だよ」と語っていた。まさに血ヘドを吐くようなシゴキに耐えた選手達は蘇えった。

秋季大会は4つのリーグ戦と2つのトーナメント戦の混合ポイント方式でそれぞれの勝者に勝ち点が与えられ年度優勝を決めるシステムになっていたが巨人軍とタイガースが同点となり優勝決定戦が行なわれる事となった。その対決が日本プロ野球史に残る名勝負のひとつに数えられている「洲崎の決戦」である。



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#277 カラ回り

2013年07月03日 | 1982 年 



岡田彰布(阪神)…昨年暮れ第22代監督に就任した安藤監督も「岡田・掛布・佐野でクリーンアップを組みたい」と所信表明し現に開幕オーダーの三番には岡田の名前があった。109安打・ 18本塁打・54打点(1年目)、140安打・20本塁打・76打点(2年目)と順調に成績を伸ばし「3年目の今年こそタイトルを」と周囲の期待も大きかった。しかし開幕2試合目に初アーチを放ったまでは良かったがその後は惨憺たる状態で打率は1割台をウロウロし打順も三番→五番→七番と下がる一方。3月1日に婚約を発表して幸せ一杯の天国から地獄へ突き落された。どちらかと言えば普段から口数の多い選手ではないが野球人生初の大スランプとあって更に口数は減りチーム内での存在感さえ失いつつある。

「岡田はこんなモンだよ」…ある評論家は容赦なく吐き捨てた。「元々プルヒッターの岡田に『やれ右打ちとかチームバッティングを』などと注文し過ぎ」また別の評論家も「岡田に二塁を守らせている間は3割&30本塁打を求めるのは酷。守備の負担が大きい二塁手なら2割5分&20本塁打で御の字」と。確かに今年の岡田は守備に神経を注いでいる。甲子園球場の一・二塁間の芝生を2.9mも後方に刈り込んでもらい守り易くした。本職の三塁には掛布がドンと構えている以上、岡田が阪神でスタメン出場するには二塁手として活路を見い出すしかない。

5月17日の巨人戦で今シーズン初の猛打賞(4安打)と打撃上昇の気配を期待させたが「原が13本も14本も本塁打を打てるのは守り慣れた三塁に固定されているから。気楽な三塁を守っている原がポロポロとエラーしまくっても誰も文句は言わないのは本塁打王争いしている選手に守備の上手さまで求めないから。チームバッティングを強いられ、更に守りまで完璧を要求される岡田は気の毒だよ」との声も多い。



島田 誠(日ハム)…昨年の今頃は近所のチビっ子が「サインを下さい」と島田のマンションまで押しかけたがファンは正直だ。怪我に泣き打撃が湿りっぱなしの現在、逸子夫人が子供たちの来襲に悲鳴を上げていたのが嘘のように静まりかえっている。暖かい沖縄の名護キャンプで古傷の右ヒジを痛めたのが躓きの始まり。痛むから右脇が開き、開くから振り切れず速球に詰まり凡打を繰り返す。昨年前期だけで27盗塁した足も宝の持ち腐れ状態。悪い事は重なるもので「打撃がダメなら守備力向上を…」と特守をしているうちに左ヒジまで痛めてしまい満身創痍のままシーズンに突入してしまった。

「古葉じゃね~けどよ、ビンタのひとつも喰らわしてやりてぇよ。あれだけのセンスの持ち主がチョンボばっかりしやがって…」と大沢監督は嘆くが、あるベテラン投手は「あの体格でやるのは大変だと思うけど去年までは怪我をしても直ぐに戻って来た。オフの間にやるべき身体の手入れをサボっていたんじゃないかな。自業自得だよ」と更に手厳しい。打率.179 盗塁4個は昨年、右足を怪我するまで落合や石毛と首位打者争いをし、一時は盗塁王の福本を脅かす存在であった男と同じ選手とは思えぬ成績だ。見かねた大沢監督は8試合も一番から外す荒療治をうったが効果は無かった。

業を煮やした大沢監督が「痛いの痒いのと御託を並べてんじゃねぇ。性根を入れ替えてやらね~とクビだ!」と叱責し一番に復帰させた。「エエ、僕自身にも甘えがありました。一歩一歩借りを返して行きます」と再出発を誓った。その御蔭か阪急戦で山田投手から16試合・33打席ぶりの安打に続き西武戦でも2安打するなど微かではあるが復調の兆しを見せ始めた。「将来は生まれ育った福岡へ帰って子供を育てたい。その為にも広い土地を買わなくちゃならない。こっちで狭いマンションで我慢しているのも将来の為に貯えたいから」最初は住みにくかった東京のマンションも近頃では逸子夫人は住めば都らしく快適に暮らしている。早朝からまたチビっ子たちがサインをねだりに島田家のブザーを鳴らし逸子夫人が「福岡に帰りたい」と愚痴をこぼす日が来るのも近い?



柳田 豊(近鉄)…投球の際にピョンピョン飛び跳ねる「ニャロメダンス」が今年はどこか物寂しい。強靭な下半身のバネを生かした特異な投球フォームなのだが「腕の振りと下半身の動きがバラバラで手投げになってしまう…」と柳田は自己分析する。一方で首脳陣は「投球フォームもだが今年は気持ちが空回りしている」とメンタル面を指摘する。

今年の沖縄キャンプは「プロ入りして一番練習をした」と振り返るほど充実していた。開幕投手を念頭に置き質量ともに体をいじめ抜いた。記録上は昨年柳田はプロ12年目にして初めて開幕投手を務めた。だがそれは雨で2試合が流れた末の「補欠の補欠の開幕投手」だった。今年こそ正真正銘の開幕投手を目指しキャンプ・オープン戦を怪我なく過ごし見事にその座を射止めた。しかし7失点で4回KOの憂き目を見る結果に。スタートに躓いた影響は大きく5月21日時点でも勝ち星はゼロと浮上の気配は見られない。もう一人のエース候補だった井本も出遅れているが井本の場合は右肩痛と原因がハッキリしているだけに気持ちの整理はつくが柳田の場合は身体の故障が原因でない分、焦りは大きい。

ハーラートップの久保を筆頭に谷、村田、橘ら若手・中堅投手が踏ん張って優勝戦線に食い込んでいるだけに心中は余計に複雑だ。「自分なりに一生懸命やってきたつもりなのにこんな情けない結果にイライラする」焦れば焦るほど泥沼に嵌っていくのが現状だ。不振打開に縁起担ぎをしないのもまた柳田らしい。「そんな事が通じるのならスランプになるプロ野球選手なんかいるもんか」ただ「他人に後ろ指をさされたくないから」とチーム一の酒豪が遠征先での外出は一切断っている。



田代富雄(横浜大洋)…「目標は40本塁打。それをクリアしたら1本づつ積み重ねてタイトル争いに加わりたい」契約更改の席でもキャンプ初日にも、そして開幕前にも同じ台詞を繰り返してきた。自分のバットがチームの浮沈を左右する立場となったプロ入り10年目の決意表明だった。だが開幕から7週間を経て田代の心境は重い。空転とまでは言えないが思い描いていた本塁打数には程遠い。開幕当初は本塁打こそ出なかったが13試合を経過した時点で無安打試合は2試合だけの打率.333 と好調だったが徐々に下降し始め、5月17日現在で打率.202・6本塁打とスランプに陥ってしまった。

技術的には「球を迎えに重心の位置が投手寄りに移動している。だから後ろ足が伸びきって左肩が早く開いてしまいスイングにパワーが伝わっていない(関根監督)」「体の開きが早くてヘッドスピードがつかない(松原打撃コーチ)」と指摘しているが本人も重々分かっていて本人としては修正出来ていると感じているだけに始末が悪い。年間40本塁打をクリアするには3.2試合に1本のペースで打つ必要があるが、現在の5.7試合ペースだと達成は難しい。

新外人・ラムの活躍で活性化した打線に煽られて必要以上に力みが生まれ打撃フォームに僅かな狂いが生じ当たりが止まり、それが焦りを呼び更にフォームを崩し長期間のスランプに陥る悪循環にはまってしまった。しかし、ここへきて立ち直りの兆しが見えてきた。関根監督の何気ない一言「評論家時代から見ていてアイツは1年のうち必ず1ヶ月くらいのスランプになるのは分かっていたから心配はしていないよ」がきっかけだった。「まさに目からウロコだったよ。言われてみれば確かに毎シーズン必ず打てない時期があったんだ。今年は巨人の原クンが快調に飛ばしているのが気になって我を忘れていた。スランプがたまたま今にやって来たんで例年通りじきに打てるようになる、と考えたら気が楽になった」と田代に笑顔が戻ってきた。
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#276 山本和行

2013年06月26日 | 1982 年 


「今一番興味があるのは何?」との問いに「UFOですよ。空飛ぶ円盤」「世間の人はこの世には男と女しかいないと思っているけど僕はそうだとは思わない。第3の人間、つまり宇宙人は存在する。案外、江川も宇宙人かもよ」最初は冗談を言っていると思ったが本人はいたって真面目だ。「野球を見物しにUFOが来るんじゃないかと甲子園のマウンドで夜空を見上げる事もよくあるよ」プロ野球選手とUFOとは何とも奇妙な取り合わせだがこうした会話が山本という選手に興味を持たせるきっかけだった。

地味で無口。報道関係者との付き合いも深入りしない。「自分を飾るのが嫌いなんだ。人気商売だから注目されたい気持ちはある、あるけど無理をして目立ちたいとは思わないし、ちゃんとした成績を残せば自然と人は寄ってくる。成績より人気が先行するのは間違っていると思うよ、たとえ人気商売でも」人気球団の阪神では少し活躍しただけでマスコミによって大スターに祭り上げられる事がしばしばある。しかし、その「人気」がいかに儚いものかも阪神一筋11年の山本は知っている。

昭和47年のドラフトで山本は1位指名で阪神に入団した。広島商業2年時にエースとして夏の甲子園大会に出場して注目を浴び、高校卒業時は東京六大学や社会人野球の名門チームからの勧誘を受けたが選んだのは当時はマイナーとも言える亜細亜大学だった。「亜細亜大に行った第1の理由は弱小チームを強くしてやろうと言う反発心で第2は経済的な事。家は経済的に苦しかったから学費免除などの条件が魅力的だった。当時から六大学は学費が高かったからね」昔から強い者に対する反骨精神が旺盛だった。4年生の秋に大学野球選手権大会で優勝し亜細亜大を初の日本一の座につかせるなどプロも注目する投手に成長した。

従来の反骨精神ゆえ「巨人以外のセ球団ならOK」と宣言。最も熱心だったのは中日だったが結果は阪神が1位指名。打倒巨人の宣言通り7月5日の巨人戦でプロ初勝利を飾った。「当時はONが健在でV9真っ只中と強い巨人相手に勝てたのだから鼻高々だった。でもね本心は恐怖心でいっぱいだった。ON、特に打席の王さんに睨まれた時は本当に怖かった。あんな凍りつく様な視線を投手に浴びせる打者はもう現れないいんじゃないかな」

その王にベーブ・ルースを抜く715本目の本塁打を献上している。「あの時は逃げようと思えば幾らでも逃げられた。でも俺の腕が少しも言う事を聞いてくれなかった。馬鹿な奴だと思われるかもしれないけど真正面から立ち向かって打たれたんだから納得している。恥をかくのを恐れて逃げるよりベストを尽くして恥をかく方がマシ、投手は恥を売って生きているんだよ。でもねあの時の打球はライトポール直撃だったでしょ?ホームランになるかファールか、その辺が持ってる運の強さの差だね王さんと俺との」と語る。ちなみに山本がプロ入り後に浴びた本塁打は194本、球質が軽い事もあるが逃げる事を嫌う山本の気質が一番の要因だろう。

一昨年は15勝、昨年は12勝をあげ山本は2千万円プレーヤーの仲間入りを果たした。それでも小林との差は勝ち星・年俸ともにまだ大きい。「恐らく今年が本当の勝負の年になると思うな、コバとは。人間的には好感を持てる男だけどライバルだし今年こそ彼を上回る成績を残したい。そうすればマスコミも少しは俺に注目するでしょ」という言葉の裏には阪神一筋でプレーしながら必ずしも正当な評価を受けてきたとは言えない男の叫びがある。生え抜き選手の中では最古参で自分だけを見つめて来た男が自らの存在を周囲に強く訴え始め出した。久々に生え抜きの安藤監督が就任し新人の自分を鍛えてくれた小山投手コーチが復帰、これまでとはガラリと変わった環境が山本の意識に変化をもたらしたのかもしれない。少し風変わりなプロ野球選手に注目である。



山本投手も好きな選手の一人でした。飄々としたマウンド捌きと、細かい事ですが捕手からの返球を受取る仕草が格好良かったです。普通の投手は返球されるボールをグローブの網の部分か少し下のポケットで捕球するのですが、山本投手はグローブの土手に近い手の平部分でパチーンと音を立てて捕球していました。テレビで観ていても音が聞こえていましたねぇ。マニアック過ぎる話でスンマセン・・・
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#275 広岡監督の遠慮深謀

2013年06月19日 | 1982 年 



「パ・リーグを盛り上げる為に西武を勝たせているのでは?」などと球界雀がやっかむほど西武と対戦する5球団は自滅を繰り返している。勿論、そんな八百長試合が行われている筈はないが相手球団の自滅は「当たらずとも遠からず」なのだ。西武フロント幹部は「広岡さんは意図的に相手を挑発して冷静さを欠けさせて空回りさせた」と明かす。

昨年暮れの監督就任後からマスコミを巧みに利用するようになる。田淵の一塁コンバートをブチ揚げ話題を提供する。ある意味で指名打者制度の否定であり、つまりはパ・リーグ野球を否定する事になる。当然のように他球団の監督・コーチらは反発し「やれるもんならやってみろ」と息巻いた。次いで「肉を無闇に喰っていては体を壊し選手寿命を縮める」…これには日ハムの大沢監督が噛みついた。当然である、なにせ親会社は「ハム」を扱うのだから。「菜っ葉ばかり食べているヤギさんチームに負けられるか」と広岡監督の思うツボ。春季キャンプが始まると詰めかけた多くのファンを見渡しながら阪急をチクリ。西武がキャンプを張る春野の近くで阪急もキャンプをしていたが訪れるファンは西武と比べると遥かに少ない。頭に血が昇った上田監督は「西武を倒すには石毛を潰すに限る」とばかり「イシゲくん」なる人形を本人に見立てて強烈なスライディング練習を導入するなど大人げない対応をする始末。

一方で懐柔策も怠らない。「あまり知られていないけどブレイザー監督(南海)は僕の師匠とも言える存在なんですよ。昭和35年だったかな、日米親善野球で来日したブラッシングゲーム選手(ブレイザー監督)のプレーを見て多くを学んだ。当時の僕は守備で悩んでいて一種のノイローゼ状態だったけど彼のプレーをヒントに迷いから覚めたんだ」と語り、この話をマスコミが伝えるとブレイザー監督も悪い気はしない。すかさず「ヒロオカはグッドガイだ。彼の目指すスタイルは私がやろうとしているベースボールと同じ。共に良いマネージメントが出来るといいね」と応えた。前年度Aクラスの日ハムや阪急には挑発して火を付け自滅を狙い、Bクラスに低迷したものの対西武には勝ち越した南海の西武に対する敵愾心を弱めるべく懐柔するなど広岡は巧みだった。

開幕の日ハム戦を1勝2敗と負け越した後も波に乗れず5勝5敗で迎えた南海を3タテ、続く近鉄戦を1勝1敗で乗り切り当面のライバルとなる阪急戦に挑んだ。上田監督とは浅からぬ因縁がある。現西武管理部長の根本氏が広島カープの監督だった時に上田はコーチだったが「この監督のやり方にはついて行けない」と自ら申し出て退団したが、その後釜だったのが広岡。昭和53年の日本シリーズで大杉の左翼ポール際に放った「ホームラン」の判定に猛抗議をし試合後に退団する事態にまで発展したヤクルト戦の相手監督も広岡。阪急退団後の評論家時代に西武・堤オーナー直々に監督就任要請を受けるも固辞し阪急の監督に復帰すると西武の監督の座に収まったのも広岡。上田に広岡を意識するなと言うのは無理だろう。結局、この時は広岡に軍配が上がり、その後も対戦成績は西武の4勝1敗と両軍の対戦は西武が主導権を握る事となった。しかも4勝すべてが1点差勝利であった事も上田の血圧を上昇させた。

その後は下位に低迷するロッテや南海から確実に勝ち星を稼ぎV軌道に乗り5月18日に天王山となる日ハム戦を地元西武球場で迎えた。18日は序盤に日ハムが3点を奪いリードしたが6回裏に石毛・スティーブ・田淵の1イニング3本塁打で追いつき高橋一三投手をKOした。日ハムは何とか江夏に繋げようと高橋里や川原を投入するも8回には無死満塁のピンチを迎え、予定よりも早く江夏登板を余儀なくされた。江夏は山崎を三振に討ち取ったが続く片平が意表を突くスクイズを決め決勝点を奪い西武が勝利した。翌19日の試合も終盤までもつれたが大沢監督が連投となる江夏投入を一瞬躊躇した隙を西武が突きテリーの犠飛であげた1点を守りきり西武が連勝した。

これで1点差勝利は22勝中9勝と西武は接戦をものに出来るチームに変貌した。1点差勝利は相手が苛立てば苛立つほど相手はこちらの術中に嵌ると言える。相手チーム、特に監督が広岡監督の影に怯えるほど接戦を落とす事になるのだ。球団創設時は優勝など夢のまた夢と思われたが今や現実味を帯びてきた。
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#274 新人王候補

2013年06月12日 | 1982 年 




                山沖之彦 ( 専修大→阪急・ドラフト1位指名 )

衝撃のデビュー…4月4日の開幕戦(対近鉄)でプロ初登板を果たす。それも8回一死一・二塁のピンチをピシャリと抑えてセーブポイントをあげた。新人の初登板・初セーブは史上初の事であった。

ジャンボサイズ…身長1m91cm、体重88kg は日本人選手の中ではヤクルト・宮城、中日・後藤に次ぐ第3位のノッポ。小学校5年から6年の1年間で30cm も伸びたという。

二十四の瞳…昭和52年春の甲子園選抜大会に出場した中村高校(高知)のエース。部員がベンチ入りの15人に満たない12人しかおらず「二十四の瞳」と話題となる。決勝で箕島高に破れたが日本中に旋風を巻き起こした。

東都の三冠王…高校卒業後は専修大学へ進学。1年生で4勝して優勝に貢献し最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインに選ばれて東都の投手三冠王と呼ばれた。通算成績は22勝22敗。

就職…ドラフト会議前には四国銀行への就職が内定していた。長男という事もあり両親は地元で安定した就職先に喜び本人もプロからの勧誘を固辞していたが阪急が1位で指名。四国銀行頭取が阪急ブレーブスの後援会会長という事もあって「阪急なら内定を辞退しても構わない」とのお墨付きで一転してプロ入りとなった。

契約金・年俸…1位入札は金村(近鉄)だったがクジを外してしまい山沖に。ただ契約金4500万円・年俸420万円は他球団の1位指名選手と遜色ない額。

ないないづくし…趣味はない。酒もタバコもやらない。ゲンかつぎもしない。何も興味を示さない退屈な人間なのかというとさにあらず、「何かを集め始めると際限なく世界中のモノを集めたくなる。だからやらない」と本人によれば根は凝り性なのだそうだ。

新人王…首脳陣も「新人王を狙わせる」と公言している。賞を取るには先発の方が望ましいが関口投手の故障というチーム事情で救援に回っている。「本当は先発をやりたいです。でも与えられた仕事をやり抜くのがプロだと思うので頑張ってます。やるからには新人王を狙いますが勝ち星と違ってセーブは幾つ稼げば良いのか今ひとつピンときません。それが不安材料ですかね…」

ライバル…「同期生というより自分以外のプロ野球選手なんて言ったら格好つけ過ぎですかね。リーグは違っても同じ東都リーグで一緒だった宮本(ヤクルト)にはやっぱり負けたくないです」



                宮本賢治( 亜細亜大→ヤクルト・ドラフト1位指名 )

球歴…兵庫・鶴居中学で本格的に野球を始める。東洋大姫路高の2年春頃に投手転向するまでは主に遊撃手だった。昭和52年夏の甲子園大会で全国優勝を果たした時は背番号「10」の控え投手だった。亜大進学後は1年の春からベンチ入りし通算35勝は東都リーグ歴代4位。

涙の甲子園…昭和52年夏の甲子園大会2回戦の浜田高戦で登板したが先頭打者の打球を右手中指に受け7針を縫う怪我を負い、わずか5球で降板。「チームは全国優勝したけど個人的には甲子園に良い思い出は何ひとつ無い」と今でも慙愧の念がアリアリ。

裏切り者…東洋大姫路からの大学進学は通常なら東洋大学だが何故か同じ東都リーグのライバル校の亜細亜大へ。4年間、宮本は東洋大戦に登板すると当然のように「裏切り者!」の罵声を浴び続けた。このあたりの経緯については多くを語らない。

連続三冠…昭和55年秋~56年春の亜大連覇の立役者であり2シーズン連続で最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインの三冠に輝く。

おっちょこちょい…去年の夏休みに出かけた城ヶ崎海岸で水深を勘違いして頭から飛び込んで頚椎を痛めて2週間も入院する羽目に。4年生のラストシーズンに活躍出来なかったのはその時の後遺症のせいと言われている。

就職先…日本生命など5~6社から誘いがあったが本人は「プロ一本。通用しなかったら親父の仕事(建築業)を継ぐつもり。男なら一度はプロで試してみたかった」

契約金・年俸…「ドラフト1位に恥じない金額(塚本スカウト部長)」で契約金4000万円・年俸420万円。

妹?…ユマキャンプから帰国した成田空港に可愛いお嬢さんがお出迎え。「恋人?」との報道陣の問いに「いや、あの、別に…妹です」と大汗をタラタラ。

太鼓判…亜大・矢野総監督が「1年目から2ケタ勝てる投手。過去の教え子の中でも山本和(阪神)や古屋(日ハム)の1年目と同等の活躍は出来るはず」「もしも今年中に二軍落ちをするとしたら本人の怠慢。その時は私がユニフォームを脱がす」とキツ~イ送別の言葉を頂戴した。
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#273 無名の名選手 ③

2013年06月05日 | 1982 年 



神田武夫【京都商-南海】…京都商業時代の昭和14・15年と2年連続で夏の甲子園大会に出場し「中等球界 No,1 投手」の称号を得てプロ、ノンプロの10球団が勧誘に足繁く京都を訪れたが卒業間近に肋膜を患い各球団は潮が引くように去って行った。ただ南海だけは「負担の少ない野手ならば」と獲得した。神田はこの時に南海の為ならば…と心に決めたという。1年目は84試合中54試合に登板して25勝をあげ翌年も61試合登板で24勝した。当時の同僚だった別所毅彦が後に「高目は俺の方が速かったけど低目の伸びは敵わなかった」と語っている。

しかしベンチでは常にマスクをしなければならないほど病状は日々悪化していった。戦時下で食料事情は悪く栄養状態は最悪、しかも選手数も軍隊に召集されて減る一方で充分な休養も与えられず各球団の投手の多くが胸をやられた。神田は決して「ノー」と言わない男だった。三谷八郎監督の打倒巨人の号令の下、顔面蒼白で咳き込みながらもマウンドへ上がった。

昭和17年4月18日から25日までの8日間の5試合すべてに神田は登板し5連勝する獅子奮迅ぶりを発揮した。しかしこの活躍が病状をさらに悪化させ後半戦は9勝12敗と振るわなかった。翌18年は一度もマウンドに上がる事なく7月27日に京都の自宅で息を引き取った。2年間で718回を投げ抜いた天才投手は21歳で夭逝した。

【 通算成績 49勝35敗 防御率 1.36 】


清水秀雄【明治大-南海-近畿日本-グレートリング-中日-大洋】…昔の特に戦前のプロ野球の試合は観客が入らなかった。六大学をはじめとする学生野球や社会人野球が人気でプロ野球は「職業野球」と卑下されていたからだ。昭和15年の1試合平均観客数は僅か1,870人であった。その昭和15年の6月4日、甲子園で行なわれた南海-巨人戦は満員札止めになる程の観客が押しかけた。沢村栄治が復員しての復帰第一戦である事以上に南海の先発投手が清水である事が超満員の理由であった。それだけ清水の人気は凄かったのである。

先にも言った通り当時は学生野球人気が図抜けていて清水はその人気の中心にあった東京六大学リーグで活躍した花形選手だった。昭和12年春から13年秋にかけての明大四連覇の立役者で南海が大枚5千円の支度金で入団に漕ぎ着けた。ちなみに「支度金の上限は3千円」の申し合わせを南海は「申し合わせであり強制力は無い」と無視した。今で言うゴールデンルーキーがあの沢村と投げ合うとなって観客が詰め掛けたのだった。

涼しげな目元で手足が長く均整の取れた容姿は女性に大人気であった。また内面はストイックな部分を持ち合わせていた。学生時代から底なしの酒豪でプロ入り後も酒にまつわる逸話も残したが、登板の2日前からは一滴も口にしなかった。「学生の頃は二日酔いでも勝てたがプロは甘くない。まぁ登板後に倍の量を呑めば同じだし」と笑った。また試合当日のブルペンでの投球練習の内容が悪いと登板を回避した。周りからすれば単なる我がままだが本人曰く「こんな球じゃ観客からお金を取るのは失礼」との事。ちなみに沢村との投げ合いは味方のエラーもあって5回で降板、沢村が復帰戦を1失点の完投勝利で飾った。

【 通算成績 103勝100敗 防御率 2.69 】


寺内一隆【立教大-イーグルス-黒鷲-大和】…素晴らしい足腰のバネであたかもカモシカが岩場を難なく飛び跳ねるかのような華麗な外野守備を誇り、どんな打球でも難なく処理していたのが寺内だ。そんなカモシカが一度だけ岩場から滑り落ちた事があった。昭和12年7月13日東京の洲崎球場での金鯱-イーグルス戦、走者一塁で四番黒沢が放った打球は左中間へ。ここで落下地点で寺内と中根之外野手が激突して両者は失神してしまい、打者走者の黒沢まで生還しランニングホームランとなってしまった。

中根はしばらくして立ち上がったが寺内はそのまま担架で病院送りとなってしまった。「打球を追っていた事までは憶えているけど衝突した記憶は無いんだ。気が付いたらグラウンドに大の字で寝ていて、その横で寺内が泡を吹いていた」と中根は語り「とにかくスマートな選手で華麗な守備はプロが見ても素晴らしかった。同じ外野手として負けてたまるかという気持ちが無理なプレーをさせたのかも。でもあの打球は俺の守備範囲だったと思うよ」と懐述する。

戦前の立教大は「立教」よりも「セントポール」と呼ぶ方がピッタリのハイソでお洒落の代名詞だった。野球のプレーも私生活も垢抜けした選手達が多かったが寺内はその代表格だった。今も横浜で御健在の奥様とは結婚2年目に入営、初めは3ヶ月の教育召集だったが訓練が終了し奥様が丸亀の連隊へ新調した洋服を持って迎えに行くと、なんとその日に再召集され寺内は連隊へ逆戻り。その後二人が会う事は無くこれが最後の別れとなってしまった。

【 通算成績 283安打 13本塁打 打率.197 】 
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#272 無名の名選手 ②

2013年05月29日 | 1982 年 



尾茂田 叶【松山商-明治大-セネタース】…「回転レシーブ」という言葉が日本中に広まったのは東京五輪の女子バレーの活躍によってだが、それよりも遥か以前に特技にしていた選手がいた。尾茂田である。外野手だった尾茂田は単に落下地点にダイビングキャッチをするのではない。地上スレスレで捕球するやいなやクルッと1回転して一瞬のうちに内野手に返球する態勢を整え矢のような送球をし飛び出した走者を刺した。

尾茂田がこの技を習得したのは松山商時代。夏休みで帰郷していた先輩の中村邦投手(明治大)の助言によるものだそうだ。初めのうちは上手く出来ず危険が伴うので砂場で繰り返し練習して身に付けた。「阪急の西村正夫も似たような事をやっていたが彼のはただ回転するだけで俺のように飛び込んだりはしなかった。坪内や岩本も私の真似をしようとしたけど出来なかったな」とプロの選手でも真似出来なかった荒業だった。
 
【 通算成績 275安打 9本塁打 打率.261 】



森 弘太郎【一宮中学-名古屋鉄道局-阪急】…昔の投手の球種と言えば直球とドロップの二種類と相場は決まっていた。そんな時代に森はシンカーを駆使して勝ち星を稼いだ。昭和12年にプロ入りした森だったが当初の3年ほどはパッとしない二線級投手だった。打撃が意外と良かったので打者転向を薦められたりしたが本人は頑として投手に拘った。しかし「森投手」に与えられた役割はバッティング投手で来る日も来る日も肩が抜けるほど投げさせられた。

バッティング投手だから打者に気持ち良く打たせるのが仕事である。だが投手の本能として打者に簡単に打たれるのは気分が悪い。とは言え打者に要求もされていないのに変化球を投げて打ち取る訳にはいかない。そこで見た目では変化球と分かり難いシュートを多投し詰まらせて打ち損じを誘い気分を紛らわせた。その時、力の入れ具合を変えるとシュートが曲がりながら沈む事に気づいた。

「この球は使える」二線級投手から脱皮した瞬間だった。シンカーという武器を手に入れた森は見違える投球をするようになる。全盛期は昭和16年で48試合に登板し30勝8敗 防御率 0.92 で最多勝に輝いた。名古屋軍相手にノーヒット・ノーランも達成し阪急は8年ぶりに優勝した。

【 通算成績 112勝78敗 防御率 1.92 】



皆川定之【桐生中-阪神-東急】…現在のプロ野球界で一番の小兵はロッテ・弘田(163cm)だが「それだけあれば昔だったら真ん中くらいで決して小さくない」と言う皆川は157cm・60kg、足のサイズは24.5cmだ。入団当初、ネクストバッターズサークルで素振りをしていたら二出川主審に「坊や、危ないからバットを拾ったらベンチへ帰りなさい」と叱られた。そう、小柄ゆえにバットボーイの子供と間違われたという逸話がある。「その話は本当だよ。なんせ俺よりバットボーイの子の方がデカかったからね。だけど悔しいやら、恥ずかしいやらで気合が入ってヒットを打って一塁ベース上から二出川さんに手を振ったら苦笑いしてたよ」と笑った。

負けん気と勝負強さはさすが国定忠治を生んだ上州生まれだけの事はある。桐生中では稲川監督にしごかれ阪神入り後は石本監督の猛ノックと「ヘタくそ!荷物をまとめて故郷に帰れ!!」の罵声を浴びながら培った守備力と根性が皆川の持ち味だ。打撃ではスタルヒンとの対戦が球場を沸かせた。35インチのバット(通常は34インチ)をグリップエンドいっぱいに握りアンダーシャツをたくし上げて巨漢のスタルヒンと対峙した。「向こうの方がやり難かったと思うよ。的が小さいから制球重視で八分程度で投げていたんじゃないかな、だから俺でも打てたわけだ」と当時を懐かしんだ。
  【 通算成績 630安打 21本塁打 打率.204 】
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#271 無名の名選手 ①

2013年05月22日 | 1982 年 



重松通雄【呉工廠-阪急-大洋-西鉄-金星-西日本】…日本初のアンダースロー投手には諸説あるが筆者が思うに第1号は重松投手だ。重松のアンダースローの投球フォームは左足を上げた段階で既に身体を「く」の字に折り曲げていて、後に登場する杉浦忠や秋山登らとは違っていた。入団当初はテークバックが小さい為に球に威力が無く、風変わりな変則投手の域を出なかったが腰を思いっきり打者側に突き出すフォームに改造してからはスピードが増し打者を抑えるようになった。「フィニッシュ時は腰が入って軸足のケリが強いからまるでジャンピングスローのようだった」と重松の元同僚の日ハム・丸尾スカウトは言う。

筆者とも浅からぬ因縁がある。昭和14年の東西対抗戦で先発した重松はノーヒット・ノーランを達成したのだが(投球イニングの制限は無かった)、準完全試合で唯一の四球を選んだのが私だった。7回の打席でカウント2-3からの外角低目の直球が外れて完全試合を逃した。正直言うと手が出ず見逃したのだが「あれは入っていただろ?白状しろよ」「いや、球1個分外だった」とお互い現役を退いた後も幾度となく言い合った。ちなみに当時の東西対抗戦は今で言うオールスター戦で出場選手は各球団の主力だっただけに価値ある偉業達成だった。
        
【 通算成績 63勝82敗 防御率 3.06 】



中根 之【神港商-明大-名古屋-イーグルス】…日本球界で初のスイッチヒッターは誰か?巷間、ジミー堀尾と中根のどちらかであると言われているが中根本人に尋ねると「俺だよ」と即答する。一方のジミー堀尾が既に故人なので中根の言い分を信じるより他ない。同じスイッチヒッターでも堀尾の場合は左右打ちの機会に規則性は無く右腕投手相手でも右打席に立つ事もあったが中根の場合は右腕投手には左打席、左腕投手には右打席と徹底していた。昭和11年秋、中根は打率.376 で日本プロ野球の初代首位打者に輝いた。「右打者が苦手とするアンダースローも打てたし左腕の内藤幸三君には8割くらい稼がせて貰ったしタイトルが取れたのはスイッチのお蔭だよ」

中根のスイッチは高校時代からのものだ。中根のいた神港商は山下実や島秀之助らを輩出した名門で、スイッチの助言をしたのも同じくOBの二出川延明だった。3年生の時に俊足を生かす為にも左で打つよう薦められ本格的に練習に取り組んだ。「俺はね元々反体制側の人間で天の邪鬼でね、当時は重いバットが主流で強い打球が求められていた時代だった。それに反発したくて軽いバットを使っての軽打専門だった」左打席で走りながら打ち単打を稼ぐ中根を見て二出川が「そんな打ち型じゃ強打者にはなれんゾ。左右両打席で本塁打を打てるようにならないと六大学へ行っても大成しない」と言われて打撃を改造した。

【 通算成績 183安打 7本塁打 打率.286 】



永沢富士雄【函館商-巨人】…今やどこの運動具店でも売られているファーストミットの原型を編み出したのが永沢だ。内野手からの送球はいつも取り易いものばかりではなく高かったり横へ逸れたりと一塁手は捕球に苦労するのもしばしばである。一塁手だった永沢のグローブは一見して指の部分が長く異様な形をしていて、大日本野球連盟東京協会(大東京軍)の代表だった鈴木龍二(現セ・リーグ会長)が違反グローブじゃないかと物言いをつけた程だった。昭和9年に来日した大リーグ選抜軍の一員だったジミー・フォックスに「一塁手のグローブは捕球し易い様に大きい方が良い。お前のグローブは小さ過ぎる」と言われてアメリカ製のグローブを取り寄せて自分で改造したのだ。

入手したグローブはアメリカ人用だけに大きく指も長く捕球し易かった。さらに永沢は親指と人差し指の間のネット部分を外して新たに柔らかい銅線で形を大きく、深く改造した自作のネット部分を取り付けて球がグローブからこぼれ出ないようにした。銅線を布テープでグルグル巻きにし、さらにその上から絆創膏を貼り付け強化した。出来上がったグローブは原型を留めておらず、まさに現在のファーストミットの形をしていたのだった。こうして自作のグローブを永沢は10年の選手生活で2個しか使わなかった。

【 通算成績 158安打 5本塁打 打率.200 】
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#270 試金石

2013年05月15日 | 1982 年 



オープン戦の成績は当てにならないと言われて、特に外人選手は季節が暖かくならないと判断できない。しかし新人選手に関してはオープン戦の出来・不出来がそのままシーズンの成績を暗示するケースが多い。昨年の新人王に輝いた原と石毛はオープン戦から結果を出していた。

        試合  打数  安打  打点  本塁打  打率
   【 原 】  12   39   12    5     2    .308
   【石毛】 16   56   20    3     2    .357



石毛は2月28日のデビューから2試合は1安打と出遅れたが徐々に本来の力発揮し始めて3月21日の日ハム戦では本塁打を含む3安打と実力を見せつけた。一方の原も同じ3月21日のヤクルト戦で3打数2安打として打率5割でオープン戦首位打者に躍り出た。原はオープン戦終盤に不調に陥り11打席無安打と不安をのぞかせたが公式戦が開幕すると初戦で牛島(中日)から左前初安打、2戦目に小松から右翼越え初本塁打の見事なデビューを飾った。石毛の公式戦デビューは原以上で開幕戦で初本塁打を含む3安打、2戦目にも第2号本塁打を放った。新人の開幕戦3安打は昭和33年の古葉(広島)・森永(広島)以来23年ぶり、開幕戦から2試合連発は昭和30年の枝村(大映)以来26年ぶりの快挙だった。

また中尾(中日)も規定打席不足ながら4割を越す打率を残していた。昨年のオープン戦には原・石毛・中尾を含めて18人の新人が出場して打率は.251 だったが、この3人を除くと打率は.172 とガクンと落ちる。いかにこの3人が図抜けていたかが分かる。過去に新人王に選ばれるほどの選手はオープン戦から結果を出している。昭和36年に35勝をあげた権藤(中日)は28回 1/3 で防御率 0.13 。昭和37年に24勝した城之内(巨人)は33回 で防御率 0.27 と先輩打者を寄せつけなかった。最近では昭和55年の木田(日ハム)が17回投げて防御率 1.06 と公式戦での活躍を予感させた。

今年の新人達もオープン戦で奮闘中だ。田中(日ハム)は2月20日のオープン戦初戦に先発して広島打線を5回まで2安打・無失点に抑えて勝利投手に。さらに27日の大洋戦でも2回を無失点に抑えて2勝目をあげている。宮本(ヤクルト)は3月9日の巨人戦に先発して3回1安打で無失点、津田(広島)も3月7日の西武戦で5回2失点と好投した。打者でも平田(阪神)が4割を越すアベレージを残して真弓を押しのけて遊撃手のポジションを虎視眈々と狙っている。

そんな中で苦しんでいるのが金村(近鉄)である。代打のみの4試合出場である事を割り引いても「超大物ルーキー」の片鱗は見せていない。高校を出たばかりでは最近のプロ野球では通用しないという事を改めて思い知らされる。昭和27年の中西(西鉄)は打率.281 12本塁打、翌28年の豊田(西鉄)は打率.281 27本塁打、投手では昭和31年の稲尾が21勝6敗 防御率 1.06 を記録したのは遠い昔の話だ。高校を出たその年に新人王になったのは昭和41年の堀内(巨人)以来現れておらず、打者となると昭和34年の張本(東映)が最後である。

高卒選手が一軍で活躍する以前に一軍の試合出場数自体が減ってきている。ドラフト制以降、1年目に100試合以上出場した新人は29人いるが高卒選手はゼロで一番多いのが昭和49年の掛布(阪神)の83試合。昨年は高校を出て即プロ入りした選手が47人いたが一軍の試合に出場したのは打者3人・投手6人だけだった。安打を記録したのは秋山(西武)と原(広島)の1安打、勝ち星は井上(南海)と小野(西武)の1勝と寂しい限り。果たして金村がプロの壁を突き破る事が出来るか注目である。
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#269 試練の新人たち

2013年05月08日 | 1982 年 



尾上 旭…カ~ンと乾いた打球音が球場に響き渡ると尾上は公式戦でサヨナラ本塁打を放った選手かのように拳をグイッと突き上げてベースを一周した。2月16日の紅白戦で堂上投手から打った一発は「満塁」のオマケ付きだった。実戦形式になってから8打席無安打と結果が出ずに苦しんでいただけに喜びが爆発したのだ。思えば1月中旬の自主トレの時、ナゴヤ球場に姿を現した黒江コーチは尾上の打撃フォームを一見して「かなりのアッパースイング。あれじゃプロの球は打てん」と当初の「暫くは自由にやらせてフォームはいじらない」という球団の方針を撤回してフォーム改造に乗り出した。

「守りはともかく打つ方は平田(阪神)以上で即戦力。すぐにでも一軍でやれる(田村スカウト部長)」との評価は音を立てて崩れ落ちた。長年慣れ親しんだフォームを変えるのは至難の業で結果は直ぐには出ず悩みに悩んでキャンプイン1週間で尾上の体重は8kgも落ちてしまった。朝8時15分の散歩から始まり10時の球場入り後は午後3時過ぎまで練習メニューを消化し皆が引き揚げた後に個別で打撃と守備特訓。夕食後の8時半から11時頃まで「黒江打撃教室」に通うのが日課となっていて「部屋に帰ると風呂にも入らずバタンキューです」

しかし痩せるのも当たり前のスケジュールをこなして来たのにあの一発以降も打てない…3月4日のロッテとのオープン戦に三塁手で先発出場したが4打数無安打、守りの方もどこかぎこちない。「おかしいっスね、村田さん以外の投手の球は打てない感じじゃなかったのに…新しいフォームにも慣れてきましたから焦らず頑張りますよ」と努めて明るく振舞っているのが逆に痛々しい。「ポッと出の大学生がいきなり打てる方がおかしいですよね。練習また練習です。24時間野球漬けが今の僕に出来る事です」と尾上は歯を食いしばる。





右田一彦…プロ初先発(2月28日・日ハム戦)を控えた前夜、右田は試合に備えて静養しているのかと思いきや宿舎を抜け出して静岡市内のパチンコ屋にいた。それも足元には銀玉がぎっしり詰まった千両箱が。「野球と同じで負けるのは気分が悪いですから」と7千円見当のプラスの成果だった。この男にはオープン戦くらいではプレッシャーとは無縁のようだ。

木田投手と投げ合った結果は3回を投げ被安打3で1失点とまずは合格点の内容だった。心配そうに見つめていた湊谷スカウト部長は「キャンプ疲れのピークかな。アマ時代と比べるとスピードは物足りない。アイツの力はこんなもんじゃないですよ」と気遣ったが本人はケロッとしたもので「内容はまぁまぁじゃないですか。緊張?いや、紅白戦と変わらなかったですよ」と相変わらずの強心臓だった。

キャンプ前から「放言ルーキー」として面白おかしくマスコミに取り上げられていたが、達者なのはクチだけでなく実力の方も確かなようだ。「僕ってそんなに図々しい事を言っていますかね?活字になるとキツイ物言いになるけど実は小心者で周囲に気を遣っているんですよ新人ですから」本来なら球団も新人をPRするところだが逆に「本人も気にしているからあまり記事にしてくれないで欲しい」と注文する始末。

自主トレ初日に関根監督から「オープン戦の九州遠征ではどこで投げたい?」と聞かれ「長崎(対中日)がいいです。実家(熊本)からも近いですから親類や知人も見に来やすい」と即答していたが、キャンプで結果を残して地元凱旋登板を実力で手にした。しかし好事魔多し、親類縁者21人の大応援団の前で3回を投げて被安打5、四死球3で7失点の失態を演じてしまった。「自分のリズムで投げられなかった。一からやり直しです」と言葉少なく球場を後にした。





平田勝男…当初、首脳陣の平田に対する評価は真弓に疲れが出始めた頃を見計らって守備要員として使えれば充分~あくまで真弓の控えというものであったが今は嬉しい誤算を感じ始めている。「六大学No,1内野手」はともかく「どこの球団へ行っても即レギュラーの力を持っている(島岡監督)」については眉ツバものと冷ややかな声もあったが実戦形式の段階に入ると周囲を唸らせるだけの力量を平田は見せつけ始めた。

元々定評があった守備よりも巧打の方でアピールしている。紅白戦やオープン戦8試合全てで安打を放ち25打数10安打、打率.400 とくれば「だから2位指名で取れる選手じゃないんだ。1位指名が当然の力を持っているんだよ」という島岡監督の声が聞こえて来そうだ。逆に前評判が高かった守備に関しての評価は今ひとつ。「腰高で手投げ」「上半身に柔軟性が無い」ただ「守備は練習を積めば積むほど良くなる。打撃はセンスが必要だけどね」と安藤監督は合格点を与える。

ここに来て「近い将来は格好の二番打者になれる」と安藤監督は平田の起用プランを口にするようになった。「大学時代も二番を打ってきたのでバントや右打ちも抵抗なく出来ると思っている」と平田本人も自信をのぞかせる。平田が遊撃手のポジションを取るとなると真弓はどうなる?かつてライオンズ時代には外野手が本職だっただけにコンバート話が持ち上がる可能性すらある。平田の予想外の活躍で阪神首脳陣は嬉しい悲鳴を上げる事となるのか・・
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#268 昔日の豪腕投手

2013年05月01日 | 1982 年 



「あの時に山口を指名しとけばなぁ」昭和50年、阪急-近鉄のプレーオフ敗退後の藤井寺球場のロッカールームで近鉄・西本監督がポツリと呟いた。前年のドラフト会議で一番クジを引き当てた近鉄だったが指名したのはその年の目玉であった山口投手(松下電器)ではなく同僚の福井投手だった。「契約金が高過ぎる」…それが近鉄本社の意向で指名を見送り二番クジだった阪急が棚ボタで山口を獲得した。1年後の今、その新人投手がプレーオフ第2・4戦で完投勝利を収め近鉄の前に立ちはだかり日本シリーズ進出の夢を打ち砕いた。

その勢いのまま広島との日本シリーズに突き進みチームは4連勝、山口も4連投で球団初の日本一の瞬間のマウンドに立ち上田監督の胴上げに続き「次はタカシや」の声と共に宙を舞った。入団1年目から4年連続2桁勝利、昭和53年には13勝4敗15Sでセーブ王を獲得したが翌年に肩を痛めると成績は下降線を辿る一方となった。昭和54年は1勝、翌55年も1勝、昨年は遂に勝ち星なしに終わった。


昨年の昭和56年4月27日、西宮球場での西武戦の5回途中から登板した山口は山崎に特大の一発を含め9安打7失点の滅多打ちにあい降板、即二軍落ちを告げられた。山口に対して上田監督は「闘争心が無くなったのならユニフォームを脱げ。『山口高志』という名前を大事にしたらどうだ」と引退勧告まで突きつけられた。あれからほぼ1年、秋季キャンプ・自主トレ・春季キャンプ・オープン戦と球を投げ続けた。自主トレ期間中にフリー打撃に登板したのはプロ入り以来初めての事で、それ程に山口の復活に懸ける思いは強い。

3年間も低迷を続けるきっかけは昭和53年のヤクルトとの日本シリーズ直前に襲って来た腰痛だった。抑えの切り札である自分が戦列から離脱する訳にはいかないと痛みに堪えて練習を続けたのがいけなかった。とうとうパンクし腰痛の権威である大阪大学附属病院の小野教授の診察を受けた。椎間板ヘルニアとか腰椎分離症といった明確な病名ではなく、長年の酷使により疲弊したものと少々曖昧な結果であった。幸い手術は避けられたが痛みが引いても再発を恐れるが余り無意識のうちに腰を庇う投球フォームになり、球威は落ちて往年の豪速球は影を潜めた。

思えば自分ほど幸福な道を歩んで来た者はいない、と山口本人は思っている。関大で通算46勝の記録を作り大学日本選手権や日米大学野球選手権で優勝、都市対抗野球では小野賞を受賞しプロ入り後はいきなり日本一の立役者となった。「順風満帆すぎて腰痛でダウンするまで苦労という苦労を経験してなくて抵抗力が無かった。不屈の闘志で長年の肩痛からカムバックした足立さんを手本にしなければ」と自らを奮い立たせる。だが「ストレートだけで勝負して来た俺が今じゃチームで一番の球種持ちなんだよ。でもね、どれ一つ満足できる変化球じゃないんだ…今更ながら自分の不器用さに呆れてるよ」と寂しく笑う。




結局、山口は復活する事なくこの年オフに引退しました。一番好きだった選手でしたが肩の故障も腰を庇ってフォームを崩したのが原因とされていただけに腰を痛めた時に思い切って手術をしていれば…と思わなくもないです。
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#267 超・管理野球

2013年04月24日 | 1982 年 



広岡新監督を迎えた西武が生まれ変わろうともがいている。「新風」のキャッチフレーズに応えるべく次々にアドバルーンをブチ揚げた。と言うより揚げざるを得なった。それほど広岡監督の目には去年までの西武はプロ失格の体たらくに映っていたのだ。先ず広岡が着手したのが田淵の改造計画だ。田淵をターゲットにする事でチーム全体に意識改革を強いたのだ。

田淵は確かに変わった。先ず見た目からスッキリ体重が落ちた。昨シーズン中に95kg前後の巨体を揺らしていたのが嘘のようだ。西武の宿舎「桂松閣」の大広間に1枚の紙が貼ってある。そこには全選手の体重を記入する欄があり朝食を終えた時点と練習後の2度、毎日記入する。田淵の欄には「88kg・86kg」と記されているが、それによって田淵の動きが軽快になったのかと言うと「否」である。悲しいかな体重が減ったくらいでは長年の錆は落とせない。

西武きっての人気者でパ・リーグ移籍後ようやく指名打者制にも慣れて存在感を示し始めた田淵を広岡監督は何故一塁へコンバートするのか。それは「中心打者が指名打者ではセ・リーグの野球には勝てない」という自論からだ。捕手失格となった田淵が一朝一夕で一塁手をこなせる筈もなく当然の如くもたついたが、それは広岡監督の想定の範囲だっただろう。しかし田淵の拙守の悪影響はチーム全体に響く。2月23日の紅白戦無死一塁の場面で岡村が一ゴロ、普通なら併殺打だが一塁手・田淵が打球をファンブルしさらに悪送球。遊撃手の石毛はいつも通りに二塁ベースに入るが田淵がまごついた事でタイミングがズレて走者と交錯し左膝内側側副靭帯を損傷してしまった。責任を感じたのか翌日、田淵は風邪を理由に宿舎の自室に閉じ篭ってしまい広岡監督の発案で取り組み始めたチーム改造計画はいきなり躓いてしまった。

前途多難なのは田淵一人だけではない。紅白戦で1試合を通じて42球も一塁へ牽制球が投げられる珍事が起きた。首脳陣は「??」試合後に質すと次のような経緯だった。走者を置いた投手が先ず塁上を見ると野手から「牽制」のサインが出された。次に捕手を見ると「打者勝負」サインが。戸惑った投手はとりあえずプレート板を外して一塁へ牽制球を投げた。森コーチによれば「本来ならサインプレーは捕手からの指示で行なうもの。しかしこのチームは去年まで牽制のサインは野手が出していた。今年からは捕手の指示優先を徹底したつもりでいたが長年の習慣は容易には抜けず投手が混乱したらしい」との事。「前任者の根本(現管理部長)さんから『覚悟しておいてくれ』と言われた意味がやっと分かった(広岡監督)」何しろ去年まで野手と投手がてんでんバラバラにプレーしていたチームだけに広岡監督以下首脳陣も頭が痛い。




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#266 期待の星 ③

2013年04月17日 | 1982 年 


森脇浩司(近鉄)…猛牛打線が象徴するように近鉄は打撃優先のチームだ。その近鉄に守備のスペシャリストがいる。端正な顔立ちの森脇だ。元々守備には定評があったが今年に入ってからはさらに磨きがかかってきた。打球に対するスタートの勘の良さ、軽快なフットワーク、そして正確なスローイングとどれをとっても「パ・リーグで一番」と仰木コーチは絶賛する。関口新監督も「日本一の遊撃手になれる器」と賞賛。

「練習量で人に負けるのはイヤ」「実績が無いから練習の時からが勝負なんです」「もう充分練習したと納得した後にオマケに1つ練習するようにしている」居残り特打に特守、夕食後は素振り、とにかく今年のキャンプは練習・練習・練習なのだ。

その結果は守備の進歩だけでなく打力の大幅アップにもつながった。紅白戦の打率はチーム最高で右へ左へ打ち分ける技術もかなり身に付けてきた。課題の打撃も進境著しいとあって関口監督も「守りは当然、打つ方でもピカ一や」と今キャンプの成果に大満足のようだ。
 
【 通算成績 244安打 14本塁打 打率.223 】



源五郎丸 洋(阪神)…久々の大器出現に「無理はさせない」という方針の下、源五郎丸に許されたのは「捕手を立たせたままの30球」だが逸材ぶりを周囲に知らしめるには充分で、その投球は安芸キャンプを訪れた評論家の目を釘づけにした。「高校生でこれだけ安定感のある投げ方をする投手は珍しい(村山実)」「逞しい上半身とドッシリとした下半身は池永や尾崎の再来(須藤前大洋二軍監督)」と賛辞は枚挙に暇がない。チーム内でも予想以上の好評価につられてか二軍のグラウンドに足を運んだ安藤監督と小山投手コーチも真剣に一軍昇格を検討し始めた。

源五郎丸の特徴は身体の柔らかさとバネだ。早大のセレクションを受けた際に反復横飛びや立位体前屈といった身体能力テストが参加者中唯一満点で周囲を驚かせた。大きくワインドアップする、左ヒザを上げる、テークバックからしなるように出される右ヒジ、そして右足を高く蹴り上げてフィニッシュ。その間、途切れる事なく見続ける捕手のミット目がけて糸を引くような回転の良い直球が放たれる。安藤監督が2月24日に急遽一軍に上げたのは上の雰囲気に慣れさせようといった気軽なものではなく本腰を入れて一軍で使うと考えたからであろう。

柴田コーチと若菜捕手相手に60球を投げると「若い時の鈴木孝政(中日)そっくり。開幕から一軍でいけるんじゃないの(柴田)」「手元でグイッと伸びるあたり一級品(若菜)」と両者ベタ褒めだ。では池永や尾崎のように鮮烈なデビューを飾る事が出来るのだろうか?久保スカウトは「もし彼らのいた時代なら源五郎丸も開幕から勝ち星を上げる事も可能だろう。でも現在はその頃より打撃レベルが進歩したからいきなり活躍するのは無理でしょう。じっくり2~3年かけて育てる方が将来の彼の為になる」と否定的だ。

【一軍試合出場なし】 



金沢次男(横浜大洋)…21日の紅白戦で白組先発の金沢は同じく登板した新人・右田(2失点)を向こうに回して3回を2安打無失点と好投した。金沢はひとつ道を間違えたら今頃はプロゴルファーになっていたかもしれない。茨城県の佐竹高出身だが籍こそ野球部にあったが在学中は殆んど練習をしていなかった。というのも新設校ゆえにグラウンドが整備されておらず近くの空き地で素振りをするのが日課という有様で試合をすればコールド負けが当たり前の環境で練習に身が入らないでいた。中学時代に近所のオジサンから貰ったゴルフクラブを自己流で振っているうちに野球よりもゴルフに興味が移っていった。

「高3の時にやっとグラウンドが出来て真面目に野球に取り組むようになってゴルフ熱は冷めていきました」と言うものの現在のゴルフの腕前はハンデがシングルだ。高校卒業時には三菱自動車から誘いが来るほど投手として成長し、後に阪神入りする福家とエースの座を争うまでになる。関根監督も「とにかく良い度胸をしている。球威もあるし変化球もカーブ、スライダー、フォークと多彩で学校出の新人とは一味違います」とゾッコンだ。他球団の偵察隊も「球の出所が分かりづらく球質も重そうですね。低めにしっかり制球されているし要注意な存在(阪神・山本スコアラー)」と警戒する。

ドラフト後の12月13日に結納、今年の1月10日に挙式。「新婚旅行にも連れて行ってないから今年は精一杯やってオフには堂々と海外へ行きたいですね」契約金の一部を注ぎ込んで横浜市に3LDKのマンションを購入した。まだかなりの借金も残っていて「やるしかない」と自らを追い込んでいる。知子夫人も堂々としたもので「給料さえ運んでくれたら文句は無いですよ。怪我が心配?危険は多いでしょうがサラリーマンだって交通事故に遭う事だってあるでしょうから心配してたらキリがないです。まぁ建築現場関係の仕事だと思うようにしています」と、この新婚さんは夫婦揃って頼もしい。
  
【 通算成績 60勝70敗7S 防 4.21 】




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#265 期待の星 ②

2013年04月10日 | 1982 年 


玄岡正充(ヤクルト)…若松二世の誕生だ。鹿児島商工出身2年目の19歳が熾烈な外野手のポジション争いで1歩リードしている。1㍍68㌢、71㌔の若者はユマキャンプで急成長した。「玄岡を見ていると野球の上手い・下手はつくづくセンスのせいだと思わせるね。毎日血の滲むような努力をしても結局は一軍に上がれず野球界を去る選手が大半。チャンスをものにしてレギュラーを掴む選手には共通して『センス』があるけど玄岡も持ってるね」と首脳陣の評価もウナギ登りだ。

ユマで合流した新外人のデントが球場に来て目を丸くして驚いたのが玄岡のバッティングだった。「彼が野球選手だとは思ってもみなかった。今朝ホテルで見かけた時はチームメイトの子供がキャンプ見学をしに来てると思ったんだ。だってあの体格と童顔だもの、どう見てもハイスクールの生徒だろ」その"高校生"が小さな身体からは想像出来ない程の快音を響かせていたのだ。紅白戦ではレギュラー組の一番・中堅で皆勤賞。延べ40日間に渡る長いキャンプのせいか終盤は疲れが出てやや精彩を欠いたものの、18試合・50打数・13安打(2割6分0厘)。西井投手から120㍍の本塁打も放ちパンチ力も備えている事を示した。

若手選手は夕食後に宿舎裏手の駐車場で素振りをするのが日課になっていて玄岡も1日も欠かさず参加していた。下がコンクリートなので100回、200回と素振りを続けると靴底が擦れて穴が開いてしまう。大抵の選手は2足くらいを履き潰したが玄岡だけが4足だった。しめて160ドル(約3万6千円)の出費は薄給の身には痛かったが「自分が上手くなる為には惜しみません」と気にしていない。若松も自分の後継者出現に「アイツには僕が持ってるものを少しでも伝えてやりたい」と夜の素振り練習に足を運びコーチ役を買って出ている。
   
【 通算成績 66安打 7本塁打 打率.264 】


西岡良洋(西武)…右翼から一直線に猛スピードで御辞儀する事なく伸びる送球、これが噂の西岡のチーム、いや球界でもズバ抜けた強肩だ。紅白戦で西岡が右翼を守っていて右前打が出ても一塁走者で三塁を狙う者はいない。右翼線の二塁打性の当たりでも打者走者は二塁ベース数㍍手前で刺される。「一軍かって?当然。あの肩だけでお金が取れる」と選手の評価では厳しい観察眼を持つ広岡監督が珍しく褒めるほどだ。

昭和55年に和歌山県の田辺商からドラフト外で入団した3年目の選手。人との出会いは時として運命を変える。広岡新監督との出会いがそうだ。「広岡監督が『守りの野球をする。過去の実績は問わない』と言ったのを聞いて、よしチャンスだと思いました」と西岡は奮起した。西武の右翼は激戦区だ。左翼は立花、中堅はテリーで決まり、残る右翼を岡村・蓬莱・駒崎らと争う事になる。武器の強肩に加えて足も速く課題は打撃だが日に日にスイングも鋭くなりパワーも付いてきた。

西岡は未熟児で生まれてきた。野球を始めたのも身体を強くする為だったが大阪・堺のリトルリーグ時代に右肩を痛めてしまった。「痛みは肩の筋肉を鍛える事で消せる」と教えられて筋肉強化に努めた。毎日5㌔の鉄アレーを持ち上げる鍛錬を続けると1年後には痛みは消えていて、その副産物として今の強肩を生んだ。ちなみに当時のリトルリーグ仲間だったのが南海・香川だ。「あの頃の香川はホッソリしていて今とは別人だった。彼が甲子園に出た時の姿を見た時はビックリした」と懐かしむ。背番号が「69」から「23」に変わった今季の目標は大きく走・攻・守、三拍子揃った広島・山本浩だ。

【 通算成績 403安打 50本塁打 打率.246 】


斉藤浩行(広島)…一軍合格間違いなしを印象づけたのは25日の紅白戦で同じ新人の津田から放った右翼線二塁打だ。内角球にバットを折りながらもしぶとく右方向へ打った打撃に首脳陣は唸った。加えて最終回には満塁の走者を一掃する今度は左中間への二塁打のオマケ付き。「球にしっかり喰いついていて振りも鋭い。実戦を経験させる為に今後も一軍に帯同させます」と古葉監督も目を細める。1㍍89㌢、83㌔の恵まれた体格で東京ガスからドラフト2位で入団した「ポスト山本浩二」の有力候補だ。登録は外野手だが「3個しかないポジションが無い外野では出番が少ない。内野もこなせるようになれば…」との声に「ポジションに拘りは有りません」と即座に内野手用グラブを調達して三塁手に挑戦中だ。

宇都宮商時代にも三塁手の経験があり急造内野手の割にはソツなくこなしている。阿南二軍監督も「上背のある選手は腰高になりがちだがそれも出てないし動きも柔らかい」と現時点では及第点を与える。宇都宮商卒業時にはクラウンを除く11球団が指名の挨拶に訪れたが本人は「プロへは行きません」と断っていた。「いきなりプロへ行くのには不安があったので。体力的にも技術的にも社会人を経験した方がプラスだと考えた結果でしたが正解だったと思います」「趣味は素振りです。1日に400回は振りますね、他にやりたい事も無いですから」と今は練習漬けだ。

キャンプ中盤でのフリー打撃では左翼スタンドへポンポンと放り込むパワーを見せつけている。「凄いパワーだな。この時期にあそこまで飛ばす奴はなかなかいないよ」と長らく待たれていた後継者出現に本家・山本浩二も目をシロクロ。他球団の偵察部隊も「若い頃のコージの雰囲気に似ている」と警戒を怠らない。一昨年のドラフトで原(巨人)の獲得にクジ運ひとつで失敗し大型三塁手の台頭を待ち焦がれていたカープに待望久しい選手が現れた。
  
【 通算成績 89安打 16本塁打 打率.196 】
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