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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#292 1982年・ドラフト会議 ①

2013年10月16日 | 1982 年 



ヤクルトスカウト陣にとってそれは青天の霹靂と言えるものだった。ドラフト会議を一週間後に控えた11月17日、東京・東新橋にあるヤクルト本社7階の球団事務所に武上監督、相馬球団代表、塚本スカウト代表、片岡・巽スカウト、田口総務部長が顔を揃えての第4回スカウト会議真っ最中に会議室の電話が鳴った。電話の相手は松園オーナーで相馬代表が16階にある社長室へ呼び出された。戻って来た相馬代表は開口一番「1位指名は荒木(早実)でいく」と松園オーナーの指令を伝えた。その瞬間、武上監督の表情が一変した。チーム再建には投手力の充実が急務で度重ねたスカウト会議で既に野口投手(立教大)の1位指名入札と外れた場合は岡本投手(松下電器)とする即戦力の指名が決まっていて、荒木の名前は早い段階で指名リストから除外されていたからだ。

確かに荒木人気は捨てがたいが本人は大学進学を口にしていてプロ入りの可能性は薄いと見られていた。ところが松園オーナーは独自のルートでプロ入りの手応えを掴み荒木指名の指令を出したのだ。荒木家に影響力を持つ後見人のA氏と接触して実は荒木家は家業の工務店の実情は苦しく、何より早大に進んでも4年後には二束三文の投手になっているかもとの不安を荒木自身が持ち進路を決めかねている事実を掴んだ。さらには早大進学自体が確約できる状況ではない事が分かった。これにスター選手不在で人気対策に苦慮していた松園オーナーが飛びついた。実力的には「完成され過ぎて伸びシロは無い(在京球団スカウト)」と分かっているが、あの人気をみすみす逃す手はないとスカウト陣の意見を無視した強権発動だった。

しかしスカウト陣や武上監督らの声に押されて松園オーナーは「外れ1位」での指名まで譲歩する事になる。ところが荒木の周辺を再調査してみると巨人と西武に荒木指名の動きがある事が分かった。特に巨人はセンバツ大会の頃まで「1億円を出しても惜しくない」と他球団以上の評価をしていた。「外れ1位では獲れない、1位指名入札あるのみ」としてドラフト会議3日前の第5回スカウト会議で松園オーナーの指令通り「荒木1位指名」が正式に決まった。スカウト会議に出席していた武上監督は会議室から出るやいなや「ウチは荒木だ!」と不機嫌そのものに声を荒げた。ヤクルトが荒木指名を明言すると西武は撤退したが巨人はまだ決めかねていた。

藤田監督をはじめ現場の要望は左腕投手だった。江川、西本、定岡ら右腕投手は充実していて数年先まで心配はない。一方で先発できる左腕投手は新浦投手くらいで、その新浦投手にも衰えが見え始めていて後釜には野口投手が適任であると考えていた。しかし球団フロント陣は荒木人気を捨てきれずにいた。2年前の「原フィーバー」よ再びと考えたのだ。荒木を即戦力だとは夢にも思ってはいない。強固な一軍投手陣に食い込んでくるのは無理かもしれない。でも顔見せ興行で一度でも登板させればマスコミには取り上げられ宣伝効果を考えれば契約金などの元は取れる。勝つだけがプロ野球ではない筈で人気取りとの批判は甘んじて受けようと荒木指名を決めた。

11月25日、九段のホテル・グランドパレスで行われたドラフト会議で荒木はヤクルトと巨人から1位指名され、相馬代表と藤田監督が抽選箱の前に立った。先に引いた相馬代表が箱から取り出す際にクジを落とすというハプニングがあったが結果はヤクルトが交渉権を得た。実は相馬代表よりも先に藤田監督がカメラに向かって引いたクジを高々と上げて笑顔を見せた為に「荒木は巨人!」と周囲は早とちりをした。「何も書いてないのを示しただけ」と藤田監督はとぼけたが、あの瞬間の「笑顔」は何を意味しているのか?荒木でなくてホッとしたのか、それとも正真正銘の苦笑いだったのか?真相は本人のみ知るところだが「人気と実力を兼ね備えた荒木君を指名できて大満足(武上監督)」「荒木君を外したのは残念だったが即戦力に近い岡本投手を2位で指名できたのは大きい(藤田監督)」と大人の対応をする御両人だった。

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