Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 344 大島康徳

2014年10月15日 | 1983 年 



昨年の近藤竜・初Vの蔭で一人だけ蚊帳の外にいた大島。あの忌まわしい交通事故以来、何故か自分を襲い続ける不運と手を切れずにいる悩みはかなり深い…昭和54年には打率.317 ・36本塁打・103打点とリーグ2位&3位の成績をあげながらベストナインには王(巨人)が選ばれた。その王が「トータルで見れば大島君が受賞する方が相応しい」と発言した。その主軸を打つべき大島が4月12日の横浜戦で「二番」で先発出場した。近藤監督の新打順構想に「二番・大島」プランがあると報道陣から聞かされても半信半疑、オープン戦で二番を打っても「オープン戦だから。悪くても六~七番だよ、二番を打つくらいならベンチにいる方がマシ」とまで言い切った。しかしそれは現実のものとなった。

昭和44年、投手として大分・中津工から中日入り。入団後すぐに野手に転向して早くも2年後には一軍デビューを果たした。昭和46年6月17日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)の5回裏、代打でプロ初打席。会田投手から左前に初安打、更に9回裏には石岡投手からプロ入り初本塁打を放つ鮮烈なデビューを飾った。その後も順調に成長して打線の主軸を打つまでになり、王をして「彼こそ真のベストナイン」と言わしめた昭和54年がプロ野球選手としての絶頂だった。しかし悪夢はすぐ傍で待ち構えていた。昭和55年4月13日のヤクルト戦(神宮)は未明からの大雨で早々と中止が決定。その為、球団は14日の帰名予定を13日に繰り上げた。本来なら試合を行なっていた筈の13日夜、名古屋に戻った大島は開幕5連敗の憂さを晴らす為に夜の街に繰り出した。友人たちと麻雀をやり気分を晴らした後に帰路についた。雨がそぼ降る道路で前を行く車がスリップ、急ブレーキを踏むと車は中央分離帯を飛び越え大破し大島も全身打撲の大怪我を負った。「彼の車が外車(トランザム)じゃなかったら恐らく死んでいただろう(警察関係者)」と言う程の大事故だった。

この事故の影響は大きかった。今風に言えば大島を「ネアカ」から「ネクラ」な人間に変えてしまった。 " 交通事故… " が大島の枕詞になった。打撃不振に陥れば「後遺症で視力が落ちているんじゃないか」 守りでエラーをすれば「恐怖で球から逃げているのでは」など何をやっても事故と結びつけられた。「交通事故は誰のせいでもなく僕の不注意が原因。球団に迷惑をかけたと思うと、ただ黙して自省するのみです」と多くを語らない大島に世間は更なるバッシングを続けた。それでも大島は無口を通した。自省を続けた大島だが昨年に二度だけ我慢がならず烈火の如く感情を爆発させた。一度目はシーズン中の6月上旬、大島は開幕から不調だった。打率は2割5分にも届かず本塁打は5本、40試合を過ぎた頃の熊本での広島2連戦で何度も自分に巡って来たチャンスに凡退し2試合とも僅差で負けた。「大島君のお蔭です」と広島関係者の軽口にも打てない自分が悪いとジッと耐えたが中日球団幹部の「もう大島は終わりだ。トレードに出そうにも欲しがる球団も無いだろう」には流石に耐えきれなかった。

二度目はその球団幹部が査定した昨年の契約更改の席だった。提示された金額は200万円の減俸。確かに打率.266・18本塁打・60打点 は主軸と期待されての数字としては物足りない。それでも8年ぶりのリーグ優勝に貢献したとの自負がある。勝負どころの9月下旬、ナゴヤ球場での巨人との直接対決で角からサヨナラ中前打、阪神戦でも山本和からサヨナラ左前打とチームを救ってきた。谷沢と2人でチームを鼓舞してきたのに減俸である。「チームを纏める為に自分達がしてきた事は球団はまるで分かっていない」大島は怒りを通り越して悲しくなった。今だから言えるがチームは一度、崩壊寸前までいった。監督の投手起用に対して主力投手が反発して一時は険悪なムードがチーム全体を覆ったのだ。その投手に「気持ちは分かるが辛抱してくれ、頑張って優勝しようじゃないか」と大島と谷沢の2人がかりで説得した事もあった。結局、度重なる交渉の末に最初の200万円減から100万円減となる2100万円で更改した。

あの事故以来、大島は「何で俺だけ」との思いを持ち続けてきた。実は谷沢も大島同様に契約更改で揉めた。最初は100万円増の2700万円の提示だったが越年交渉の結果、何と一挙に700万円増の3300万円になった。待遇の違いに球団に対し「俺への評価はこの程度か」と腐った。人は「巡り合わせが悪い」「そういう星の下に生まれたんだ」と言う。ここ4~5年、オフになるとトレード話が必ず浮上する。別の球団幹部は「大島クラスでも…と言う意味じゃないの?私の耳には入って来ないけど」と否定するが本人にとっては落ち着かない。近藤監督のターゲットも大島だった。「中日には守備の穴が4つある」「だから諸君(若手)らも頑張れば大島だって抜ける」と大島の名前を挙げて訓示し、それを伝え聞いた大島は「また俺かよ…」となる。8年ぶりの優勝の恩恵に与れないどころか守りと鈍足を理由に打順をタライ回しに。「悔しいけどヤレと言われた所で頑張るよ。残り少ない選手生活を自分の為だけにね」…男とは何と悲しい生き物なのか

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# 343 二匹目のドジョウ

2014年10月08日 | 1983 年 



初打席満塁本塁打というド派手なデビューをした3年目の駒田に続いて同じ巨人から今度は2年目・19歳の槙原寛己が初登板・初先発・初完封、それも 0対0の延長戦を投げ抜きプロ初勝利を飾った。駒田の衝撃デビューから6日後の4月16日、篠突く雨の甲子園球場でまた一人ヒーローが誕生した。槙原寛己(19歳)、「あがりはしなかったけど阪神の応援がうるさくて…。カーブは見せ球で、あとは全て直球勝負でした」と延長10回を一人で投げきり涼しい顔で言ってのけた。熱投 145球、最高球速 149km、平均でも145km前後の球を最後まで投げ続けた。

「今日は負けてもいいから槙原と心中した」と藤田監督に言わせた。槙原が生まれた1年後にプロ入りした藤田平や若虎・掛布を自慢の豪速球で捻じ伏せた。ゼロ行進が続いた延長10回表に味方が取った1点を守りきった。最後の打者の掛布が放った中堅への大飛球が中井のグローブに吸い込まれた瞬間、初登板を完封勝利で飾った。スタンドの7~8割は阪神ファンで埋め尽くされた過酷な状況下で勝つ為の頼りは自らの直球だけだった。山倉のミットだけ目がけて投げ続けた。

「おいマキ、甲子園の第2戦はお前が行くぞ」 中村投手コーチが槙原に先発を告げたのは駒田が派手なデビューを飾りベンチ裏が記者でごった返していた時だった。しかし槙原は先輩・駒田が眩いフラッシュを浴びながら多くのマスコミに取り囲まれている喧騒を自分の事のように興奮していて中村コーチの話をきちんと聞いていなかった。「前の晩に準備は大丈夫か?と聞いたらアイツ、『エッ、先発ですか』と目を丸くしていたよ」と中村コーチは笑いながら明かした。

大府高校時代に投げた甲子園球場とは明らかに雰囲気は違っていた。プロ初登板の投手を威圧するような阪神への応援が渦巻くマウンドに向かう槙原に中村コーチは「グアムから宮崎、そしてオープン戦とお前は夜も惜しんで練習したよな。その練習のままを出せばいいんだ、欲は出すなよ。それから四球を恐れて球を置きにいかないでくれ、思い切り腕を振れば打たれたっていいんだ」と言い渡し送り出した。2回まで無難に阪神打線を抑えていたが3回一死からアレン・北村に連続死球を与えてしまった。「マズイ、何とか一巡目は持ち堪えたがこんな崩れ方もあるのか…」 野球の裏の裏まで知り尽くした牧野ヘッドコーチは天を仰いだ。

中村コーチがマウンドへ駆けつけた。「どうした、雨で球が滑るのか?」と問うと「いいえ、胸元を狙ったのが少しズレただけです」と答えた。それを聞いた中村コーチは直ぐに踵を返した。外角を狙った球がスッポ抜けたのなら「ご苦労さん」と交代させるつもりだったが、この若者は全く逃げていなかった。並みの投手なら2人連続でぶつけたら遠慮するものだが次打者の佐野に投じたのはまたも内角の厳しい球だった。阪神ベンチからの野次は一瞬で消え、佐野は三塁への詰まったハーフライナーに倒れた。そして二死一・二塁で打席には掛布が入った。

この試合が記念すべきプロ入り1000試合目だったセ・リーグを代表する打者の掛布をプロ2年目の投手が睨み付ける。昨年11月23日の秋季キャンプ中の練習試合で高卒新人の槙原と初めて対戦した掛布はその印象を問われ「まだまだ一回りの投手だね。確かに球は速いけど2巡目になると球威は落ちていた。まぁ、あと2~3年は焦らず二軍で力を付けて頑張って欲しい」と余裕のエールを送っていた。あの若者が今まさに半年前とはまるで別人の姿となって自分の前に立ち塞がっている。

1球目、直球でズバリとストライク。2球目も直球。掛布は狙いすましたように強振するがバットは空を斬った。3球目、遊ぶ事なく3球勝負の直球。虚を突かれた掛布は辛うじてファールで逃れる。続く4球目、「カーブも考えたが自分には直球しかなかった」と試合後の槙原が語ったようにまたも直球。やや外角寄りの高目の球で空振り三振を奪いピンチを脱した。掛布の視線の先には堂々と胸を張りマウンドを降りる姿があった。半年前、自信無さげにマウンド上でおどおどしていたあの時の面影は消えていた。

試合が4回を過ぎたあたりから雨は本降りになった。カクテル光線に乱反射する雨の中でも槙原は冷静さを失わずにいた。「野村さんも同じ条件の中で投げている。負ける訳にはいかない」 阪神の先発は36歳の大ベテラン・野村収投手、4球団を渡り歩き辛酸を舐め尽したプロ15年生だ。延長10回裏二死、最後の最後に4度目となる掛布との対決が待っていた。あわや、という中堅への大飛球だったがもうひと伸び足りず掛布にとって屈辱の1000試合出場となった。そう言えば2年前の夏、槙原が初めて甲子園のマウンドを踏み報徳学園相手に勝ち名乗りを上げた時もやはり甲子園球場は雨模様だった。



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# 342 満塁男誕生

2014年10月01日 | 1983 年 



昭和55年のドラフト会議で原(東海大)に続き2位で指名された駒田。奈良・桜井商時代は投手兼一塁手だったが投手よりも打者として注目を集めた。高校3年間の通算本塁打は43本、特に2年生だった昭和54年秋の県大会では4試合連続の5本塁打を放ったが、そのうち4本は橿原球場の場外に飛ばす特大弾だった。3年生になると対戦相手校が勝負を避けて徹底的に歩かされ満塁の場面でも敬遠されたのは有名な話だ。この話にはオマケが付いている。次の打席も再び満塁の場面だったが今度は相手も勝負してきた。結果は見事に満塁本塁打を放った。これだけを聞くと桜井商が試合に勝ったと思われがちだが実は「駒田投手」が13四死球と大乱調で大敗したのだ。それほど規格外だった駒田もプロの世界では壁にぶち当たった。1年目は二軍で62試合に出場し179打数34安打・打率.190 ・3本塁打、2年目は77試合に出場して268打数69安打・打率.257 ・7本塁打と成績は向上したが一軍レベルには程遠く、二軍暮らしが続いた。

3年目の今年、グアムキャンプに抜擢されその後の宮崎キャンプも何とか一軍に生き残りオープン戦も帯同した。暫くは代打出場のみだったが3月20日の阪急戦で左手甲を痛めた原の代わりに中畑が三塁に回り、空いた一塁に駒田が起用された。第1打席こそ凡退したが2打席目に山沖から左翼線二塁打、続く打席も右前打し結局4打数3安打と結果を出した。終わってみればオープン戦で15打数7安打・打率.467 と結果を残して3年目にして初の開幕一軍を手にした。開幕戦での出番はなかったが翌4月10日の対大洋2回戦の試合前に中畑が右手首を痛め欠場する事に。通常なら控えの山本功が出場するのが妥当だが藤田監督は七番・駒田の起用を決めた。

1回裏、巨人が2点先制した後なおも一死満塁の場面で駒田に回ってきた。先発の大洋・右田投手がカウント2-1から投じた4球目を右中間スタンドに叩き込んだ。これで波に乗った駒田は3回裏の一死二・三塁で右翼線二塁打で2打点。5回裏の二死三塁では三振を喫したが何と振り逃げで一塁に生きるなどツキまくっていた。仕上げは7回裏の最終打席に右安打してデビュー戦を4打数3安打6打点で飾った。初打席満塁本塁打も凄いがデビュー戦で3安打固め打ちも滅多に出来るものではない。現役選手では南海・新井(昭和50年7月26日・対太平洋ク)、西武・石毛(昭和56年4月4日・対ロッテ)、阪神・田中(昭和57年8月15日・対巨人)の3人がいるが6打点をあげた打者は見当たらない。

衝撃のデビュー以降も駒田は活躍している。4月12日のヤクルト戦では5回表一死後、中前打で出塁すると一塁牽制球が悪送球となり三進し先制点の足掛かりとなり翌13日は5回表二死二・三塁で左前に適時打。4月13日現在、11打数5安打・打率.455・7打点で中畑から正一塁手の座を奪いかねない勢い。張本勲氏曰く「これまで巨人は川上さん、王助監督と2人で40年間も一塁を賄って来た。駒田が順調に成長すればこの先20年、つごう60年間を3人だけで一塁を守るという事になる、またその可能性は高い」と語る。

昭和13年に入団した川上は春のシーズンこそ投手が主で一塁には1試合しか就かなかったが秋からは一塁に定着して打率.263 で早くもベストテン入りした。その後、昭和17年に入隊するまで不動の一塁手として活躍し戦後に復帰以降は打撃ベストテンの常連だった。しかし、昭和32年に打率.284 、翌33年は.246 と3割を打てなくなると「3割打者として契約している自分はこれ以上プレー出来ない」として引退した。川上が去った昭和34年は新人の王が主に一塁を守ったが打率.161 と冴えず与那嶺との併用が多かった。王は2年目から正一塁手となったが、その後の活躍は敢えて説明する必要はないだろう。

王にも現役を去る時が来る。昭和56年の開幕、巨人の一塁には大洋から移籍して来た松原がいた。巨人の一塁手は長らく球界を代表する2人が当たり前のように四番を務めていたが松原は七番打者で「四番・ファースト…」の場内アナウンスに慣れ親しんだ多くのファンは改めて王の引退を実感する事になる。その松原も開幕から7試合目には山本功にレギュラーの座を取って代わられた。この年、一塁を守ったのは中畑と山本功が各75試合、松原が27試合、平田が1試合と誰一人として規定試合数の「86」に達した選手はいなかった。翌57年は中畑が定着したが打率.267 と打撃ランク 28位では巨人の一塁手としては物足りない。果たして駒田が「巨人の一塁手」に相応しい選手となれるか注目だ。




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# 341 尾張の怪物

2014年09月24日 | 1983 年 



ネット裏のスカウト連中は思わず「夏の大会には出て来て欲しくない。県予選でコロッと負けてくれないもんかね。大きいのを打たれたら更に値段が跳ね上る…」と本音を漏らした。史上2人目の大会3本塁打、8打席連続安打などセンバツ大会記録をマークした藤王康晴はまだ17歳。既に今秋のドラフト会議の目玉として7千万円の値が付けられたが、夏の活躍次第では1億円の大台突破も…

新チームになった昨夏からの27試合で89打数39安打・打率.438 ・4本塁打と怪物ぶりを発揮していたがセンバツ大会ではそれ以上の結果を残した。1回戦の高砂南戦で本塁打を含む4打数4安打、2回戦の泉州戦は2本塁打を含む3打数3安打。こうなるともう手がつけられなく準々決勝の東海大一戦では初回に三遊間内野安打を放ち昭和31年に中京商の富田が記録した8打席連続安打に並び、次の打席で四球を選んで11打席連続出塁の大会記録をマークした。試合に敗れてベスト4進出はならなかったが大会3本塁打、1試合2本塁打はタイ記録。通算20安打も史上3人目となる快挙だった。速球を鋭いスイングで弾き返すかと思えば変化球に泳がされてもバットを残してついて行く。泉州高の八木投手から放った3本目は完全にタイミングを外され右手一本でスタンドまで運んだ。「あの球を打たれたんじゃ…あれだけ前のめりになって本塁打を打つなんて見た事も聞いた事もない」と打たれた八木投手は悔しさを通り越して呆れる。

藤王は昭和40年4月13日、愛知県一宮市生まれ。市内で織物業を営む父・知十六さん(41歳)と母・晴子さん(37歳)の長男で妹・智子さん(16歳)との4人家族。ちなみに珍しい名字の「藤王」は愛知県下に8軒しかなく皆親戚である。その昔、秋田・酒田藩の武士が出家して藤王院という寺を建立した事に起源があり、秋田の祖父・栄吉さん(78歳)も健在で県下の藤王姓10軒もまた全て親戚である。藤王少年は小学校入学前から父にスパルタ教育を受けていた。赤ん坊の頃から並外れた体格で運動神経も良かったので将来は王選手のような大打者に、と左打ちに矯正した。一宮市の藤王家を訪ねると庭にネットが張ってあり父親は息子の打撃練習に夜遅くまで付き合った。

本格的に野球に取り組んだのは大和中学に進んだ頃。野球部は一宮市内でも「1回戦ボーイ」だったが藤王は1年生からレギュラーで目立っていた。3年生の時、一宮南中との試合で放った一発は右翼後方にある体育館を越え更にその奥の2階建て校舎をも越えた。推定飛距離110㍍、軟式の球をそこまで飛ばすのは並み大抵ではない。この一撃で「大和中に藤王あり」との声は県下に広まった。卒業間近になると名門校から続々と勧誘の声がかかり、円形脱毛症になる程悩んだ。中京高、愛知高、東邦高、そして享栄高も来たがその時の逸話が残っている。享栄高と言えば金田正一氏が有名なのだが「カネダさん?誰だか知りません」と話し学校関係者を唖然とさせたが結局、享栄高を選んだ。

夏が過ぎたら藤王はどのような選択をするのか、周辺は既に加熱気味だ。本人は未だ態度を表明していないが父・知十六さんは「お金は問題じゃない。本人も最終的にはプロでやりたいと思っている筈。それならば大学や社会人とか回り道せずプロ入りする方が本人の為になる。まだまだ鍛えなければならない箇所は多い。同じ鍛えるのならプロのコーチの下で鍛える方が良いでしょう。まぁ最後は本人の意志次第ですけどね」と話す。確かにプロ側も即戦力とは見ていない。特に守備面の不安が大きい。あるスカウトは「高校生の場合は一塁しか出来ない選手の評価は低い。藤王はその一塁の守備すら上手くない」と声を潜めて語る。藤王は享栄高入学後に三塁手に挑戦したが何度となくイレギュラーバウンドを顔面に当てているうちに何時しかゴロ恐怖症になってしまい三塁転向を断念した。

それでもあの打撃は守りの不安を補って余りあるもので大方のスカウト評は「守備は練習で幾らでも上達する。古屋(日ハム)や原(巨人)だって入団したては見ていられなかった。打撃センスは鍛えても限界がある。その点で藤王の打棒は捨てがたい」で一致している。「それにしても…」と地元球団の中日スカウト陣は「甲子園であれだけ打たなくても…すっかり全国に名前が知れ渡ってしまった。是非とも欲しい選手に間違いないが契約金が跳ね上ってしまい痛し痒しだよ」と嘆く。既に中日以外の球団も上位候補にリストアップしており特に巨人は享栄OBの金田正一氏の周辺人物を通じて接触を計っているという。何やら「中日 vs 讀賣」の新聞戦争に発展しそうなのも藤王の桁外れの怪物ぶりのせいだ。
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# 340 やまびこ打線

2014年09月17日 | 1983 年 



昨年夏、豪打で天下を制した池田高は今年のセンバツ大会でも強打で他校を圧倒し夏春連覇を達成した。5試合で60安打・32得点、5試合中4試合が2桁安打でチーム打率は .359 と図抜けていた。大会前の下馬評で優勝の本命に挙げられた時、池田高の関係者は「準々決勝までは徳島県予選の1・2回戦相手のようなものでコールド試合スコアにしなければ。本大会の実感が湧いてくるのは準決勝から」と豪語していたが、その言葉通りに帝京高を11対1、岐阜第一高を10対1、準々決勝の大社高を8対0と撃破した。

高校野球を変えたと言われている池田高校。そのパワーの秘訣を学び取り入れようと全国各地の高校野球部関係者が大挙して阿讃山脈に囲まれた池田町に押し寄せた。来校した人が先ず驚いたのは控え選手が球速140km に設定されたピッチングマシーン相手に苦も無く打ち返していた事だった。しかも使っている金属バットは先端部分が重く扱いが難しいものだった。バットを手にした関西地方の有名私立校の監督は「ウチの選手にコレを使って140km の球を打てと言ってもカスリもしないだろう」と感心していた。池田高校ではこのバットで新入部員に先ずバッティングをさせてみる。ヘッド部分が重いバットを使いこなせる訳はなく更に時速140km に手も足も出ず、この球を打つには技術だけでは太刀打ち出来ない事を思い知らせてイチから体力作りに取り掛かる。この体力作りを担当するのが国士舘大学時代はレスリングの選手で蔦監督が全幅の信頼を寄せている体育教諭の高橋由彦先生。「平凡な外野フライがあと10㍍伸びるようにしてくれ(蔦監督)」と3年前に求められたのが体力作りのキッカケだった。

自動車のタイヤ引き走り50㍍を5回、ハードル30台跳びを5回、自動車のタイヤにロープを結び手元の棒に巻き付けて手繰り寄せるのを2回、学校の西側にある山まで往復5km を20分以内に帰って来る…等々。勿論、腕立て伏せや腹筋もやる。こうしたトレーニングを月曜日から木曜日まで繰り返し、ようやく金曜日に打撃練習をやる。「最初はプロ野球球団の練習メニューを入手し参考にしたけどコレと言って役に立つものは無かった。そこで独自のメニューを考案したんです(高橋教諭)」 だそうだ。辛いトレーニングをこなし待ちに待った金曜日の打撃練習にも独自のシステムがある。ピッチングマシーンと2人の打撃投手の3ヶ所で行うのだが選手は先ずマシーンと対する。そこで打てないと判断されると蔦監督から「もうエエ、守備につけ」と命じられて打撃練習は終了する。次の打撃練習までの一週間また体力強化に努めるのである。更にただ単に安打性の打球を飛ばせばOKではない。バットの芯で捉えて「カーン」という打球音を響かせないと直ぐに次の選手と交代させられる。池田高校の打撃練習中は絶えず軽快な打球音が響き渡っていて、それが「やまびこ打線」と呼ばれる所以でもある。

池田式トレーニングのお蔭で選手達の体力は顕著に増した。一例を挙げると江上は入学した頃の背筋力は150kg から200kg に、水野も130kg が185kg までアップした。水野に関して蔦監督は「アイツは甲子園で時速145km を放っておったがまだまだ伸びる。夏までにもう一度体力アップさせて150km を投げさせてみせる」とセンバツ大会優勝後に語った。高橋教諭も「体力を更に強化していけば変化球のキレも増すし連投なんか屁でもない。球威が試合の後半で落ちる原因はスタミナよりも握力低下のせい、だから夏の大会まで徹底的に鍛える」と。投手希望の新入生は先ずスピードガン測定を受けて 120km 以下だと野手へ転向させられる。「可哀そうと思われがちだが、ある程度のスピードがないと通用せず本人もそのうちにやる気を失くし脱落しかねない。せっかく池田高校に入学して野球部に入ってくれたのに無気力な3年間を過ごさせるのは気の毒」という思いからだそうだ。120km の球を投げられる新入生なら3年生になる頃には 140km 以上投げられるようにしてみせる、と言う信念から池田式トレーニングは導入された。
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# 339 開幕一軍 ・ ベテラン編

2014年09月10日 | 1983 年 



平松政次(横浜大洋)…昭和45年に初の開幕投手を務めたのを含め過去9回も栄誉を手にしたエースが屈辱の開幕二軍スタートとなった。春季キャンプ中に痛めた右足太腿内転筋が癒えずプロ17年目にして最大の危機に直面している。平松にとって今年は名球会入りへカウントダウンの年であと8勝で有資格者となる。「200勝は僕にとって達成出来たら即ユニフォームを脱いでも構わない、と言うくらい野球人として大目標。今年のキャンプは開幕投手よりも名球会入りを念頭に調整してきた」と本人は開幕投手の座を逃した事は大して気にしていない。関根監督も「草薙キャンプでは肩作りよりも体力増強に終始してきた。あれだけのベテランだし実戦登板はそれほど必要ないでしょう」とジックリ待つ覚悟は出来ている。

カミソリシュートを武器に開幕戦では過去5勝4敗と勝ち越している。昭和56・57年は後輩の斎藤明に譲ったとは言え、平松にはこれまでの大洋投手陣の屋台骨を支えてきたプライドがある。ただし投手として峠を過ぎている事は本人も自覚しており、焦りと苛立ちがジワリと襲って来ているのも事実。キャンプ終盤からオープン戦期間にかけて100球前後の投げ込みを開始し肩の状態も上々だった。しかし右足内転筋の痛みはなかなか引かず「自分でも歯痒くて…身体は六分以上は出来てきたけど右足がね。軸足だけに慎重にならざるを得ない」と唇を噛み締めた。

" ガラスのエース " などと有り難くないニックネームを付けられたりもしたが、まがりなりにも190勝以上してきた平松が開幕メンバーから漏れたのは初めて。本人なりの考えでは一軍復帰は5月に入ってからと想定している。" あと8勝 " に万全を期す為に4月を棒に振るのは本人にもチームにとっても苦渋の選択だった。昭和45年(25勝)・46年(17勝)は最多勝、他にも沢村賞や最優秀防御率賞などのタイトルを手にしてきたベテランが世代の移り代わりを感じながらの二軍スタート。斎藤明、遠藤、門田らが主戦となる投手陣では浮いた存在になりつつある男が二十近く歳の離れた若手に混じって血の汗を流している。



高橋一三(日ハム)…「自分としては納得している。100%の力を出せない以上はお情けで一軍に入れて貰っても仕方ないし、それに今のウチはそんな甘いチームではない」 日ハムに移籍して8年、通算19年目のベテランらしく淡々と自己分析をする。一方で開幕二軍は本人にとって悪い事ばかりではない。巨人時代のプロ入り2年目の昭和41年と44年の二度、開幕一軍を逃しているが両年とも5月には昇格し41年はプロ初勝利、44年には22勝5敗・防御率 2.21 で最多勝と最優秀防御率賞、沢村賞にベストナインなどタイトルを総なめにした。勿論、今の自分にあの頃の若さは無い事は分かっているが多少の出遅れに焦りは感じていない。

二軍落ちの原因は左足の肉離れである。3月21日からの岐阜遠征中にふくらはぎを痛めて22日に予定されていた先発登板は流れ、それ以降は治療に専念せざるを得なかった。30日の西武戦で復帰し3回1/3 を投げて1失点だったが球威は戻らず6安打を許すなど内容は今一つで二軍落ちが決まった。思えば昨年は開幕投手を仰せつかったものの直前に盲腸を患い、薬で痛みを散らしながら暫く投げていたが本調子には程遠く結局シーズンを通して調子は戻らなかった。その反省から今年は先ずベストの体調に戻す為の二軍スタートとなった訳だ。

昭和53・54年の2年間は腰痛が悪化し引退を考えるほどの状態に追い込まれた。「あの時と比べたら走れないのは同じだけれど上半身の筋肉強化は出来るし深刻じゃない」と手応えがあるようだ。怪我さえ治れば昭和56年に14勝して日ハム球団初優勝に貢献したように復活出来ると考えている。ただし若手投手の台頭もあって体調が戻っても無条件で一軍に復帰出来る保証はされていないが、ひとたび投壊状態に陥ればベテランの経験と力は大きな武器になる。したたかな投球術を必要とする場面が来る可能性は大いに残されている。



池谷公二郎(広島)…開幕に向けて調整するグラウンドのナインに背を向けてうつむき加減にロッカールームへ急ぐ池谷。二軍落ち・・・。若手ならいざ知らず、沢村賞に輝いた事もある男だけに「今のままではチームに迷惑をかけるだけなので覚悟は出来ていた。でもいざ決まると寂しい…」とショックは大きい。池谷の二軍落ちを決定的にしたのは3月13日の近鉄戦、5回から登板したが5安打のつるべ打ちを喰らい1回もたず5失点。試合後の古葉監督は「感想?それ以前の問題」と斬り捨てた。「今迄ならファールになっていた高目を簡単に運ばれたのは球に力が無いからでしょうね」とマウンド上で茫然と打球を見送っていた池谷は、この時すでに二軍落ちを予期していたのかもしれない。

実は池谷の不調は昨年から続くものだった。昨シーズンは僅か1勝、それも中継ぎ登板で降雨コールドゲームで転がり込んできた1勝で「何もしなかった1年(池谷)」だった。危機を感じた池谷は夏以降、しばしば戦列を離れて再起を図った。四国の著名な整体師を訪ねて身体中隅から隅までチェックしたり投球フォームの改造にも着手していた。若手に混じり秋季キャンプにも参加して、テークバックの際に一瞬右腕を止めていた独特のフォームを長谷川臨時コーチと共に滑らかな動きに変えた。古葉監督も「V奪回の為には池谷は絶対に必要」 として数球団から申し込みがあったトレード話を断っていた程だ。

本来なら今年の春は池谷家にとって待ちに待った季節の筈だった。長男の龍一君の小学校入学を家族全員で心待ちしていた。だが池谷家の大黒柱の二軍落ちでお祝い気分は吹き飛んでしまった。「このままでは終わらん(池谷)」ことは周囲の誰もが信じている。「二軍の朝は早いんですよ。息子と一緒に起きて朝ご飯を食べて家を出て帰りも大体同じ時間。まぁ良いパパをやってますわ」と本人は努めて明るく振舞うが、古葉監督は「次に一軍に上がって来て同じ失敗は許されない」と明言しているだけに今年30歳、試練の10年目は甘くない。
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# 338 開幕一軍 ・ 若手編

2014年09月03日 | 1983 年 



駒田徳広(巨人)…この男、ひょっとすると野球の実力よりムードメーカーとして評価されての開幕一軍入りだったのかもしれない。オープン戦で甲子園球場を訪れた時の事、「僕の高校(奈良・桜井商)は弱くて甲子園出場なんて夢のまた夢だった。二軍に落とされたら二度とココには来れないから記念に土を持って帰ろう」と本当に甲子園の土をポケットに入れて周囲の笑いを誘った。ムードメーカーとして一軍入りした中畑の後輩と言える。その中畑よりスケールが一回り大きい。190cm,87kg という体格もさる事ながら飛距離もケタ外れで新外人のスミスも真っ青なのだ。

「生まれながらの長距離ヒッター。とにかく迫力満点。順調に育てば俺を超えるのも可能だよ」 リップサービス旺盛な長嶋さんの言葉ではない、沈着冷静で滅多な事は口にしない王助監督の発言だけに重みがある。王助監督が是非とも手元に置いて育てたいと一軍入りを果たした。しかし本人は「期待される大きいのがなかなか出なくてね…」オープン戦11試合で15打数7安打と結果を出したが本塁打がゼロなのが不満の様子で大きな身体を小さくしている。

左の一塁手で長距離ヒッターとなれば王助監督の後継者の有力候補だがその一塁レギュラーには中畑、控えに山本功と大きな壁が立ちはだかっている。駒田の素質を見抜いた王助監督は「確かに荒削りだが小器用に単打を稼ぐ事は望まず大きく育てたい」と期待も大きい。当の駒田は「与えられた打席を大事に思いっきり振りたい」と先ずはどの選手もが口にするような優等生の発言に続き「本音は遠くへ飛ばしたい。誰も真似出来ないくらいの一発を打ちたい。初安打は本塁打がいい」とビックマウス。王助監督の初安打も本塁打だったが後継者となるべき駒田がそれを再現できるか注目だ。



宮城弘明(ヤクルト)…いま思い出しても悔しい堀内投手コーチ(当時)の言葉が耳に残っている。「夕食を食べたら東京へ帰りなさい。明日からもっともっと練習して再び一軍へ戻って来られるように頑張りなさい」昨年3月、南海とのオープン戦後の宿舎で二軍落ちを通告された。宮城本人も二軍行きを薄々感じていた。中継ぎで登板していきなり四球・中前打で走者を溜めてダットサンに3ランを被弾。その前の巨人戦(平和台)でも原に場外3ランを浴びていた。

今年で3年目だが長いようで短い2年間だった。鳴り物入りでヤクルト入りしたが入団早々に鼻っ柱をへし折られた。とにかく投げる、打つ以前にまともに走る事が出来なかった。「ただデカイだけ」そんな陰口が耳に入ってきた。しかし、この男には身体に負けないくらい大きな負けん気があった。「自分で言うのも変ですけど上手くなっていく過程が自分にも分かりましたよ。本当に下手くそだったから当たり前かもしれませんけど」と最低ラインからのスタートに耐えた。それだけに昨年の二軍落ちは精神的に厳しかった。

「しばらく茫然として気力も萎えてしまって練習に身が入らなかったですね」 丁度その頃、母親・キヨ子さんが病に倒れた。東邦大学付属病院に運ばれ緊急手術、胆石だった。休日には必ず病院を訪れ母親を見舞った。ゲッソリと頬のこけた母親の顔を見る度に「早く安心させなくては…」と心に誓った。入院期間は4ヶ月に及んだがその4ヶ月間で宮城は4勝無敗と結果を出した。「忘れもしません、日ハムとの最終戦に退院したばかりの母親が見に来たんです。10㍍を歩くのもキツイ状態だったのに。その試合で完投勝ちして8勝目をプレゼントする事が出来ました」

その母親の健康も快復しつつあり息子の今季に気を揉んでいたが宮城はオープン戦で良かったり悪かったりと不安定だったものの、何とか一軍に滑り込んだ。「心配かけちゃったかなぁ」と巨体を小さく縮めてペロッと舌を出した。貴重な左腕で将来のヤクルト投手陣の屋台骨を支える逸材である事に間違いない。武上監督も「ジャンボ(宮城)は今年一軍で揉まれて化ける可能性を大いに秘めている」と期待が大きい。剛球と大・小2種類のカーブ、フォークボールを武器に一軍切符を手にしたジャンボ機は再び離陸した。



定岡徹久(広島)…今季の広島は4人の新人を開幕一軍に入れた。その中に定岡の名もあり周囲は早くも兄・正二(巨人)との兄弟対決実現に大騒ぎだが、本人はいたって冷静に「先ずは目標だった開幕一軍が果たせて嬉しい」と語るだけ。早ければ4月19日からの3連戦で顔合わせがあるかもしれない。父親の清治さんは「徹久の広島入団が決まった時は正二との対決はもう少し先の事かなと思っていました。どちらを応援するかって?そりゃあ徹久ですよ。もう正二は独り立ちしてますからね」と嬉しさを隠せない。

徹久にとって長兄・智秋(南海)、次兄・正二の影響は大きい。「何となく野球を始めたのも兄貴たちがやっていたから。2人が揃ってプロ入りしたから自分も行けるかなという感じでしたね」 鹿児島実業高卒業時に幾つかのプロ球団から誘いがあったが専修大学に進学したのも「打者なんだから4年間大学でやってからでも遅くない」とのアドバイスを受けたからで「現役のプロ野球選手2人が言う事ですから間違いない」と。プロ入りに際して2人の兄から贈られた言葉は「信念を持ってやれ」だった。ことほど左様に兄の存在は大きく、言葉を変えれば2人の兄は常に三男坊の事を気にかけていたとも言える。

「球場で兄貴(正二)と会っても僕は変わらないと思いますよ。向こうはどうか分かりませんけど」と定岡は "その日" を空想する。広島にとって兄・正二は天敵である。昨シーズンだけでも7敗、通算勝利数の半分以上を献上している。弟の存在が天敵攻略の糸口になってくれればと考えて獲得したのでは、と勘ぐる球界関係者もいるのも事実。そんな思惑とは別に今や定岡は広島にとって欠かせない戦力になっている。入団前から守りと走力は折り紙つきだったがオープン戦で衣笠と並ぶチームトップの本塁打を放つなど打撃の評価も高まり「入団発表で見た時はひ弱そうな第一印象だったけど見事に裏切ってくれた」と古葉監督も目を細める。「カープの一員として "定岡投手" を打ち崩してみせます」と弟はキッパリと宣戦布告。兄貴たちに追いつき追い越せと三男坊はいざ出陣する。
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# 337 注目選手 in 1983 ②

2014年08月27日 | 1983 年 



村田兆治(ロッテ)…「開幕試合に間に合うだろうか?」 最近の村田の頭に浮かぶのはこの事ばかり。阪急の山田と共に8年連続開幕投手という日本記録更新中のエースの心中には不安が渦巻いている。キャンプ中の村田は「今年は何としても20勝してオフの移籍希望騒動の汚名を返上したい。その為にはじっくりと肩を仕上げたいので開幕投手には拘らない」と話していたが、いざオープン戦が始まりシーズンが近づくにつれエースとしての意地が頭をもたげてきた。

オープン戦で遠征中のチームを離れ3月20日から川崎球場で黙々と投げ込みを行なった。毎日100球前後、多い時は170球を全力投球。山崎投手コーチは「大丈夫、充分開幕に間に合う」と太鼓判を押したが23日に誤算が生じた。余りのハイピッチに身体が悲鳴を上げた。右足太腿を痛めてしまったのだ。「疲れからくる筋肉痛で報道されている肉離れではない。2~3日で治る(河原田トレーナー)」と大事には至らなかったが村田本人のショックは殊の外大きかった。

25日から練習を再開したが球数は50球限定とペースダウンは否めない。「そりゃ不満だよ。でも焦ってもう一度やってしまったらシーズンを棒に振りかねないから慎重にね」と自分に言い聞かせている。ロッテを出る、出さないと大揉めに揉めた騒動のせいでオフ期間のトレーニングは殆ど出来なかった。昨年の5月17日の近鉄戦で肘を痛めて途中降板して以来、はやる気持ちを抑えてジッと我慢に我慢を重ねて7ヶ月間の空白を埋めてきた。1月30日になってやっと川崎球場での合同自主トレに参加し、鹿児島キャンプでは本格的な投球練習はせず遠投のみで身体作りに終始してブルペンに入ったのは途中降板した昨年の近鉄戦から283日ぶりの2月25日だった。

この我慢の調整法で村田の身体はほぼ出来上がりつつあっただけに足の故障以外は「肩の筋肉と肘の状態はほぼ元に戻っている(山崎投手コーチ)」との事で、山本監督ら首脳陣は「開幕投手は村田」の考えで一致している。ただしそれには条件が1つある。村田本人の意志を尊重するという事。若生投手コーチは「兆治が投げたいと言えば投げさせるがこちらから投げろとは言えない。もういい歳だから焦って投げて怪我が再発したら投手生命にかかわるからね」と村田本人の決断次第であると強調する。



工藤公康(西武)…新人王最有力候補の声もオープン戦が進むにつれ次第に聞かれなくなった。先発投手として結果を出せず遂に広岡監督も「今年もワンポイント投手止まり」と烙印を下した。にもかかわらず工藤の表情は明るい。これが現代っ子の気質なのか開幕前の4月上旬、「明日の休みはどこに行こうかな?」と野球の事は頭に無い。合宿所がある埼玉・所沢から西武電車に乗って多くの若者が新宿や池袋に遊びに行くが工藤もその内の一人だ。野球は野球、遊びは遊び。やる時はどちらか一方に集中する、工藤の生まれつきの性格がそうさせる。「マウンドに上がったら打者を抑えるだけ。球も投げないのにあれこれ考えたってしょうがないでしょ?」

「打たれたらどうしよう」「どうすれば抑えられるか」…そんな気苦労は皆無の出たとこ勝負。名古屋の高坂小学校時代から「カーブさえ投げてれば打たれなかった(工藤)」そうで久方中学に進学しても投げれば快投の連続で苦労して投球術を駆使しなくても抑えられた。それはプロ入りしても変わらない。「坊やは天性の勝負勘を持っている。だからブルペンで調子が悪くても試合になると強心臓で抑えてしまう」と広岡監督は工藤が新人の頃から見抜いていた。計算は出来なくとも期待をしてしまう投手。キャンプ、オープン戦を通じて不調であっても一軍から落とさなかったのはその為である。

「今年は7勝くらいして7セーブもすれば新人王も獲れるんじゃないかな」と新年冒頭に今年の目標を語っていたがその願いは開幕前に早くも潰えてしまった。オープン戦を迎えても投球フォームが安定せず武器であるカーブの切れ味も鈍くなってしまった。投げては打たれるの繰り返しでとうとう「何をやってもダメ…このまま二軍ですかね今年は」と流石の現代っ子も意気消沈。野球人生で初の試練に途方に暮れていると思いきや「監督さんが今年も中継ぎに起用するって?こんな状態でも一軍に置いて貰えるなんてありがたい。それなら今年も左殺しに専念しますか、新人王はもういいや」と軌道修正する変わり身の早さはやはり現代っ子である。



香川伸行(南海)…周辺からの圧力に普段は大らかな香川が珍しく神経質になっている。オープン戦で相手チームの盗塁がフリーパス状態の弱肩ぶりを露呈しスポーツ紙に叩かれまくっている。昨年までの香川だったら「好きに書いて貰って結構」と悠長に構えていたが今年は正捕手争いの真っ只中とあって神経を尖らせ、「僕の肩は本当に大丈夫なのだろうか?」と自問自答を繰り返している。甲子園のアイドルとして脚光を浴びプロ入り後も天真爛漫な振る舞いを繰り返してきた "異端児" に何が起きているのか?

オフの間に104kgに増えた体重を自主トレ・キャンプで96kgまで落としたがオープン戦が中盤に差し掛かる頃には100kgに戻ってしまった。本人曰く「意識して痩せようとは思わないけど極力水分は摂らないようにしています」と周囲からの減量命令をやんわり拒否。体重が戻りだした頃に某コーチが遠征先の部屋を抜き打ちでチェックした所「ジュースがわんさかと置いてあったので直ぐに運び出した」そうだ。やはり精神的甘さはそう簡単に克服出来なかった。穴吹監督が最重要視している守りの要に指定された選手なのに期待を裏切ってしまった。

それでも穴吹監督は「香川じゃ不安?じゃ誰を使えばいい?俺はアイツを使うよ」とプロ入り以後、親代わりのように公私に渡り面倒を見てきた香川に賭け、開幕スタメンに起用する腹づもりだ。香川も「監督の期待は痛いほど分かっている。勝って監督と1回でも多く握手したい」と言うがオープン戦を見る限りは数年来の捕手難は解消されていない。ウィークポイントはハッキリしている。香川の弱肩である。二塁への送球が山なりどころかワンバウンドしてしまう事も珍しくないが「僕の取り柄は捕球してから送球までの速さ。確かに強肩じゃないけど盗塁阻止の秘訣は肩の強さだけじゃない」と強気の姿勢は崩さない。

「いよいよ開幕ですわ。去年までと違ってグッと来るものが有りますね、今年は楽しみです」と今季の目標を全試合出場・20本塁打・80打点と掲げたが香川の本職は捕手。打撃センスは折り紙つきだけに全試合に出場出来れば目標クリアは可能だろうが肝心の守りには疑問符が付く。足の有る選手が揃った近鉄、西武、阪急などはどんどん走ってくるだろう。盗塁がフリーパス状態ではいくらバットで活躍してもチームの勝ち星には結びつかない。「ビデオで各チームの研究もしている。打者を塁に出さなければ盗塁の機会も減らせますからね」と明るい表情の香川だが希望と不安を同居させたまま、いざ開幕を迎える。
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# 336 注目選手 in 1983 ①

2014年08月20日 | 1983 年 



落合博満(ロッテ)…一昨年オフに三冠王宣言をして見事に実現させた落合が今度は前人未到の打率四割を目指すと宣言した。4月1日現在のオープン戦成績は打率.390 と目標達成に調整は順調に進んでいる。三冠王宣言に続く今回の大風呂敷も再び実現してしまうのか?

並みの選手だったら単に夢を追っているドン・キホーテ扱いされるだろうが選手として一番脂の乗っている今の落合だけに「ひょっとしたら…」と考えている球界関係者は少なくない。ただ闇雲に安打数を増やそうとしている訳ではなく落合なりの青写真がある。四球を増やす事で打数を減らそうというのだ。昨年は 150安打・86四死球で打率.325 だったが今年は 170安打・100四死球 を目標としており、これで恐らく打率.380 を超える。そして肝心の安打数を増やせば四割も可能だと目論んでいる。

「ホームランを狙って大振りしたら率が上がらないから(落合)」と四割達成の為に本塁打王は諦めるとの事。更に慣れ親しんだ今の打法を改造する決意をしてキャンプでは徹底的に引っ張る練習に終始した。昨年の150安打のうち本塁打も含めて左方向への打球は 1/3 程度。内角球が来ると本塁打狙いで大振りし、結果として凡打になる事が多かった。今年は得意の流し打ちに加えて内角球は大振りする事なく軽打して率を稼ぐ算段だ。オープン戦では16安打(4月1日現在)中、8安打が左方向と練習の成果は早速現れている。

今年は万全の体調で開幕に臨めるというのも大きい。3月25日の大洋戦で遠藤投手から左上腕部に死球を受けたが僅か1試合の欠場で済んで大事には至らなかった。思い起こせば昨年はオープン戦で左手のマメを潰した影響が殊のほか残り、開幕後しばらく低迷が続いて16試合目でようやく初打点、17試合目で初本塁打を放つ最悪のスタートだった。更に今年は一塁コンバートのお蔭で守りの負担が軽減した。当の落合は「まぁ99%ダメでしょうね。でもやらなければ給料が上がりませんから」といつもの人を喰ったような発言に終始しているが、昨年の今頃も「三冠王?無理無理…」と言っていたのを思い出す。この男、案外アッサリと大仕事をやってしまいそうな気がする。



長崎啓二(横浜大洋)…「10年目の突然変異」と揶揄されながらも3割5分1厘で堂々の首位打者に輝いた。ただ終盤で田尾(中日)の猛追に会い醜い四球合戦を演じた為に「ああいう嫌な形で終わっただけに今年は余計にやらないとね」とキャンプを過ごしたがオープン戦が始まった現在でも精彩を欠いている。原因はやる気が災いし無理をした為に「キャンプ終盤に左足太腿の裏側に痛みが出た。最初は大した事ないと思ったけど長引いている。静養せずに九州・大阪遠征に帯同したのが悪かったかな?でも大丈夫、休めばすぐに治りますよ(長崎)」と楽観していたが3月下旬には左膝にも痛みが出るなど更に悪化する事に。

「俺も歳だからねぇ、まいっちゃうよ」と務めて明るく振舞うが顔は笑っていない。それは昨年まで守っていた左翼のレギュラーが阪神から移籍して来た加藤のお蔭で危うくなっているからだ。更に三番打者争いも新外人・トレーシーがオープン戦でトップの7本塁打を放ち猛アピールしていて流動的。トレーシーの活躍の裏で3月9日のオープン戦初戦に代打で1打席登場(結果は三振)した以降は試合に出ていない。「正直、焦ってますよ。でも痛みはすぐに消えてくれないので待つしかないと言い聞かせてます」 チームを離れること10日間、ようやく快方に向かっていて3月29日にチームに合流した。

結局、3月中のオープン戦で登場したのは三振した初戦と合流した翌日30日の四球の二度だけ。首位打者に輝いた昨年のオープン戦は打率5割の高打率を残し、その勢いのままシーズンに突入した。それだけに今年の調整遅れは気になる所だが本人は「さほど気にしてません。もういい歳だし自分の打撃スタイルは把握しているつもり。元々が春男でシーズン途中で失速しがちなので出遅れで丁度いいくらい」と楽観視している。



宇野 勝(中日)…「オイ 宇野、今日は1000円だ」3月31日のロッテとのオープン戦後のベンチ裏で黒江コーチが声をかけた。罰金を命じられた宇野は何故か笑顔で「でしょう?今日は少なかったですから」と答えた。罰金を笑顔で払う奇妙な光景こそ「宇野本塁打王計画」だと知る部外者は少ない。話はキャンプでのスタッフミーティングに遡る。昨年は掛布、原に次ぐ30本塁打を放った宇野の育成方針が議題となった。打率よりも40本塁打以上の長距離砲か、20~30本でも高打率を残せるシュアな打者のどちらに育てるのか?

会議は近藤監督のツルの一声で終わった。「ポスト谷沢として四番を打てる打者に育って欲しい。今季の宇野には何としても40発以上を期待している」そして育成担当に黒江コーチが抜擢された。「去年までの宇野は気分屋で打つ時と打てない時の波が激しかった。スランプに陥る最大の原因はボール球を無闇に振ってしまう事。そこを直せば大きく飛躍出来る」と黒江コーチは見ている。ボール打ちの矯正法として採用したのが昨年、上川を開眼させた罰金制度だ。宇野と同じくボール球を振る癖が抜けない上川に「ボール球を振る毎に1000円を徴収」して見事に矯正に成功した。

3月19日の日ハム戦からこの罰金制度を始めた。10試合経過時点で合計金額は1万6千円、最初の頃は3千円を超す日もあったが試合を重ねる毎に減って0円の時もあったほどだ。徴収金額と反比例するように安打数は増えて目標の40本塁打に向けて着実に成長している。谷沢に匹敵するというシャープな腕の出、鞭のようにしなる上半身、加えて天性の思い切りの良さ。「開幕戦の広島バッテリーは驚くと思うよ。昨年までの一発は有るが穴も大きいとのイメージは今年は当てはまらない。特に北別府には面白いようにボール球を振らされていたけど今年は昨年の二の舞とはいかないよ」と黒江コーチ。
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# 335 電撃トレードの裏側

2014年08月13日 | 1983 年 



開幕まであと16日に迫った3月25日、近鉄・太田幸司(32歳)、石渡茂(34歳)と巨人・大石滋昭(19歳)+金銭のトレードが発表された。一軍選手と昨年にドラフト外で入団した2年目の選手との2対1の交換という明らかにバランスを欠いたこのトレードの裏側に何があったのか?


「近鉄では自分なりに一生懸命にやってきたつもりです。僕に新しく生きる道を与えてくれた球団に感謝します」前夜にトレードを通告された太田は藤井寺球場の食堂の片隅に設けられた即席の会見場で精一杯の笑顔を見せた。駆け付けた報道陣は約30人、それは14年前の会見とはかけ離れた寂しいものだった。昭和44年の夏、松山商との決勝戦で延長18回を投げ抜き翌日の再試合で敗れたものの三沢高・太田幸司は一躍日本中の人気者となった。その年の暮れの入団発表は佐伯勇オーナー臨席の下、大阪・中百舌鳥の電鉄本社で行なわれた。

集まった報道陣は2百人を超え本社ビル周辺は約2千人のファンが取り囲んだ。球団の渉外担当だった高島雅吉(現営業部次長)が新幹線で大阪に向かう太田に同行し「只今、名古屋を通過しました」「間もなく新大阪に到着します」などと逐一報告をした。極めつけだったのが「太田君は今夜、大阪都ホテルにお泊りになられます」と発言した事が「まるで皇太子殿下のようなVIP待遇だな」と揶揄されて、これ以降「コーちゃん」と呼ばれていた太田のニックネームに新たに「殿下」や「プリンス」が加わった。

近鉄での13年間で三度の2桁勝利を含む58勝を挙げたが、ここ3年は勝ち星なしの30歳を過ぎた太田を放出したのはある意味「温情」である。オープン戦で快進撃を続ける今年の近鉄の原動力は若手投手の台頭だ。ここ数年来、悩まされてきた肩・ヒジ痛もなくキャンプを過ごした太田になかなか出番は回って来なかった。「ブルペンでガンガン投げているのにオープン戦で出番がなかったから、トレードも有るなと思っていた。このまま終わるのも嫌なので巨人でも頑張りたい」と決意を表した。近鉄・山崎球団代表は「戦力面の事よりも巨人に行った方が出番が増えると考えて決断した」また石渡についても昨年の新人王・大石や期待の森脇や金村に加えてルーキーの谷など野手陣にも楽しみな若手が多く出番が減るのは確実で「石渡の将来の為にも他球団を経験するのも大切(山崎代表)」と移籍の理由を述べた。

今回のトレードの経緯を見ると申し込みは巨人からだった。河埜が昨年終盤に故障した左手の回復が思わしくなく、控えの岡崎や鈴木伸らも未知数。そこで目をつけたのが充実している近鉄内野陣で実は石渡の譲渡申し込みが太田よりも先だった。しかし現場首脳陣が石渡放出に反対した為、吹石に変更して交渉を続けたが難航しトレード話は解消しかけた。転機は3月19日のオープン戦だった。巨人・正力オーナーが直々に山崎代表と会って石渡の譲渡を申し入れ、山崎代表から「太田の面倒も見て欲しい」と請われた正力オーナーが確約した事で話は急転直下、決まった。

巨人と近鉄が密接な関係になったきっかけは昭和56年のオフに捕手難に喘ぐ巨人が梨田の台頭で出場機会が減り始めた有田のトレードを申し入れた事だった。このトレードは実現しなかったが両球団の良好な関係は続き、球団レベルを越えて野球のみならず正力オーナーが讀賣興業の社長でもある関係で近鉄興業との業務提携の話にまで発展した。今年から近鉄興業が球団の営業部門を担う事となったのも今回のトレード決定に少なからず関係している。

何故、両球団はこうも接近するのか?そこには西武という共通の敵の侵攻を食い止める必要があるからだ。西武の台頭でプロ野球界内における力関係が崩れて巨人は球界の盟主の座が危うくなりつつあり、近鉄の場合は単にリーグ優勝を西武に持って行かれるという野球の面ばかりではなく大阪・八尾に西武百貨店が進出する事で既存の近鉄百貨店の流通部門にまで影響を与える事が必至となれば、悠長に西武の台頭を見過ごす訳にはいかない。近鉄とすれば先ずは巨人に西武の日本一連覇を阻止してもらう為の戦力補強に協力は惜しまない。「敵の敵は味方」という構図である。

一軍クラス2人と入団2年目の選手の交換というまるで釣り合わないトレード。一見、近鉄にメリットが無いように見えるが長い目で見れば近鉄にも採算がある。例えば近鉄主催の巨人とのオープン戦を来年以降、これまで以上に組めば1試合当たり1千万円単位の儲けが近鉄に入る。また今後、近鉄が必要とする選手を巨人からトレードしてもらう「貸し」が出来た事も大きい。石渡に関しては「勉強させる意味もある」と近鉄首脳陣は明言している。チーム内でも野球理論では一目置かれている石渡で将来の幹部候補であり、巨人でコーチ業の下準備をさせるのが主目的だという。

太田に関しては前々から阪神が獲得を目指してしるという話が太田の耳にも入っていて「仮に近鉄を出るとしても在阪球団がいい」と近鉄入団と同時に両親を大阪に呼び寄せ、今やすっかり関西の人間となっていただけに東京行きに戸惑う。父親は足が不自由、母親は高血圧とあって病院通いが必要で住み慣れた大阪を離れるのは難しい。「両親の事は心配ですけど一緒に東京へ今は行けない。暫くは寮に入れてもらって落ち着いたら両親を呼び寄せるかどうか決めたい」 両親と東京で再び一緒に暮す為には投手陣が充実している巨人で働き場を見つけなければならない。



          
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# 334 大山鳴動して…

2014年08月06日 | 1983 年 



契約更改で揉めて昨年12月末に球団から突然の解雇通告を受けた事を不服としてパ・リーグ連盟に提訴し、場合によっては法廷闘争も辞さないと言っていたロッテ・高橋博士選手。パ・リーグ会長もロッテ球団の手落ちを認めて2月18日に今季の契約を済ませたが1ヶ月後に一転して球団は高橋選手の任意引退を発表した。一体何が起きたのか?

契約条件が折り合わず保留選手になっていた高橋を突如、自由契約選手にしたロッテは確かにまずかった。これに対して高橋が弁護士をたてて法廷闘争も辞さないと身構えたのは当然である。ロッテの選手会は当初、高橋と球団の間に入り仲介の労を取ろうとしたが法廷に持ち込みたいとする高橋の意向を知り身を引いた。それは問題が厄介になったから逃げた訳ではなく、選手会としては寧ろこの問題が法廷闘争に発展して欲しかったのである。それはロッテ選手会だけではなくプロ野球選手会の総意でもあった。野球協約には多くの問題点があり、職業選択の自由を奪っている条項もあり選手会は不満を持っている。身近な所ではオールスター戦に出場した際の報酬が少ない事。その理由は収入の殆どが野球機構側に吸い取られているからだ。高橋の件が法廷で論じられるとこうした野球協約の不備にもメスが入る可能性もあり、選手会側はそれを期待していたのだ。

ところが事態は選手会の思惑とは違う方向に進んだ。法廷闘争に持ち込まれたくない連盟側が懐柔策を繰り出し何とかリーグ内で処理しようと動き始めた。ロッテ球団と高橋の間に入り和解するように勧め、2月18日に迷惑料を含めて推定年俸1137万円で再契約し一件落着した。ところが事態はこれで終息しなかった。混乱の責任をとって辞任した石原球団代表に代わる高橋新球団代表、山本監督、土肥二軍監督の三者が3月21日に会合を持ち「今更戻って来て貰っても困る」と復帰に反対したのだ。

この事は直ぐに高橋に伝えられ東京・本郷にある文京綜合法律事務所で代理人の友光健士、安田寿朗弁護士と共に記者会見に臨んだ。復帰反対が現場の意見の総意であれば仕方ないとして、表向きの理由は「キャンプも不参加で体力的に不安である」として任意引退を表明した。高橋球団代表は「それなりの償いをさせてもらう」として当面の生活費や功労金と称して年俸の 2/3 にあたる750万円が支払われたと言われている。本来なら昨年の年末に一銭も手にする事もなくクビとなっていただけに、結果としてそれ相応の額を得た高橋が一番得をしたのは事実。

高橋が復帰を断念した一番の理由は同僚たちの白けた視線だった。今回の問題が選手会は野球協約の不備を、ロッテの同僚は施設等など待遇改善の機会になればと願っていたが何一つ変わらなかった。期待が大きかっただけに落胆度も増した。更に高橋が復帰の為のトレーニングを怠っていた事も不評を買う原因のひとつだった。それよりも今回の件で強く印象づけられたのは選手会が機会があれば野球協約の中身を変えたい(選手側からすれば『改正』、経営者側からは『改悪』)と考えているのが如実となった事。選手会の中には虎視眈々と大リーグのフリーエージェント制度導入を狙っている動きがある事を付け加えておく。
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# 333 因縁の二人

2014年07月30日 | 1983 年 



週刊ベースボール創刊号の表紙を飾ったのが長嶋茂雄と広岡達朗。もちろん2人がプロ野球を代表する「顔」だったからである。その後の2人の歩みはまた週刊ベースボールの歩みでもあった。本誌に掲載された二人の言葉で再構築した " 長嶋&広岡 " 物語である。


週刊ベースボールの創刊号は大物ルーキー・長嶋に対する空前絶後の期待度を垣間見せている。僅か60ページ程の小雑誌のうち8ページを長嶋一人に割いていた。現在の約130ページだと17~18ページに相当する扱い量だ。その長嶋の本誌における第一声は「学生野球の時は下手なりに夢中でやっていました。下手は下手なりに面白かったのですが、今の心境はレベルの高いプロ野球の奥深さを早く知りたいです」と語った。周囲の大騒ぎは巨人の先輩連中の耳にも入っていた。たかが学生野球の一選手が入るだけで直ぐにでも優勝出来るかのような喧騒に苦々しく思っていた選手もいた筈。しかし「紳士たれ」と教え込まれていた先輩たちは決して不満を外部に漏らす事はなかったが唯一の例外が広岡で、昭和33年4月16日号で「長嶋が入ってどう変わりますか?と聞かれるのが一番困る。1年経ってからなら判断出来るけど今聞かれても答えようがない」・・・誠に広岡らしい正論だが、チクリと一言多いのも今と変わらない。この潔癖なまでの一貫性が広岡の身上だ。

広岡が初めて単独で表紙を飾った昭和33年6月18日号では「チームの捨て石になる事に抵抗はない。打率を良くするだけが昇給の対象となる現状はいかがなものか。勝つ為には打撃が全てではないと思う」など常に自己とチームと言う命題を考え続けた選手だったのとは対照的に長嶋は昭和33年4月30日号で立教大時代の同級生・杉浦(南海)との対談で開幕戦で金田投手に4三振を喰らった時の心境を問われ「別にアレじゃなかったけど…悔しいとか、そんな気持ちではなく…次に対戦する時に打てばチャラで、要は打てばオールOKで幾つ三振しようがどうって事はなかったですね」 まぁ見事な " 長嶋語 " が早くも披露されていた。長嶋が新人ながら二冠王に輝いた年のオフにセントルイス・カージナルスが来日し親善試合が行われ広岡と長嶋は共に本塁打を放つなど活躍した。2人の大リーグに対する印象も「とにかくお客さんに楽しんでもらうという野球に徹していますね(長嶋)」「どんな選手でも基本に忠実。命令通りにきちんとプレーする点は見習うべき(広岡)」とまたもや異なった。あくまでも長嶋的であり、広岡的なのは変わらない。

長嶋の入団2年目以降のスポーツジャーナリズムは長嶋一色になる。昭和34年7月29日号で桑田(大洋)との対談の中で村山(阪神)から放った天覧試合サヨナラ本塁打について「打った瞬間ファールになると思ったけど入っちゃった」と語っている。村山が「あれはファールだ」と言い続けているのもこの辺に理由があるのか?一方の広岡は長嶋の入団前から打撃不振に陥り試行錯誤を繰り返していた。プロ入り1年目こそ3割を超える打率を残したが2年目以降は2割5分前後と伸び悩み打撃改造に取り組んだが周囲は改造に懐疑的だった。昭和36年5月1日号では「日本の野球しか見ていない人があの打法を批判するのはおかしい。僕はベロビーチキャンプで大リーガーを目の当たりにしてあの打法が一番理にかなっていると思った」と反発した。「あの打法」とはダウンスイングだ。ダウンスイングと言えば " 荒川コーチと王 " が思い浮かぶが巨人で最初の、そして最も熱心な実践者だったのが意外にも広岡だった。

しかし広岡の起死回生のダウンスイングも成績向上には結びつかず、この年は打率.203 と低迷から抜け出す事は出来ず長嶋との差は開く一方だった。長嶋は入団2年目に首位打者に輝きプロ2年目にして早くも打撃主要三部門のタイトルを全て手にした。3年連続の首位打者と二度目の本塁打王獲得で2人の打者としての勝負は着き、広岡が本誌の表紙を飾る機会は大幅に減った。そんな広岡が誌面を賑わしたのが昭和39年のトレード騒ぎ。川上監督、正力オーナー、更には正力松太郎讀賣新聞社主まで巻き込む大騒動となった。「僕は巨人を誰よりも愛している(昭和39年11月30日号)」「巨人以外のユニフォームを着る気はない(昭和39年12月14日号)」とトレードを拒否し事態は混乱したが正力社主の鶴の一声で残留が決まった。しかし広岡の巨人への未練はこの騒動を機に絶たれる事となる。川上監督との確執は続き2年後に現役を引退する。その時の広岡は「僕の野球人生は事実上2年前に終わっていた(昭和41年11月14日号)」と語っている。

2年前のトレード騒動には伏線があった。今でも語り草となっている「ホームスチール事件」だ。昭和39年8月6日の国鉄戦、三塁走者だった長嶋はホームスチールを敢行したが結果はアウト。打席にいた広岡はバットを放り投げてロッカールームに消えてしまった。口にこそ出さなかったが「川上監督はそれ程俺を信用していないのか」の抗議行動だったのは明白だ。この時の広岡の談話は本誌には載っていないが長嶋の「広岡さんには悪い事をしてしまったが、あの場面でどうしても点を取りたいという気持ちを抑えられなかった(昭和39年8月24日号)」とのコメントは残っている。引退した広岡は見聞を広める為、単身米国へ向かった。渡米に際して『だから私は米国へ行く』と題する手記を昭和42年3月6日号に寄せている。片や長嶋は選手生活のピークを迎えていた。本塁打数こそ同僚の王に敵わなかったがチャンスに強い打撃は王を凌ぐ人気を得て球界で確固たる地位を築いていた。その長嶋にも肉体的衰えは着実に忍び寄って来る。昭和42年からは打撃コーチ兼任となり「川上の次は長嶋」とい声が周囲から漏れ伝わるようになる。そのあたりを当の長嶋は昭和42年11月11日号で「考えてみた事もない。少なくともあと5年は出来ると思っている」と一蹴している。

米国から帰国した広岡は根本睦男監督に請われて昭和45年に広島のコーチに就任した。年俸1千万円は広島のコーチとしては破格なものだった。1月28日の自主トレに現れた広岡の第一声は「お粗末なグローブばかり。全く手入れもせずプロとしての自覚が感じられない」表現はキツイが指導者として生きていく覚悟が読み取れる。広島でのコーチ業を2年で終え長嶋が引退し川上監督の後を継いだ同じ年にヤクルトのコーチに就任し2人は今度は指導者として再び同じ土俵に立つ事となる。最下位、優勝、江川騒動、そしてあの解任劇と長嶋の監督としての6年間はドラマチックと言うよりドラスティック(強烈)だった。特に江川騒動は長嶋を苦しめた。小林とのトレードが決まるまで長嶋は「その件については勘弁して下さい」と沈黙を続けた。この問題は監督がどうこう口を挟めるレベルを越えていた。小林というエース級投手を失って勝てと言うのが無理な話で長嶋は優勝を逃し続けて昭和55年10月21日に解任された。広岡はコーチから監督に昇格し昭和53年にヤクルトをセ・リーグ初優勝&日本一にするも翌年にはコーチの人事を巡り、松園オーナーと衝突してシーズン途中で事実上解任された。

奇しくも2人仲良く浪人生活を送る事となったが先に監督に復帰したのは広岡だった。実は浪人中の広岡は長嶋がまだ巨人の監督をしていた頃に「長嶋の下で二軍監督をしてもいい」と漏らした事があった。広岡の心の中にはやや屈折はしているが共に同じ時代を生きてきたという長嶋に対する連帯意識のようなものがあるのかもしれない。事実、広岡は長嶋監督時代の巨人を批判する事はなかった。そして長嶋が解任され巨人から追われると巨人批判を連発するようになる。「巨人は球界全体をレベルアップする姿勢に欠けている。西武こそが球界のリーダーとなり他球団の目標となっていかねばならない(昭和57年2月1日号)」…その姿勢は西武を日本一に導いた後も変わっていない。



          
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#332 十大秘話 ⑩ 空白の一日

2014年07月23日 | 1983 年 
今回のトレードで僕は江川君個人に対して特に言いたい事は無い。要は阪神が僕を欲しかっただけでしょう。プロの世界で1球も投げていない投手と僕を天秤にかけざるを得なかった讀賣グループも苦しかったと思いますよ。このトレードを拒否して野球を止めるのは簡単な事、でもそれがきっかけでプロ野球を見るのを止めるファンも増えてしまう気もする。僕が阪神に行く事で一連の騒動で嫌気が差して離れて行ったファンも戻って来てくれるかもしれない。今やこの問題は社会的影響も大きく江川君一人の問題ではなくなっている。

僕がこのトレードを受け入れる事でプロ野球界の改革の為にもっと次元の高い人達が動き出してプロだけじゃなく野球界全体が良くなる事を期待したい。僕のプロ野球人生は巨人が最下位になった年から始まった。今度は阪神が最下位から這い上がろうという時にお世話になるのも何かの縁を感じる。巨人で得た経験を阪神に持ち込んで良い刺激を加えて微力ながら名門チームの再建に力を貸す事が出来ればと思っています。ですから今回のトレードは今後の僕の人生においても意義あるものだと感じています。  【 昭和54年2月19日号より 】



昭和53年11月21日、いわゆる「空白の一日」を理由に巨人が江川獲得を発表した時から翌年の1月31日、キャンプイン直前に「阪神・江川」と「巨人・小林」の強い要望トレードで決着するまでの71日間は社会問題化した史上空前の大騒動だった。改めて当時の小林のコメントを読み返してみても小林の論理は整然としていて淀みがない。

「僕は江川の身代わりで阪神へ行くのではない。球界全体の混乱収拾の為に希望を持ち喜んで阪神のユニフォームを着る」・・・あるセ・リーグ幹部は「我々は小林君に足を向けて寝られない」とまで言った。小林は加えて「僕を人身御供的に見て貰いたくない。今日からは仲間ではなく敵です」「物質的に恵まれ過ぎた環境に慣れて本来の野球への情熱を忘れないで欲しい」と古巣・巨人の選手らにメッセージを残した。

この年の小林のピッチングは鬼気迫るものだった。嘗ての仲間は「打席であの眼を見ただけですくんだ」と口にした。中日~大洋~巨人~広島の順に首位が入れ代わる大混戦のペナントレースだったが小林に全く勝てない巨人が次第に首位争いから脱落していき、やがて絶対的守護神となった江夏を抱える広島が首位に立ちそのままセ・リーグを制した。

この年の日本シリーズでは3勝3敗で迎えた第7戦に江夏が近鉄相手に9回裏無死満塁の大ピンチを切り抜けた、いわゆる「江夏の21球」で広島を球団初の日本一に導いた。江川を巡る大騒動で揺れた1979年は1年が経過すると主役は江川から江夏へと代わっていた。やがて江川という劇薬の効き目が薄れていくと「プロ野球界全体が抱えた色々な問題と刺し違えた」とまで言い切った小林の気力も次第に萎えていく。

「国民的敵役」だった江川はプロ2年目から2年連続で最多勝、昨年は北別府(広島)に次ぐ19勝と「ひょうきんな実力派」へとイメージチェンに成功し幅広いファン層を掴んだ。一方の小林は移籍1年目に22勝で最多勝に輝いた大活躍以降は15勝前後とやや精彩を欠き、昨年はローテーション投手となって以来最低の11勝と沈み契約更改直後の会見で「来年は投手生命を賭ける」と漏らすほど追い込まれた。5年の歳月は2人の立場を逆転させた。手負いの小林が復活を果たすのか2人を巡るドラマはまだ終わっていない。
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#331 十大秘話 ⑨ 最高年俸

2014年07月16日 | 1983 年 
阪神が遂に江夏を放出した。問題児とか異端児などと呼ばれながらも投手としての実績は不動のものだ。「プロの世界で生き残るにはあれ位のアクの強さが必要なんだ。それを扱いきれずにトレードに出してしまうとは残念で阪神にとって大損失だよ。困ったもんだ…」と語るのは昭和39年に阪神を優勝に導き、江夏も「お爺ちゃん」と慕う藤本定男元監督。また鈴木セ・リーグ会長も「あれだけのスター選手を失うのはセ・リーグとしても惜しい。ここ数年は球団と色々と揉めていたようだが何とか阪神に残って欲しいと願っていたんだがねぇ」とパ・リーグへの流出を残念がった。

惜しまれながら南海入りする江夏の代わりに南海からは江本が阪神にやって来る。江本は今回のトレード劇に「トレードは野球選手には付き物。野球をするのはどこでも一緒、望まれて行くんだからショックなんて無い。寧ろ、セ・リーグはお客さんも多いしやり甲斐は今まで以上にある」とやる気充分のようだ。 【 昭和51年2月9日号より 】



常に打者優位だった球界最高年俸の座に優勝請負人こと江夏が遂に辿り着いた。しかし、そこに至る迄の江夏の野球人生は紆余曲折な道だった。日本中が王選手の本塁打世界新記録に沸いた昭和51年から52年、巨人と人気を二分する阪神のシンボル的存在の一人だった江夏が縦縞のユニフォームと決別し南海へ移籍した事は後のプロ野球界にとって大きな分岐点となる。キャンプで江夏の投球を自ら受けた野村兼任監督は愕然とし頭を抱えた。嘗て長嶋や王をキリキリ舞いさせた豪速球は消え失せていたのだ。

並みの投手となってしまった江夏をどうすればもう一度「日本一の投手」に戻す事が出来るのか、を野村は考えた。既に28歳で心臓に持病がある江夏に今更、激しいトレーニングを課す事は無理。長いイニングを全力投球出来ないのなら短いイニング専門の投手として活路を見い出すしかないと判断しリリーフ投手転向を薦めたが江夏は頑として拒否した。「先発して完投する事こそ投手としての生き甲斐。リリーフ投手なんて半端者のする事、いっそ引退した方がマシ」とまで言い切った。しかし野村は時間をかけて口説き続けた。

江夏を自宅に呼び、時には江夏の家まで出向いてコンコンと説いた。「短いイニングに全力投球する事が今の君がこの世界で生き残る道だ。チームだってそれで助かり、君の投手寿命も伸ばす事が出来る最良の策なんだ、と大げさではなく命がけの説得だった」と野村は懐かしそうに語る。「時には深夜から早朝まで延々と説得する野村さんの熱意に負けた。野村さんの野球に対する情熱に賭けてみようとリリーフ転向を決意した」と江夏はようやく折れた。

長嶋や王の引退後も山本浩ら打者が常に占めていた球界最高年俸の座に投手、それも最多勝争いが常連の先発投手ではなく救援投手がつく事になる。「江夏が行く所に優勝あり」の言葉通りに広島は日本一に、日本ハムは悲願のリーグ初優勝を成すなど最高年俸選手に相応しい活躍を見せた。王に始まり王に終わった昭和51年から52年、後のプロ野球界に優勝する為に不可欠な存在となる救援専門投手が生まれたのだ。ちなみに江夏の代わりに阪神入りした江本は首脳陣と衝突してアッサリと縦縞のユニフォームを脱ぎ、今やテレビCMや芸能界で活躍している。
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#330 十大秘話 ⑧ 指名打者制度

2014年07月09日 | 1983 年 
ひと足先に指名打者制(以下、DH制)を採用した米国のアメリカン・リーグでは守りの負担から解放されたベテラン打者が救われたのとは対照的に日本のパ・リーグでは逆に投手に利したようだ。日本シリーズでDH制の隔年採用を迫るパ・リーグの現状は…

日本プロ野球界における " 20世紀最大の革命 " と言われるDH制度をパ・リーグが採用してから約50日が経過した。当初、パ・リーグ連盟はあらゆる事態を想定して複雑なルール附則を用意していたが無用の心配であって制度適用に伴うトラブルは今の所ない。投手は投げる事に専念し代わりに打つ専門の10人目の打者が登場するという野球は違和感なく進行している。意外にも点の取り合いとなるのでは、との開幕前の予想に反して現在のところ今年のパ・リーグは投手上位という傾向を示している。 【 昭和50年6月16日号より 】


大リーグのアメリカン・リーグがDH制を採用したのは1973年の事。導入の理由は無気力な投手の打撃を見せられるよりは守りや走塁の衰えにより出番は減ってはいるがベテラン選手の年季の入った打撃を見ればファンも喜ぶだろうとの考えからだ。前年のア・リーグ投手たちの打率は.146 と冴えなかったがDHに入った選手の打率は.257 と上昇して派手な打撃戦も増えた。また出場機会が減り引退も近いと思われていたF・ロビンソンやO・セペタらベテラン選手がDH制のお蔭で蘇った。

日本の場合は投手たちがDH制の恩恵を受けた。代打起用による投手交代の場面が減り完投する投手が増えた。完投が増えれば中継ぎ投手陣への負担も減り休養も取れるようになり球威も戻り選手寿命も延びた。DH制導入の前年はパ・リーグ全体で金田留広投手(ロッテ)の16勝が最高で史上初めて20勝投手がゼロとなったが、導入後は忽ち稲尾投手(太平洋)が23勝、鈴木投手(近鉄)が22勝をあげた。勿論、ベテラン打者の復活の手助けとなったのも事実。永池徳二(阪急)・大田卓司(太平洋ク)や監督兼任で、ほぼ引退同然だった江藤慎一(太平洋ク)もその一人だ。

対するセ・リーグは投手交代の妙が減る、大味な試合が増え緊張感が無くなる、野球とはそもそも走攻守の三拍子揃った選手で戦う競技、打てないながらも投手の打撃を見るのも一興、などの理由をあげて通常のリーグ戦はもとよりオールスター戦や日本シリーズへのDH制導入に一貫して反対してきた。しかし制度導入から9年経ち「時代の流れ」「平等の原則」を盾にパ・リーグ側は日本シリーズでのDH制の採用、少なくとも隔年での実施をプロ野球機構に直訴し下田コミッショナーも一定の理解を示した。

コミッショナーや世論に押され気味なセ・リーグ。巨人の九連覇が終わり中日、ヤクルト、広島など巨人以外の球団も日本シリーズに登場するようになったが阪急に3連覇を許すなど形勢はパ・リーグがややリードか。この上さらに不慣れなDH制を導入されたら益々勝ち目が無くなりそうだ。そんなセ・リーグの数少ない理解者がパ・リーグに所属しながらもDH制に否定的な広岡監督(西武)なのも皮肉な話だ。
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