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買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 339 開幕一軍 ・ ベテラン編

2014年09月10日 | 1983 年 



平松政次(横浜大洋)…昭和45年に初の開幕投手を務めたのを含め過去9回も栄誉を手にしたエースが屈辱の開幕二軍スタートとなった。春季キャンプ中に痛めた右足太腿内転筋が癒えずプロ17年目にして最大の危機に直面している。平松にとって今年は名球会入りへカウントダウンの年であと8勝で有資格者となる。「200勝は僕にとって達成出来たら即ユニフォームを脱いでも構わない、と言うくらい野球人として大目標。今年のキャンプは開幕投手よりも名球会入りを念頭に調整してきた」と本人は開幕投手の座を逃した事は大して気にしていない。関根監督も「草薙キャンプでは肩作りよりも体力増強に終始してきた。あれだけのベテランだし実戦登板はそれほど必要ないでしょう」とジックリ待つ覚悟は出来ている。

カミソリシュートを武器に開幕戦では過去5勝4敗と勝ち越している。昭和56・57年は後輩の斎藤明に譲ったとは言え、平松にはこれまでの大洋投手陣の屋台骨を支えてきたプライドがある。ただし投手として峠を過ぎている事は本人も自覚しており、焦りと苛立ちがジワリと襲って来ているのも事実。キャンプ終盤からオープン戦期間にかけて100球前後の投げ込みを開始し肩の状態も上々だった。しかし右足内転筋の痛みはなかなか引かず「自分でも歯痒くて…身体は六分以上は出来てきたけど右足がね。軸足だけに慎重にならざるを得ない」と唇を噛み締めた。

" ガラスのエース " などと有り難くないニックネームを付けられたりもしたが、まがりなりにも190勝以上してきた平松が開幕メンバーから漏れたのは初めて。本人なりの考えでは一軍復帰は5月に入ってからと想定している。" あと8勝 " に万全を期す為に4月を棒に振るのは本人にもチームにとっても苦渋の選択だった。昭和45年(25勝)・46年(17勝)は最多勝、他にも沢村賞や最優秀防御率賞などのタイトルを手にしてきたベテランが世代の移り代わりを感じながらの二軍スタート。斎藤明、遠藤、門田らが主戦となる投手陣では浮いた存在になりつつある男が二十近く歳の離れた若手に混じって血の汗を流している。



高橋一三(日ハム)…「自分としては納得している。100%の力を出せない以上はお情けで一軍に入れて貰っても仕方ないし、それに今のウチはそんな甘いチームではない」 日ハムに移籍して8年、通算19年目のベテランらしく淡々と自己分析をする。一方で開幕二軍は本人にとって悪い事ばかりではない。巨人時代のプロ入り2年目の昭和41年と44年の二度、開幕一軍を逃しているが両年とも5月には昇格し41年はプロ初勝利、44年には22勝5敗・防御率 2.21 で最多勝と最優秀防御率賞、沢村賞にベストナインなどタイトルを総なめにした。勿論、今の自分にあの頃の若さは無い事は分かっているが多少の出遅れに焦りは感じていない。

二軍落ちの原因は左足の肉離れである。3月21日からの岐阜遠征中にふくらはぎを痛めて22日に予定されていた先発登板は流れ、それ以降は治療に専念せざるを得なかった。30日の西武戦で復帰し3回1/3 を投げて1失点だったが球威は戻らず6安打を許すなど内容は今一つで二軍落ちが決まった。思えば昨年は開幕投手を仰せつかったものの直前に盲腸を患い、薬で痛みを散らしながら暫く投げていたが本調子には程遠く結局シーズンを通して調子は戻らなかった。その反省から今年は先ずベストの体調に戻す為の二軍スタートとなった訳だ。

昭和53・54年の2年間は腰痛が悪化し引退を考えるほどの状態に追い込まれた。「あの時と比べたら走れないのは同じだけれど上半身の筋肉強化は出来るし深刻じゃない」と手応えがあるようだ。怪我さえ治れば昭和56年に14勝して日ハム球団初優勝に貢献したように復活出来ると考えている。ただし若手投手の台頭もあって体調が戻っても無条件で一軍に復帰出来る保証はされていないが、ひとたび投壊状態に陥ればベテランの経験と力は大きな武器になる。したたかな投球術を必要とする場面が来る可能性は大いに残されている。



池谷公二郎(広島)…開幕に向けて調整するグラウンドのナインに背を向けてうつむき加減にロッカールームへ急ぐ池谷。二軍落ち・・・。若手ならいざ知らず、沢村賞に輝いた事もある男だけに「今のままではチームに迷惑をかけるだけなので覚悟は出来ていた。でもいざ決まると寂しい…」とショックは大きい。池谷の二軍落ちを決定的にしたのは3月13日の近鉄戦、5回から登板したが5安打のつるべ打ちを喰らい1回もたず5失点。試合後の古葉監督は「感想?それ以前の問題」と斬り捨てた。「今迄ならファールになっていた高目を簡単に運ばれたのは球に力が無いからでしょうね」とマウンド上で茫然と打球を見送っていた池谷は、この時すでに二軍落ちを予期していたのかもしれない。

実は池谷の不調は昨年から続くものだった。昨シーズンは僅か1勝、それも中継ぎ登板で降雨コールドゲームで転がり込んできた1勝で「何もしなかった1年(池谷)」だった。危機を感じた池谷は夏以降、しばしば戦列を離れて再起を図った。四国の著名な整体師を訪ねて身体中隅から隅までチェックしたり投球フォームの改造にも着手していた。若手に混じり秋季キャンプにも参加して、テークバックの際に一瞬右腕を止めていた独特のフォームを長谷川臨時コーチと共に滑らかな動きに変えた。古葉監督も「V奪回の為には池谷は絶対に必要」 として数球団から申し込みがあったトレード話を断っていた程だ。

本来なら今年の春は池谷家にとって待ちに待った季節の筈だった。長男の龍一君の小学校入学を家族全員で心待ちしていた。だが池谷家の大黒柱の二軍落ちでお祝い気分は吹き飛んでしまった。「このままでは終わらん(池谷)」ことは周囲の誰もが信じている。「二軍の朝は早いんですよ。息子と一緒に起きて朝ご飯を食べて家を出て帰りも大体同じ時間。まぁ良いパパをやってますわ」と本人は努めて明るく振舞うが、古葉監督は「次に一軍に上がって来て同じ失敗は許されない」と明言しているだけに今年30歳、試練の10年目は甘くない。

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