goo blog サービス終了のお知らせ 

Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 359 スパイ大作戦 ②

2015年01月28日 | 1983 年 



聞き手…スパイ行為の手法も進化して行くんでしょうか?
富 田…以前に噂になったじゃないの、ベンチから打席の打者に信号を送るってやつ。広島だっけ?
関 本…股間保護のカップが振動して球種を伝えるハイテク装備で、親会社の東洋工業の技術者が開発したという代物らしい
富 田…御多分に洩れず、この手法にも改良版が直ぐに現れたという話が伝わってエモやんがS電機に取材に行ったそうだ
関 本…あるチームのベンチに行って「S電機に行ってきたで。『その節はどうも』 と言うとったわ」と突っ込んでも 「何の事?」 と
      軽くあしらわれたそうだ

富 田…そこまでいくと僕はついて行けない。何もないのにワザと大声を出したりして相手を疑心暗鬼にさせて混乱させる、その
      程度が可愛いよね

聞き手…スパイ行為と言えば南海時代の野村さんですよね?
関 本…最近の週刊朝日でノムさんは「やった」とは認めなかったけど完全否定はしなかったね。「若い選手2~3人をウロチョロ
      させるだけで効果があった」と上手く逃げていた(笑)

聞き手…野村さんの南海退団が決まると秘密裏に大阪球場の色々な装置を取り外したという噂話がありましたね?
関 本…どうなの南海在籍経験者として一言どうぞ(笑)
富 田…それはないと思いますよ…まぁ、ねぇ、、エへへ
関 本…歯切れ悪いですね。まぁそういう事にしときましょう。お互いまだ野球界にお世話になりたいですし(笑)
聞き手…この手の話は確かな証拠がなく疑い始めたらキリがないですね
富 田…ホームとビジターで打撃成績がまるで違う選手がいるのも事実で、皆が " 変だ " と考えるのは自然ですよ


関 本…随分前の日本シリーズでの話だけど相手の球場に行って最初にしたのはグラウンドのチェックじゃなくてベンチ内の
      あらゆるスイッチを調べた

富 田…そこまで神経過敏になるか
関 本…読唇術の名人がいてね、西本監督(阪急)の口の動きだけを観察させてた。「次はバント、エンドラン」と指示するのが
      分かればサインを盗んで解読する必要がないって訳

聞き手…上手くいったんですか?
関 本…敵もさる者、西本監督は黙して動かなかった
聞き手…では誰が作戦を指示していたのですか?
関 本…例えば監督の足元に一斗缶などを置いといて1回蹴ったらバント、2回ならエンドランと合図を出す。それを少し離れた
      控え選手が三塁コーチに伝達するって方法

富 田…お互いが相手の動作の一部始終に神経を尖らせている訳ね
関 本…どこも同じような事をやっているからこそ益々高度に複雑なサインになっていく訳だ
富 田…サイン盗みは現行犯じゃないと罰する事は出来ない。投手の中には相手がサイン盗みなんかしていないのに「サインを
      盗まれたから打たれた」と弁解の言い訳にしている奴がいる

関 本…でもね、今はトレードが頻繁に行われるから移籍してきたら正直に白状しますよ。一番怪しいと疑われている球団から来た
      O投手が「俺は覗き役だった」と言ってた。でも自分達もやっているから怒れない。どこも同じような事をやっているからこそ
      悪びれる事なくシレっと白状するんですけどね(笑)



富 田…もう、こうなったら喋っちゃうけど僕は球種を教えられると駄目なタイプ
関 本…おっ、遂にカミングアウトですか
富 田…野村さんに言ったんだ「気が散って集中出来ないから教えないで下さい」ってね
関 本…で、ノムさんは何て?
富 田…「ならお前は球種が分からなくても絶対に打てるんだな」って。 " 絶対 " って言われてもねぇ… でも逆に球種が分かっても
      絶対に打てるかと言われても打てないでしょ?

聞き手…マウンド上で投げていてサインがバレているなと分かるものですか?
関 本…外角のスライダーに思いっ切り踏み込んだりフォークボールを悠然と見送られたりすると、オヤ?と思いますよ
聞き手…そういう場合はどうするんですか?
関 本…僕の場合は①が直球、②がカーブ、③がシュート、④がスライダーというのが基本なんですけど 「この回だけ①と④を入れ
      替える」と捕手と相談して変更するんです

富 田…そう。それだけでも充分効果があるんですよ。ベンチからの情報が信用出来なくなって思い切り振れなくなる
聞き手…そんなに効果的なんですか?
富 田…僕も一度、カーブが来ると信じて踏み込んだらシュートが来て頭に ガッツーン! 絶対に避けられない、来ると思ってないから
関 本…そうなると次の打者は情報が信じられないから腰が引けちゃって甘めの外角球にも手が出ない
富 田…選手1人づつサインを変えれば有効かな?
関 本…牧野さんが日本シリーズで自軍の一番~三番、四番~六番、七番~九番打者と区分けしてサインを変えて出していたけど
      回が進むうちに自分でも訳が分からんようになったとボヤいていた

富 田…そりゃそうだ。例えば六番打者が走者に出てエンドランを仕掛けようとしたら、走者と七番打者に別々にエンドランのサインを
      出さなくちゃならない…と言ってる僕が既に混乱してる



聞き手…手を変え、品を変えてもサイン盗みを防止するのは難しいんですね
関 本…現状ではバッテリー間のサイン盗み防止には乱数表が有効なんじゃないかな
富 田…乱数表も色々な種類があるそうだね
関 本…縦軸と横軸が交錯した所を見るのが一般的だけど斜めと縦軸、もしくは横軸との交錯バージョンもあるよ
聞き手…今季、セからパの球団に移籍したN投手が乱数表から解放されてノビノビとしていると話題になってますね
関 本…いやぁ、あれには裏話があって実はセ・リーグ時代も乱数表を使っていないんじゃないかと噂されていた
富 田…どういう事?
関 本…普通は捕手からのサインを見てグローブに付けてある乱数表で球種を確認して頷いたり首を振ったりするわけだけどN投手は
      その一連の動作が異常に早くて実際は乱数表を使っていないのでは、と言われていた

聞き手…本当はどうだったのですか?
関 本…噂通りだった。本人曰く 「バレてましたか。上手く演じていたと思っていたんですけどね…面倒くさいし投球のリズムも崩れる
      ので乱数表は使わなかったんです」 だって(笑)。でもそれでも構わないと言う監督やコーチは多いね。相手に乱数表を使って
      いると思わせて外野席から覗くのを止めさせれば充分だって

富 田…乱数表を使われると内野手は困りますよ
聞き手…なぜ内野手が?
富 田…球種やコースによって守備位置を変えますから。あからさまに動くと打者にバレますけど投手が投げるのと同時に動いたり
      しますからね

聞き手…なるほど。じゃ今後は内野手も乱数表を携帯しなくてはなりませんね
関 本…それはさすがにやり過ぎでしょ。捕手がサインを出したらダイアモンド内の選手が一斉に首をうな垂れて下を向く様子は異様
      ですよ(笑)




コメント

# 358 スパイ大作戦 ①

2015年01月21日 | 1983 年 



スパイ行為を巡ってこれまで様々なトラブルがあった。確証は無く曖昧なまま現在に至っている。プロ野球界にスパイ活動は有るのか無いのかを関本四十四氏(巨人→太平洋→大洋)、富田勝氏(南海→巨人→日ハム→中日)に語って貰った。


聞き手…ズバリ聞きます。スパイ行為は存在するのですか?
関 本…少なくとも昔は有った。ねぇ、トミさん?
富 田…多かれ少なかれ多くの球団が研究していたのは確か。実際に行なっていたかどうかは別にして
聞き手…スパイ行為の基本はバッテリー間のサイン盗みですよね?
関 本…バックスクリーン方向から望遠鏡で覗くやつですよ
富 田…いつも同じ場所からだとバレるんで外野席を移動するみたい
聞き手…そんな遠くから見えるのですか?
関 本…大体は指1本で直球、2本でカーブ、3本で…、だから見えますよ。しかも倍率 1000mm の望遠レンズを使うからバッチリ
富 田…走者がいない時は単純だけど走者が出るとブロックサインが加わる。レガースやマスクを触ったりして複雑にする
聞き手…どのようにして打者に伝えるのですか?
富 田…僕が知る範囲では電話です
関 本…電話? 誰に?
富 田…直接ベンチに掛けるんですよ 「次はカーブ」 って。1人が覗いて隣の奴に球種を教えてそいつが電話をする
聞き手…電話を使うとなると観客席から覗いているのではないですよね?
富 田…ええ。スコアボードの中から覗くんです。 で、ベンチから予め決めている合言葉で球種を打者に伝えるんですよ
聞き手…いつ頃の話ですか?
富 田…昭和44年~45年の話。 アッ、どこの球団だかバレちゃうじゃない(笑)
関 本…僕が聞いた話はもっと単純で外野席でアベックを装って色の違うタオルを振るってやつ
富 田…あぁ色で球種を、タオルを振る腕の左右の違いでコースを伝えるってやつね。それはだいぶ初期の話ですよ


関 本…向こうがやってくるならこっちも防御しなくちゃならない。だから捕手が出すサインも次は足し算、今度は掛け算って具合に
聞き手…大変ですね。マウンド上でそんな計算をしているとは思ってもいませんでした
関 本…算数が苦手だった投手はサインミスが多くて(笑)
富 田…サインを盗むのを邪魔をしに行ったりもしますよ。試合当日が " アガリ " の選手が外野席をブラブラするんです
聞き手…何をするんです?
富 田…わざと近くに座ってジッと見つめると、さすがにバツが悪くなるみたいで身振り・手振りが小さくなる(笑)
関 本…すると今度は見つからないように変装するんだ。つけヒゲをして老人に化けたりして
聞き手…そこまでいくと笑い話ですね
関 本…笑い話と言えば荒川さんがヤクルトの監督をしていたある日、神宮での試合前に牧野ヘッドコーチと球場入口で偶然に
      出くわして立ち話をしている最中に牧野さんが「センター付近でおかしな事をやってるね」と言ったら荒川さんは思わず
      「打者として邪道だから尭(荒川監督の息子)には見るなよ、と言ってるんだ」と喋ってしまった

富 田…荒川さんは根が正直だから(笑)
関 本…そのヤクルトと阪神が北陸遠征で対戦した時の事、先乗りスコアラーとして巨人の小松さんも随行したんだけど試合は
      ヤクルト打線が17安打の大爆発。小松さんは外野席に赤と白の旗を振る怪しい人物がいるのを発見したけど阪神の
      スコアラーは全く気づかない。小松さんも教えてよいのやら分からず居心地が悪かったと言ってたよ

聞き手…素朴な疑問ですけど捕手のサインだって色々な組合せがあるのに外野席から覗いただけで判読出来るのですか?
関 本…1球毎にメモをして比べれば割と簡単に分かりますよ。だって僕が理解出来たんですから(笑)
富 田…南海にいた頃の新山さん(現阪急コーチ)がサイン解読が得意だった。1回見たら2回目からズバリ当てた。「キー」さえ
      見つけてしまえば簡単だと言ってたな



聞き手…サイン盗み防止の為にどんどん複雑になっていくのは大変でしょう?
関 本…僕ら投手より捕手が大変ですよ。1球毎にパッパッパッと3回くらい指を動かさなくちゃならないから、如何に早く指を
      動かせるか常に練習してますよ。しかも3回のうち何番目が本当の球種かを瞬時に判断しなくちゃならないから指の
      動きと同時に頭も使うしね。更に走者や一・三塁コーチに分からないようにミットで隠したりブロックサインを出したりと
      本当に重労働だと思いますよ

富 田…ミットを縦にするか横にするかで変わってくるサインを見破るなんて凄いよ
関 本…更に走者がいればピックオフプレーのサインも加わって大変よ。巨人の場合は全部のサインを捕手が出すから…
      でもそれが出来ない捕手は一軍に定着出来ない

富 田…捕手だけの話じゃないよ。今は一通りのサインプレーが出来ない選手は一軍に上れない。結構いるんだよ、これが
聞き手…これからのプロ野球選手はただ打ったり投げたりするだけじゃ駄目って事ですか?
関 本…普通はね。例えば槙原(巨人)みたいに直球だと分かっていても打てない位の球を投げられれば別だけどね
富 田…自分のチームは全くやってないけど相手がやっているから仕方なくやらざるを得ない、なんて嘘ですよ。自分達で
      やっているからこそ相手も同等かそれ以上の事をやっていると疑心暗鬼になって必至に防御しているんですよ

聞き手…必要悪というかこの先もスパイ行為が無くなる事はなさそうですね





コメント

# 357 今だから話せる ⑦

2015年01月14日 | 1983 年 



一度でも阪神タイガースに籍を置いた者の一人として何時も寂しく思うのは何故、阪神出身者に阪神以外の他球団から監督やコーチの就任要請が無いのだろうかという事。田宮謙二郎氏が昭和47年から2年間、東映フライヤーズの監督を務めたのを最後に阪神出身者は他球団の監督に就いていない。田宮氏以前には松木謙治郎氏が大映と東映の監督、藤村富美男氏も国鉄と東映でコーチ職を務めており、伝統球団の人材を他球団が放って置く事はなかった。ところが現在はどうであろう。阪神出身者で他球団のコーチに就いているのは藤井栄治(近鉄)只一人だ。一方で巨人出身者は広岡監督(西武)・近藤監督(中日)・森コーチ(西武)・与那嶺コーチ(西武)・黒江コーチ(中日)・相羽コーチ(阪神)・千田コーチ(ロッテ)・福田コーチ(南海)・内藤二軍監督(ヤクルト)とセパを問わず引く手あまた。嘗ての三原監督(西鉄)や水原監督(東映・中日)など人材豊富。

どうしてこんな状況に陥ってしまったのか阪神関係者は考えてみる必要があるのではないか。現在の安藤監督も阪神以外の球団に籍を置いた経験が無い。最近の歴代監督を見ても金田正泰、村山実、吉田義男とみんな阪神生まれの阪神育ちで周りも身内で固めた。確かに巨人の監督も生え抜きが原則だが長嶋監督は近鉄出身の関根潤三氏をヘッドコーチに、親会社がライバルである中日出身の杉下茂氏を投手コーチに登用した。また現在の藤田監督は大洋でコーチを経験している。セパ2リーグ分裂後の初優勝を遂げた昭和37年のチームを率いたのが巨人出身の藤本定義監督と青田昇ヘッドコーチだったのは何とも皮肉な話だ。いきなり結論めいてしまうがこうした状況の原因は球団内に巣喰ってしまった「人材育成を放棄し成績が悪いとポイっと監督の首を斬り、他球団出身の有能な人材を探す苦労もせず監督やコーチに安易に阪神出身者を据える」という愚行を繰り返して来た球団フロントのお手軽な組閣ぶりに行き着くと考える。

阪神から追い出されて苦労を重ねてもプロ野球界を生き抜いた逞しい選手もいる。現役では救援投手という新境地を開拓した江夏や西武が新球団を設立した際に実力ではなく人気を狙って獲得したと揶揄されながらも今やすっかり「ミスターライオンズ」になった田淵など嘗ては阪神の財産だった男達が他球団で生き生きと躍動している姿を見る度に一抹の寂しさを感じざるを得ない。私は縁あって3球団の球団フロントを務めたが新監督を選考する際に豊富なキャリアを持つ数多い解説者の中から如何に右顧左眄せず忌憚なく率直に嘗ての所属球団を批評しているかを重視していたのを思い出す。そこから「なぜ阪神出身者に他球団から監督やコーチの要請が無い」のかという疑問に対する一つの解答を見つけたような気がした。

阪神は関西地区では絶大な人気を誇り現役時代に実績を残し名を上げた人は地元のテレビ局や新聞社の解説者としての道が開かれている訳だが、その際に阪神球団からマスコミ各社に働きかけて就職を依頼している。いわば阪神球団子飼いの解説者だ。この事が解説者になった時に遠慮会釈ない阪神批判が出来なくなり、ついつい球団寄りの立場を取ってしまう遠因になるのではないか。「アッ、この人は自分に声がかかるのを待っているな」と思える解説を耳にする事がシーズンも深まり秋風が漂う季節になると多々ある。私の思い過ごしなら幸いだが球団だけでなく、こういう阪神出身者もまた " ぬるま湯 " にどっぷりつかっているような気がしてならない。当り障りがなく無難な解説しか出来ない者を監督やコーチに招聘しようとする球団はそう多くは有るまい。

江夏や田淵の様なチームの顔とも言える主力選手であっても球団に批判的な言動が目に余ると容赦なく放出されてしまう。阪神から追い出されたら引退後の職探しに苦労するから球団フロントの顔色を伺うように自然となってしまう。球団としては好都合だ。幸いな事にチームが下位に低迷しても観客動員はそこそこ入っている。優勝争いをしなくても球団経営は潤っているから何もそう目くじらを立てなくても…などと悠長に構えているとファンからしっぺ返しを喰らう日が来るかもしれない。 " 伝統を誇る阪神タイガース " を標榜するならせめて5年に一度くらいは優勝するチームでなければならないと思う。その為にはもっとシビアであって欲しい。シビアな環境で鍛えられた人材には外部から要請の手が伸びる。選手も球団幹部も今こそ真剣に考える時だ。



コメント

# 356 今だから話せる ⑥

2015年01月07日 | 1983 年 



今でも語り草となっている山内選手との「世紀のトレード」で小山投手が入団した大毎は昭和39年から43年までハワイ・マウイ島で、同44年からはアリゾナ州・カサグランデで春季キャンプを張った。これは大毎・永田オーナーと親交のあったSF・ジャイアンツのストンハム会長の全面協力によって実現した海外キャンプだった。また大リーグチームの訪日は日本プロ野球機構を通じてシーズンが終了した秋口なのが普通だったが永田オーナーの個人的な要請で昭和45年の3月末にSF・ジャイアンツは訪日して全国各地で9試合も親善試合を行なった。大リーグチームがシーズン開幕前の大事な時期に日本にやって来るのは異例中の異例だった。それ程までに永田オーナーとストンハム会長の結びつきは強かったのだ。ちなみに親善試合の結果はSF・ジャイアンツの6勝3敗だった。

そのストンハム会長が小山投手を欲しがった。当時の小山投手は36歳で投手としては既に全盛期を過ぎていたが抜群の制球力を誇り、SF・ジャイアンツが喫した3敗のうち1敗は小山投手によるものだった。ストンハム会長は「コヤマは絶対に大リーグで通用する」とベタ惚れで本気だった。チームに同行していた会長付き特別補佐役だったキャピー原田氏から小山譲渡を打診されたのは名古屋のホテルだった。「向こう2年間、小山投手をSF・ジャイアンツに貸して欲しい。サンフランシスコは日系人も多くマッシー村上(村上雅則)の例もあり人気が出るのは間違いない。どうか本人に気持ちを聞いて欲しい。代わりにSF・ジャイアンツの若い有望選手を提供しよう、希望する選手を選んでくれ。何なら2人選んでもらって構わない」という程の本気度だった。

当時の私は大リーグの情勢に明るくなく「選手を選べと言われても…」と戸惑っていると「ウチの3A(フェニックス)にフォスターという選手がいるが彼は将来有望で大リーグでも本塁打王になれる力を持っている。それからキングマンという選手も有望だ」とまくし立てた。フォスターとキングマンの説明は今改めてする必要はないであろう。今一つピンと来なかった私は永田オーナーに報告する前に取り敢えず小山投手本人に話をしてみた。「オッチャン(私は小山を当時そう呼んでいた)、大リーグで投げる気はあるか?」と朝食の席で尋ねると本人はキョトンとした表情で「何を夢みたいな事を言うんだ」と最初は取り合わなかったが事の経緯を説明すると身を乗り出して「ゆっくり考えさせて欲しい」と満更でもない様子。早速に永田オーナーに報告すると「小山本人が行きたいと言うなら行かせてやれ」とGOサインが出た。

永田オーナーの了承を得た私は交換選手の人選に着手した。キャピー原田氏はフォスターとキングマンとの1対2の交換トレードでも構わないと言ったが私は性格が真面目で肩も足もあり三拍子揃ったフォスター1人を指名し細かな契約内容も詰めた。小山投手は1年間SF・ジャイアンツで投げてみて本人が希望すれば翌年も残留、フォスターは小山投手の動向に関係なく3年間大毎でプレーする事に決まった。その後、永田オーナーとストンハム会長のトップ会談で合意し正式な発表を待つだけとなった、筈だった。チームを預かるキング監督が「フォスターは今季中に大リーグに昇格させる予定なので駄目だ」と強硬に反対したのだ。改めて人選をやり直して欲しいとキャピー原田氏に懇願されたが元々が先方から申し出た話であり大毎側が折れるのは筋違いと言う事となり、この話は御破算となった。

この年のSF・ジャイアンツは開幕から低迷し5月中旬にキング監督は解任されてしまった。投手陣の崩壊が低迷の主原因だが、つい小山投手がいたら…と考えてしまう。また成績不振に加えて観客動員の減少も解任の理由とされた。仮に小山投手が入団していたら日系人が大挙して球場に詰めかけていたであろう。フォスターは後にトレードされたシンシナティ・レッズで四番打者となりレッズの優勝に大いに貢献し大リーグを代表する打者となった。今は永田オーナーとストンハム会長は共に野球界から身を引いてしまったが、この様な思い切ったトレードを率先して計画出来るトップがこの頃から存在していた事は興味深い。あの時、フォスターが大毎に来ていたら…と想像すると残念でならない。余談だがフォスターとキングマンの2人は時と場所を変えた現在、NY・メッツでチームメイトである。



コメント (1)

# 355 今だから話せる ⑤

2014年12月31日 | 1983 年 



今日もまた勝った。首位を独走する西武を率いる広岡監督を人は知将と呼ぶ。今の彼を見ていると私はまだ彼が30歳代の若き姿を思い出す。あの時、彼に東京オリオンズの指揮を執って貰っていたら・・・当時オリオンズのスカウト部長として永田オーナーに「広岡監督」実現を直訴した事は間違いではなかったと改めて思う。

昭和41年、広岡選手は一世を風靡した華麗で堅実な守備も寄る年波には勝てず遊撃の定位置を黒江選手に奪われかけていた。時代は長嶋・王の全盛期、川上監督の下で昭和40年・41年と連覇しV9へスタートを切った。世間では川上監督と広岡が野球観で対立していると騒がれて、一本気な気質の広岡は巨人を退団するのではと噂されていた。一方で東京オリオンズは昭和39年に就任した本堂監督の3年目で1年目は4位、2年目は5位、3年目も下位に低迷していた。現場に何かと口を出す永田オーナーが大人しくしている筈はなかった。スカウト部長でありながら永田オーナーの " 野球秘書 " のような存在でもあった私はチームには極秘で監督探しに動いていた。

私が考えていたのは34歳で現役だった広岡の抜擢だった。面識はなかったが新聞等で目にする彼の発言から「一軍の将としての器」であると確信していた。またオリオンズの本拠地は東京の下町で川上監督に反目する事で巨人を追われるストーリーは下町の江戸っ子気質から見ても人気を得るに違いないと判断した。問題は巨人・正力オーナーと昵懇の間柄である永田オーナーが遠慮をして監督招聘に待ったをかける可能性がある事だった。予想通り永田オーナーは私に次の監督を探すよう指示を出した。私は満を持して「今年のドラフトで大塚捕手、来年は八木沢投手と早大生の獲得を目指しているウチにとって早大出身の広岡氏と繋がりを持つのは大切な事。勿論、指導者としての力量も申し分なく彼以外は有り得ない」と進言したが永田オーナーは「彼も候補だが、とりあえず2~3人リストアップしとくように」と命じるに留まった。

早速に広岡周辺の調査を開始した。当時、川上監督の秘書的役割を務めていた関大出身で旧知の仲だった巨人軍の坂本広報担当に探りを入れてみると「広岡君の事なら日本テレビの越智アナウンサーがよく知っているから」と仲介された。越智さんに尋ねると「恐らく今年限りでしょう。ただ私も端くれながらも讀賣の人間ですから表だって援助は出来ませんが本人にオリオンズさんが監督として欲しがっているとお伝えしときましょう」と言ってくれた。シーズンが終わりに近づいた頃の早朝、永田オーナーから突然「きょう自宅に来て朝食を一緒に摂るように」と呼び出しがかかった。日中は多忙な永田オーナーから野球に関する呼び出しは早朝か夜の8時以降と決められていて、私は永田オーナーの自宅近くに住むように命じられていたのだ。

朝7時、「どうだ青木、来年の監督の目星はついたか?」 と朝食を摂りながら永田オーナーは機関銃のようにまくし立てた。「オーナー、広岡君で行きましょう」と私が即答すると「若過ぎないか?コーチの経験すらないのだろ」と懸念を示したが、広岡を推挙する理由を詳しく説明すると「分かった。会う段取りをつけてくれ」と決断した。永田オーナーは一度決めると行動は早い、その日のうちに広岡宅に電話を入れて是非とも会いたいと伝えたが「どういう話か存じませんがまだ巨人のユニフォームを着ている身で他球団の関係者と会う事は出来ません。もしもこの先、巨人を退団する事になったら真っ先に会う事を約束します」と直接交渉は持ち越されたが、その律儀さに永田オーナーは感服した。

正式に巨人を退団した広岡に再び電話をして「永田オーナーが是非ともお会いしたいと申しております」と告げると「礼儀としてこちらから伺います」とこちらの方が恐縮してしまう程だった。その夜、広岡宅まで迎えに行き渋谷区広尾にある永田オーナー宅に案内した。玄関から応接間に入るとあのクールな広岡が「玄関から応接間まで全て大理石とは…青木さん、我々とは桁が違いますね」と目を丸くして驚いた様子だった。永田オーナーが姿を見せた時の広岡の応対に今度は私が驚いた。いわゆる " 海軍式敬礼 " と言われる背筋をシャンと伸ばし恭しく角度をつけて一礼をし、元の直立姿勢に戻る姿は美しかった。永田オーナーが繰り出す野球に対する熱い思いを真正面から受け止め真摯に対応する姿は私がそれまでに見てきた野球選手にはない清々しい雰囲気を醸し出す好青年そのものだった。

ひとしきり話を聞き終えた広岡は身づまいを正すと「私ごとき若輩をそれほど高く評価して頂き非常に嬉しく思います。しかし " 巨人の広岡 " だけでは井の中の蛙です。いま一度野球を勉強する為にアメリカで修業をしたいと考えています」と言い、監督就任を固辞した。広岡が帰宅した後、永田オーナーは断られた事などすっかり忘れて「流石だ。惜しいが諦めるしかない。いくら説得しても陥落しない信念を持つ男だ。惜しい…」と褒めちぎった。契約金目当てに擦り寄って来る輩も多いこの世界で、明日どうなるか分からない米国に単身乗り込む度胸と見識に私も広岡達朗という男に改めて惚れ直した。
コメント

# 354 今だから話せる ④

2014年12月24日 | 1983 年 



確かに「ライオンズ」は今も存在している。5月10日からの阪急対西武の3連戦、阪急球団主催ではあったが久しぶりのライオンズの里帰りで3日間で8万6千人を集めた。昨年は日本一になり今年も快調に首位を走る西武ライオンズ。しかし、やはり何かが違う。ライオンズは博多にあってこそ「ライオンズ」なのだ。今風のお洒落な西武ライオンズを見る度に私は「あの時、何とかならなかったのか…」との感慨に包まれる。

クラウンライター・ライオンズが西武に身売りされた昭和53年10月12日から4年以上が経過した今でも「もしあの時、中村長芳オーナーが球団経営についてスポンサーであった廣済堂会長・桜井義晃氏と腹を割って話し合っていたら球団を手放さずに済んだのでは…」「博多にライオンズを残す事が出来たのではないか」という思いに囚われる。福岡野球株式会社(中村オーナー)から国土計画(堤義明社長)への球団譲渡が成立する10月12日まで井口球団社長も、球団専務だった私も一切の経緯を知らされずにいた。ただ「どうも不穏な動きがある」という予感めいたものはあった。例えば仕事で渡米する私に中村オーナーがサンフランシスコにあるキャンドルスティックパークの球場設計図を持ち帰るよう命じたり、当時の飛鳥田横浜市長と中村オーナーが横浜スタジアムの拡張計画を検討したり、ドラフト会議で指名した江川投手の獲得資金1億円を西武から借り入れていた件など…

どれも後になって繋ぎ合わせれば、という事が多々あった。球団譲渡の発表まで我々には一言の相談もなかった(坂井球団代表は発表の2~3日前に開催されたプロ野球実行委員会で初めて聞かされた)。実は球団譲渡前に最大のスポンサーだった桜井氏は中村オーナーから資金調達の相談を受けていた。具体的に12億円という額を求められた桜井氏は即答せず「善処する」と言うに留まった事が2人の思いが離れる分岐点だった。桜井氏が資金調達に奔走していた時、中村オーナーは西武との交渉を同時並行で行なっていた。後日分かった事だが桜井氏に依頼した頃には既に自民党・安倍晋太郎代議士(現外務大臣)を通じて堤義明氏に打診を済ませていた。

打診された堤氏は当初、プロ野球球団経営に乗り気ではなかった。五輪関連の活動に精力的だった事もありプリンスホテル野球部などアマチュア野球に力を注いでいた。しかし度重なる要請を受けて幾つかの条件を出してそれらがクリアされれば検討すると回答した。条件の1つに福岡野球株式会社の取締役全員の白紙退陣があった。球団譲渡当日に私は井口球団社長に呼ばれて「今朝、オーナーから各取締役の辞表を纏めろと指示があった。私も身売りは初耳だが既に決定事項なので白紙で辞表を提出して欲しい」と告げられた。しかし私はその場での辞表提出を拒否した。「急に言われても身売りの経緯が全く分からず『ハイ、そうですか』とはいかない。それに私ら身内にはそれで通用しても社外取締役の九州電力や西日本新聞社は納得しないでしょう。少なくともオーナー直々に説明に伺うのが筋だ」と一言申し上げた。

「実は先般、同じ事を西日本新聞の社長に言われた。だからこそ身内の君に率先して辞表を提出して貰いたい」と泣きつかんばかりに懇願された。私が言った青臭い正論を井口球団社長も先刻承知だったのである。それを聞いて私も辞表を出す事に承知しようとした矢先、続いて井口社長が口にした言葉で思い留まった。「全員退陣した後で私と君は西武入りする事になっている」…いやちょっと待ってくれ、「それでは今まで世話になった博多の人達に申し訳ないではないか。私はこのまま西武へ横滑りするつもりはない。兎に角、オーナー自らファンに説明するのが先決だ」と言うと、それを「辞表提出拒否」と判断した井口社長は 「それでは私の立場がない。退職金を含め充分な考慮をするから辞表をこの場で提出して欲しい」 と迫ってきた。私は折れた…余談だが私は現在に至るまで退職金を一銭たりとも受け取ってはいない。

中村オーナーから取締役総退陣の連絡を受けた堤氏にすればもう固辞する理由がなくなり横浜スタジアムの持ち株47%を売却し即座に12億円を用意したと聞いている。実はその3日前に資金調達を済ませた桜井氏が中村オーナーに「準備出来た」と報告していたのだが既に西武への球団売却の仮契約が済んでいた。予てよりライオンズは平和台球場にいてこそ、と主張していた桜井氏の願いは潰えた。何故、中村オーナーはこうも簡単に球団を手放したのか?魅力的なチームを作れず観客動員も振るわず赤字経営が最大の理由だろうが、もう1つの側面として地元福岡の有力者の支援を受けられなかった事もあるだろう。中村オーナー自身の活動の場が主に東京であった事で地元との関係が希薄だったのも反省材料。元々は西鉄を母体としていたライオンズ。西鉄は地元最大の私鉄で愛着も強く市民との繋がりをもっと強化していれば…と悔やまれてならない。

財政的には世間で言われるほど切迫したものではなかった。昭和52年のドラフト会議で1位指名した立花選手とその年の暮れに招聘した根本監督の契約金に6千5百万円を提示したくらいだから。要は中村オーナー自身が博多の街に情熱を失ったとしか考えようがない。それにしても中村オーナーが独走せずもっと早い段階で桜井氏と本音で話し合い、知恵を出し合っていたら博多のライオンズは消滅する事なく生き続けていたのではないか。博多のファンに申し訳ない気持ちは終生拭えないであろう。



コメント

# 353 今だから話せる ③

2014年12月17日 | 1983 年 



昨年の暮れから年明けにかけて球団と揉めた有藤(ロッテ)が開幕するとそんな騒ぎが無かった事のように活躍している姿を見るのは喜ばしい事だ。昭和27年からスカウト生活を始めて昭和53年にクラウンを退団するまで数々のアマチュア選手と関わった私だが、その中でも最も短い交渉期間で契約に至ったのが有藤道世君だった。

ドラフト制度が採用されてから4年目は「黄金の43年」と呼ばれたように、かつてない程好選手が続出した年だった。田淵・山本浩・富田の「法政三羽ガラス」、星野、山田、福本、東尾、大田…と枚挙に暇がない程揃っていた。当時は東京オリオンズに在籍していた私は濃人監督ら現場首脳陣から三遊間強化の為の補強を要請されていた。地元東京という事で法大の3人を調査したが田丸スカウトの報告では田淵は本人・両親共々巨人入りを望んでおり、山本は地元の広島が西野球団代表(当時)を中心に既に他球団が入り込む隙がない程に囲い込み済み、残る富田には今一つピンと来るものが無かった。そこで関大出身の私は関西での人脈を頼りに独自に近畿大の有藤と藤原の周辺調査を行なっていた。

春季リーグ戦終了後に近大・松田監督に直接会い「どうしても有藤と藤原が欲しい。ウチの不動の三遊間にしたいので是非とも協力してほしい」と真正面から挑んだ。松田監督が「青ちゃん、どれくらい本気なんだ?」と聞いてきたので「何番目でも1位は有藤だ」と答えると相手もさる者「じゃ法政勢はどうするんだ」と切り返してきた。「ウチは近大オンリー」と言うと「ホンマかいな、調子ええ事言うて」となかなか本気にしてくれない。そこで私は言った「松田さん、長い付き合いで私の性格は御存じでしょ?もしも永田オーナーが法政で行く、と言い出したら私はクビを賭けると約束します」と。その一言で松田監督もやっと " その気 " になってくれた。

「そこまで言うのなら有藤には話をしよう。でも藤原は入学に際して武智修君(松山商→近鉄)の世話になっているので僕の口から返事は出来ないが、仮に2人を獲るなら条件は両者同じにしてほしい」と松田監督に念を押された。参考までにその場でのやりとりを再現すると


     「分かりました。2人とも契約金1千万円を約束しましょう (私)」
     「税金分も考えてやってくれないか (松田監督)」
     「はい、約束します。ドラフト終了後に契約書を持って来ましょう (私)」
     「了承した。有藤は母親から私に一任されているので大丈夫だ (松田監督)」
     「ところで他球団の動きは? (私)」
     「まだ来てない。在阪球団も君ほど評価していないようだ (松田監督)」  ・・・ といった具合だ


有藤がオリオンズ入団後にマスコミの間では「南海・鶴岡監督(当時)が永田オーナーに有藤獲得を進言した」と言われていたがそれは違う。鶴岡監督が新人の有藤を見て自軍のスカウト連中に「地元にあんなに良い選手がいたのに何をしていたんだ」と叱責したのが真相。阪急・西本監督にも「オリオンズは向こう10年は三塁手に苦労しないな」と褒められ私は鼻高々だった。実はもう一人、目を付けていた選手がいた。東京農大の広瀬宰(現西武コーチ)である。ヤクルトの宇高勲スカウトも密かに注目していた内野手でドラフト当日、予定通り1位で有藤を指名出来たが指名順が後のヤクルトが広瀬を2位で指名するという情報を得て藤原2位指名予定を急遽変えて広瀬を指名した。チーム構成上これ以上の野手指名は難しく藤原を指名する事は出来なかった。ドラフト会議終了後、私はその日のうちに契約書を携え大阪に向かいサインして貰った。実に交渉時間ゼロのスピード契約だった。

有藤は春季キャンプを無事に乗り越えオープン戦を迎えたがここで問題が生じた。無類の鉄砲肩が災いして、一塁送球の際に高投する失策が目立つようになった。悪い事に守備の不安が自慢の打撃にも影響を及ぼすようになった。5試合連続無安打となり「明日の阪神戦でも安打が出なければ明後日から三塁は前田でいく」と濃人監督が言い出した。阪神の先発投手はエース・村山実、実力的に有藤に勝ち目はない。そこで私は試合前の村山に「村山君、有藤は大器なんだ。だが今はすっかり自信を無くしている。オープン戦だし自信を付けさせてやってくれないか。君から安打を放てば自信を取り戻すと思うんだ」と頼み込んだ。

「青さん、彼の得意なコースはどこなの?」と村山君は聞いてきたので「真ん中から外寄り」と私は答えた。でもまだ安心出来ない。得意のコースに来ても打てる保証は無いのだ。それは7回二死の場面に訪れた。そこまで良い所の無かった有藤に最後の打席が回って来た。祈るような気持ちで見ていると村山投手は有藤のバットが一番出やすいコースの外角に投げた。バットが一閃すると打球は左翼線に勢いよく飛び、翌日以降も試合に出続ける事が出来た。試合後の有藤は村山投手から安打した事で大喜びし、自信も回復して以後の活躍ぶりは語る必要もないだろう。有藤本人にこの事実を話したのは15年後のつい最近の事だ。



コメント (1)

# 352 今だから話せる ②

2014年12月10日 | 1983 年 



今年も西武のユニフォームを着て大張り切りの田淵の姿を見ると私はつくづく田淵は変身したと言うか成長したと言うか、人間は良くもここまで変われるものだと感慨深い。昭和53年暮れの真夜中に阪神・小津球団社長に阪神ホテルに呼び出され西武へのトレードを通告された時に涙の抗議をした事など嘘だったような気さえする。

田淵の話とは少々離れるが私がクラウンライター・ライオンズの球団専務をしていた時に根本監督招聘に熱心だったのは彼が広島カープの監督時代に後の広島の礎を見事に作り上げた手腕に惚れ込んだ為だ。当時のクラウンのチーム構成は頭打ちの状態だった。私なりに考えていたのは若手の真弓・若菜・立花らに加えて中日の小松投手と宇野選手をトレードで獲得し、ベテラン・中堅の竹之内や太田を絡めてチーム作りをしていくという計画だった。中日の2人が獲れるのなら主力級を放出する覚悟で中日の中川代表(当時)と交渉を進めていた。しかしプロ2年目の宇野が一軍で活躍しだして中日側が放出を渋る一方、真弓や若菜が地元の柳川出身で彼らの放出は後援会筋からの反対もあって計画は頓挫。その後、私は球団専務の職を離れる事になる。
 ※ 詳細は 【 #290 風雲録 ④ 】 参照

私の構想に根本監督も賛同してくれた。さらに「チームの若返りの過渡期にはベテランの力も必要」だとして新生西武の顔となる看板選手の獲得を提唱した。チームを一新するには先ず人気選手を加入させるのが王道である。そこで田淵の名前が浮上した。私生活で何かと世間を騒がして阪神も手を焼いているとの情報は球界内に知れ渡っていた。昭和53年10月、堤オーナーの至上命令で田淵獲得に勢力的に動き出した。特に小津球団社長と個人的に親交のあった根本監督が「新チームには田淵が絶対に必要」と阪神側に働きかけた。既にクラウンの球団専務を辞め大阪の自宅いた私に阪神の西山和良編成部長から「青木先輩、ライオンズで有望な選手は誰ですか?」と電話があったのはその頃であった。

その電話の声だけでピンと来た私が「西山君よ、ライオンズと大トレードか?」と聞くと「いやぁ…」と返事に詰まった。そこで私が「阪神が出す選手のレベルによって獲れる選手は違ってくる」と答えると「ウチは相当の覚悟で挑むつもりです」と言った。その時点でライオンズの人間ではなかったので「西武に義理はないから阪神OBとして知っている限りの事は話すよ」と言って電話を切った。スポーツ紙に堤オーナーの談話として「人気選手が是非とも欲しい。阪神と交渉中である」という記事が載ったのはそれから数日後の事だった。暫くたって再び西山編成部長から電話が来たが、その内容から交渉はかなり具体的な段階まで進んでいると思わせるものだった。

「田淵と古沢の見返りなら誰を要求すればよいですかね?」 「それなら真弓、若菜、立花、大田…」と名前を挙げたが一言、二言付け加えた。「たぶん根本君は立花や真弓は出したがらないと思うが簡単に妥協しちゃ駄目だよ。うんと粘って僕が挙げた選手以外だったら阪神は損するよ」と。田淵が深夜にホテルに呼び出されてトレード通告を受けたと報道された頃にまた西山編成部長から電話があった。「真弓と若菜はOKでしたが立花と大田はNGです」と言うので「古沢を出すなら投手を獲ったらどうか」と答えた。交渉の末、西武は真弓・若菜・竹之内・竹田の4人に決まったが阪神では古沢は移籍を了承したが田淵がゴネた。

後になって人づてに聞いた話では阪神は田淵に「一旦、根本監督の下で勉強していずれ阪神に指導者として戻って来ればいい」と西武に移籍してもいずれは阪神に帰って来られるからと説得したそうだ。これには背景がある。昭和43年のドラフト会議で阪神が1位指名したが巨人入りを熱望し阪神入団が難攻していた田淵に当時の担当スカウトだった佐川直行氏が、大津淳(現球団営業部長)・村山実・安藤統男に次ぐ球団史上4人目となる「本社からの出向社員」の条件を提示して入団に漕ぎ着けた。これは将来に渡り身分保障をする特別待遇であり、トレード通告を受けた田淵が「阪神に騙された」と言ったのはこの時の話があったからだ。

このトレード交渉中、阪神が要求した大田を根本監督が最後まで拒否したのが興味深い。春秋の筆法をもってすればあの時に大田が阪神入りしていたら昨年の日本シリーズでの大田の活躍は無かった訳で西武の日本一は達成出来なかったかもしれない。あのトレード劇から5年、今なおチーム中心選手として活躍する田淵と大田を見ていると根本氏の選手の能力を見る確かな眼力やフロント業務に精通していた巧みな交渉テクニックが堤オーナーの信頼を得る礎になったと思わざるを得ない。あの田淵を優等生に変身させた広岡監督の操縦術にも敬服しながら大田や真弓のプレーを楽しみに球場に足を運んでいる。



コメント (1)

# 351 今だから話せる ①

2014年12月03日 | 1983 年 



最近の江川君の快投ぶりを見る度に25年間のプロ野球界生活の中でも忘れる事の出来ない昭和53年秋から翌54年暮れまでの慌しかった1年間を思い出す。私は当時クラウンライター・ライオンズの球団代表代理。昭和53年10月末に当時の中村長芳オーナーが3年越しで監督就任要請をしていた根本陸夫(現西武管理部長)を説得して3年契約が完了した。シーズン後半丸々を費やしていただけにホッと一息つくとドラフト会議が目前に迫っていて少々慌てた。まだ指名選手選考が済んでいなかった。この年の目玉は文句なしで江川卓投手(法政大)、だが早くから元衆議院議長の船田中氏を後見人として巨人以外はプロ入りしないと表明していた。江川本人も両親も交渉の窓口を蓮見秘書に全面委任していた為に巨人以外の各球団は直接挨拶も出来ず難攻不落状態だった。

スカウト生活が長かった私でも江川獲得は困難に思え諦めの境地だった。スカウトが選手を獲得する時は先ず相手選手を恋人の如く惚れ込まないと粘りに粘って説得する気持ちも湧いてこないし、本心から惚れなければ選手にも本気度を見透かされて獲得は難しくなる。そうした経緯から私は1位指名候補に松本正志投手(東洋大姫路高)、小松辰雄投手(星稜高)、門田富昭投手(西南学院大)の3人に絞り込んでいた。ただ門田は腰に持病があり左腕投手という利点から松本を推していた。一応、毒島スカウトに江川の調査を命じていたが江川家周辺から「クラウンは一番行きたくない球団」と念を押された。毒島が法政大のグラウンドに姿を見せるだけで江川は練習を切り上げて消えてしまう徹底ぶりだった。

当時の球団の財政状況からすれば江川1人に1億円近くの契約金を払うのは難しいと考えていたが中村オーナーは世間が球団の懐具合を揶揄すれば逆に強気な発言を繰り返した。11月18日のスカウト会議で各スカウトの現状報告がされて指名候補の絞り込みを行なった。私は松本を推していたが小松も捨て難かった。ただ小松の父親が遠洋漁業中で留守を預かる母親に「主人共々、大学進学か社会人の熊谷組にお世話になるつもり」と言われて諦めざるを得なかった。会議で私は中村オーナーに「根本新監督の下、若手の力でチーム再建を目指しているのだから江川より松本を指名するべき」と意見を述べたが、中村オーナーは「一応、分かった。ただ最後に船田先生にお会いして真意を確認してから決める事にしよう」と最終結論は持ち越された。

しかし中村オーナーは船田代議士と接触出来ずにいた。電話でアポイントを取ろうとしても秘書に断られ、国会が閉会する時機を見計らって直接事務所に出向いても多忙を理由に会えなかった。遂には岸元総理に仲介を依頼した所、後日書面で回答が来た。そこには「本人及び家族が巨人入団を望んでおり他球団に指名されても入団せず迷惑をかけるだけなので御遠慮願いたい」という趣旨の内容が書かれていた。ただ主要スポンサーであるクラウンライター会長の桜井氏はじめ後援者の多くが指名回避に反対した。結局、結論は出ず指名か否かは中村オーナーに一任された。ドラフト当日のホテルグランドパレス1階喫茶室に坂井球団代表、根本監督、浦田・毒島スカウト、それと私を集めて中村オーナーが口を開いた。

「指名順が1番だったら江川でいく。世間がウチの財政問題をとやかく言うなら今回は避けて通れない。門前払いを喰らい皆に苦労をかけるかもしれないが私の決意を汲んで貰いたい」と表明した。根本監督は「オーナーの意向なら現場はそれに従うしかない」と理解を示したが私は「オーナーの命令には従いますが政界関係は門外漢です。船田事務所周辺の説得はオーナーにお任せします」とクギを刺した。そして江川指名後を想定して政界関係はオーナー、法大関係者は法大OBの根本監督と私、実家周辺は毒島スカウトと役割分担を決めた。しかし確率は1/12 なので取り越し苦労になるに違いないと楽観し、松本と小松の両獲りが叶うよう願いながら会場に入った。

予備抽選の後、本抽選が行われ中村オーナーは1番クジを引き当てて喜色満面。皮肉な事に江川が希望する巨人が2番だった。当時は本抽選後に昼休憩を挟んで選手の指名を行なっていた。すると巨人側から「別室を用意してありますので是非…」との申し入れがあった。恐らく江川指名回避のお願いとその代りにクラウンに有利なトレード等の提案をしたがっているのが手に取る様に分かった。「松本か小松を指名出来て尚且つ巨人から有望な選手を獲得出来ればチーム再建に大いに役立つな」との思いが私の頭をかすめたたが中村オーナーは「ウチは江川でいきます」と間髪入れずに答えて巨人側の昼食の誘いを断った。

それでも長嶋監督は諦め切れないのか「どうにかなりませんか?」と私や根本監督に尋ねたりしていたが「オーナーが決める事だから私らが口を挟めるものではない。山倉(早稲田)は巨人の補強ポイントにピッタリじゃないか」と言うと長嶋君は苦笑いした。また廊下ですれ違った上田監督(阪急)は「先輩、パ・リーグの為にも江川でお願いしますよ」と言うので「阪急は松本か?ウチも欲しいんだが譲るよ、貸しだゾ」と答えると「これで松本と三浦(福島商)の両獲りだ」と嬉しそうに昼食に向かった。このように指名を待つ間に舞台裏では各球団が駆け引きを行なっていた。そしてクラウンライター・ライオンズは悲壮な覚悟で江川指名に踏み切った。



コメント (5)

# 350 マッシー村上、再び

2014年11月26日 | 1983 年 



「行ってくるよ」「ハ~イ、行ってらっしゃい」…午前9時、佳子夫人に見送られて村上はいつも通りに家を出た。ここは米国のサンフランシスコ市サンマティオ。村上がこの地にアパートを借りてちょうど1ヶ月になる。昨年12月27日の出来事が無ければ今頃は日本でコーチ業に勤しんでいたに違いない。「これで良かったんだ」 村上はハンドルを握りながらそう自分に言い聞かせた。

「ウチの方針として初めてコーチを務める人の肩書きには『補佐』を付ける事になっている。それが受け入れられないのならコーチを引き受けて貰わなくて構わない。コーチになりたがっている人は大勢いますから」 「そうですか、では残念ですが今回は縁がなかったと言う事でお断りします」 日ハム球団事務所でのひとコマ。昨年に現役を引退した村上に日ハムは二軍投手コーチ就任を要請してきた。年俸は現役時代よりも下がるが800万円という金額は妻と子供2人の4人家族には充分な額だった。しかし、この話に村上は即答出来ず球団にかけあった。「その補佐の肩書きは取れませんか?」 「いいえ出来ません。ウチのしきたりですから受け入れて貰わなければ困ります」と返答は厳しかった。組織にはそれなりの決まりがあるのは分かっている。それがルールなら従わなければ規律が保たれないのも分かっている。が、自分の左腕1本でプロの世界で18年間頑張ってきた村上には他人から見ればそんな些細な事が我慢出来なかった。「何とかなりませんか?」となおも食い下がると「まぁ慌てる事はない。仕事納めの12月27日までゆっくり考えてから決めて構わないから」と返答を待ってくれた。

村上は自問自答していた。
    
      「オイ、お前は800万円を捨てるのか?肩書きなんてグラウンドに出たら関係ないだろ」
      「いや俺にもプライドがある。お金じゃないんだ」
      「お金じゃないって家族はどうなるんだ、霞でも喰えというのか」

正直に言えば自分でも補佐でも仕方ないと頭では分かっていたが「お受けします」と口に出す事が出来なかった。最終回答日まで何度か球団とかけあったがお互い歩み寄る事が出来ずに12月27日が来てしまい結局、コーチ就任を辞退した。今でも六本木の球団事務所を後にした時の締め付けられるような不安を村上はハッキリ憶えている。出掛ける前に佳子夫人に「コーチを引き受けるか半々だよ」と言うと「いいわよ、あなたの好きにすればいいじゃない」 と答えていたが、いざ無職になった亭主が帰って来たら動転するに違いないと思うと足取りも重くなった。家に着き玄関のドアを開けると佳子夫人は全てを察したのか「さぁ明日から職探しを頑張りましょう。自分を捨ててまで我慢する事はないわよ」と明るく村上を迎えた。実際には年の暮れとあって職探しは正月明けから始める事となったが無職で迎える正月は心細かった。

1月中旬、かつて所属したSF・ジャイアンツに単身乗り込んだ。事前に連絡を入れた訳でもツテがあった訳ではなかった。飛行機のタラップを降りる村上のポケットには『やさしい英会話』と『和英辞典』が入っていた。「もしかしたら物乞いに来たのかと思われるかも…」と折れそうな気持を奮い立て「とにかく気持ちを伝えよう」とジャイアンツのオフィスに向かった。村上の心配は杞憂だった。オフィスに着いた村上を迎えた球団代表はかつて村上とバッテリーを組んでいたT・ハラー氏だったのだ。挨拶もそこそこに村上は訴えた。「お願いが有る、金をくれと言うのではない。寧ろバッティング投手や雑用をやるからジャイアンツで野球の勉強をさせてくれないだろうか」 ハラー氏は意味が理解出来なかった。英語が通じなかった訳ではなく合理的で契約社会で育った米国人に無報酬で構わないとする日本流の考え方が理解出来なかったのだ。ハラー氏はおもむろに尋ねた。

「ムラカミ、君はいつまで投げていたんだ?」 「去年まで日ハムというチームで投げていたよ」 「怪我をしていないなら投げられるんじゃないか、どうなんだ?」 「うん、だからバッティング投手をやりながらと言っているんだ」 「いや、私が言っているのは現役としてはどうなんだと聞いているんだ」 「肩やヒジは故障していないから投げられるけど昔みたいな速球は投げられない。今や変化球投手だよ」 「それならキャンプに参加してテストを受けてみろ。ホテル代と食事代は球団が持つからやってみないか?」 村上は不意を突かれて唸ってしまった。米国に来たのは指導者としての勉強をする為で自分にもう一度現役投手としてのチャンスが有るとはツユほども考えていなかったが投手としての本能に火が点いた。アリゾナ州スコッツディールで行なわれるキャンプに村上は参加する事に。毎年春先に悩まされる肩痛が嘘のように出なかった。

オープン戦にも登板しパドレス戦で1回を無安打に抑えるなど快調だった。キャンプには二十数人の投手が参加していたが3月末迄に次々と振るい落とされ最終的に10人が残る。何日かおきに3人、2人、2人、…と去っていくが村上はしぶとく残っていた。3月下旬になると12人になった。若手投手に転換中のジャイアンツにあって38歳の " ロートル " が残っている事自体が驚異であった。しかし3月28日、最後に落とされる2人に村上の名前があった。「やっぱりショックは有った。でも気持ちの切り替えも早かった。だって米国に来たのは指導者の勉強をする為だったから、いい夢を見せて貰ったよ」と屈託のない笑顔を見せた。現在の村上は昼間はジャイアンツの3Aでバッティング投手を手伝いながら若い選手と共に汗を流している。「実際に体験しながら覚えた方がいいからね。ネット裏で腕を組んで遠くから見るなんて事はしたくない」と語る。

だが密かに大リーグ復帰を夢見ているのも確かだ。昼間の練習を済ませると必ずジャイアンツ戦を見に行く。それはジャイアンツのオーナーが村上を誘ってくれるからだ。そのオーナーが「いいかいムラカミ、身体だけは鍛えておいてくれ。君も御存じの通りウチは先発投手陣が弱く中継ぎ投手の需要は多い。監督は若手を使いたいようだがきっと君の出番が来ると思うよ」と言ったのが現役復帰の拠り所だ。今年の5月には39歳になるが「よくその歳で頑張れるなぁと言う人もいるけど39歳はまだまだ若者ですよ。この先の人生を考えたら1年や2年なんてどうって事ない。子供たちも日本じゃ経験出来ない事を吸収して欲しい」と前向きだ。米国での費用は日本のマンションを売って工面したので日本に帰れば無一文の生活が待っている。「どれだけの事を勉強出来るか、それをどう評価してくれるかは僕の努力次第だね」…遥かなる男・38歳、まだまだ元気。



コメント

# 349 愚の骨頂

2014年11月19日 | 1983 年 



この号が発売される頃には、この『世紀のショー』とやらが終わって色々な話題を投げかけていると思われるが私は言いようのない虚しさを感じている一人だ。4月30日、西宮球場の阪急対西武戦の試合前に阪急の福本・蓑田・バンプの俊足トリオと競走馬を走らせ競わせるアトラクション。球団は「彼らの俊足ぶりをアピールするもの。まぁ一種のジョークと受け取って下さい」と言い、「面白い企画」と評価するファンも少なくないらしいが私は、かなしくなった。「悲しい」ではなく「哀しい」のである。3人が野球に対して真摯に向き合っている秀れた選手であるだけに余計に哀しい。

人馬競争なるものは1971年にオークランド・アスレチックスのキャンパネリス遊撃手がやった前例がある。今回の企画もそのショーを実際に見物した矢形球団取締役の発案で日本中央競馬会の全面協力を取付けている。出走する馬はジンクビアレスという牡の五歳馬でれっきとしたサラブレッド。ただし内臓疾患がありレースの出場経験はない。中堅守備位置から投手マウンドまでの60㍍で競うそうだ。

福本は「球団が観客動員の為に一生懸命に考えた事だし自分が手伝える範囲なら喜んで…」と言ってはいるがそれは律儀な福本らしい社交辞令で本心は「野球選手が馬と走る姿を見て喜ぶファンがどれくらいいるのか」と快く思っていないのではと推測する。福本には日本球界の盗塁記録を次々と塗り替え、大リーグ記録の「934」にあと12個と迫っている俊足の持ち主としてのプライドが有る筈だ。その足は野球選手の足であって馬と競争する為の足ではない。

この企画を " 4月30日・西宮競馬場、人馬特別 " という見出しで報じたマスコミにも落胆したが、それ以上に暗澹たる気持ちにさせたのは蓑田に『 ゲリホープ 』 、バンプに 『 ヒットリデスカ 』 と球団がいかにも競走馬風な名前を付けて話題を煽った事。少しでも注目して欲しいのは分かるが、たとえ冗談としても蓑田が何時も下痢気味なので『 ゲリ… 』、バンプが女性に声をかける決まり文句をもじって『 ヒットリ… 』とは下品過ぎる。人気獲得の為に球団が必至になって頭を働かせているのは理解出来るが度が過ぎていませんか?

ファン呼び集め作戦としてプレゼントデーを設けたり、選手と直に接触出来る機会を作ったり、ガイドブックや友の会冊子の充実を図ったりと球団の涙ぐましい努力は認める。しかしグラウンド上のプレーではなくチームの看板選手を馬と競争させる事が本当にファンサービスと呼べるものなのだろうか?例えば同じ走るのなら春季キャンプでよく行なっているベースランニング走で2組に分けてタイムを競う模様をファンの前でやり負けた組に罰ゲームなどを課す出し物ならまだ理解出来る。

こういう世の中なのだから何もそんな固い事を言わなくても…と反論されそうだが、かつて試合前のアトラクションとして歌手を呼び歌謡ショーを開いた球団があった。しかし、その出し物は直ぐに止めてしまった。ファンが球場に足を運ぶのは歌を聴く為ではなく野球を見る為だ。決してサラブレッドを人間と比較してどうのと言うつもりはない。競走馬の素晴らしさは馬と競ってこその美しさであり人間と競う意味を見い出せない。こんな物言いは私の思考が固く時代遅れのせいだろうか?野球に対して真摯な考えをお持ちである筈の上田監督の御意見を是非ともお聞きしたい。



                          


コメント

# 348 三軍

2014年11月12日 | 1983 年 



巨人の多摩川グラウンドには大金が眠っている…過去に巨人がドラフト指名した選手の多くが一軍に昇格する事なく球界を去った。特に高卒選手にそれは顕著である。新人で程なく一軍の戦力になった高卒選手は堀内恒夫(昭和40年)、関本四十四(昭和42年)、河埜和正(昭和44年)、淡口憲治(昭和45年)、篠塚利夫(昭和50年)くらい。「程なく」の範疇に「5年間」が入るのなら定岡正二(昭和49年)も含めてもよいだろう。高卒に限らず大学・社会人を含めても高田繁(昭和41年)、小林繁(昭和46年)、中畑清(昭和50年)、山倉和博(昭和52年)、原辰徳(昭和55年)くらいだ。最近では横浜高から入団した安西健二も期待されながら腰痛を発症し二軍の試合にすら出場出来ずにいる。

長嶋監督解任後に首脳陣が刷新されスカウト達に出された新たな方針は「高校生の場合、技術的に出来上がった選手より投手は制球難であろうと球の速い事、打者は確率は悪くても当たれば飛ぶ選手を探せ」というものだった。初年度のドラフト会議では原(東海大)の1位指名が既に決まっていた為、素材型選手としての指名は2位の駒田(桜井商)が初だった。現体制2年目、東海地区担当の加藤スカウトが「上背もあり球が滅法速い投手がいる。制球は定まらず大ハズレの可能性も小さくない」と条件付きで槙原(大府高)の名をスカウト会議に出した。また関西地区担当の伊藤スカウトは「同じPL学園で法大に進んだ小早川(広島)の高校時より数段上」と吉村獲得を提案した。

今の高卒選手は練習の為の練習が必要なくらい脆弱だ。そこで現首脳陣は「慌てて育てようとして故障させては元も子もない。プロとしての身体作りから始めてくれ」と三軍制度を提唱して新たに原田・山本・上田の全員30歳代の若いコーチ陣を編成した。かつて1年目の春季キャンプの紅白戦で王選手から三振を奪うなど期待された林泰宏(昭和54年)が故障したように高卒投手は肩や肘を壊しがちなので特に槙原には球を持たせず、ひたすら走らせた。野手も技術面以前にウェートトレ、ノック、ペッパーと体力強化に専念させた。また新人の役目として先輩達の道具運びや練習設備の設置等、裏方さんの仕事を手伝わせてプロの世界を肌で感じさせ教え込んだ。その三軍から今年、駒田・槙原・吉村が一気に飛び出した。

「この多摩川からようやく丈夫な奴らが育ってきた」 かつて鬼寮長と恐れられ現在は二軍の最高責任者を務めている武宮敏明氏は喜ぶ。「ワシは指導者の苦労は一軍より二軍の監督・コーチが一番味わっていると思う。高校から入って来て右も左も分からん子供をジッと我慢して育てる。国松(二軍監督)らにワシは感謝しとるよ」と顔をクシャクシャにする。その横で国松は「いやぁ、僕らはあくまでもお手伝いでやるのは選手。あと忘れてはいけないのが一軍首脳陣の理解ですよ」と強調する。現在の巨人は一軍と二軍とのパイプは支障なく繋がっている。

今年のグアムキャンプに槙原と吉村の帯同は1月のスタッフミーティングで決まっていたがキャンプ目前に一軍首脳陣から「他に二軍から推薦する選手はいるか?」と打診を受けた。国松は迷わず「駒田」と答えた。当たれば大きいのを飛ばすが変化球に弱くまだ「ウドの大木」程度の認識だったが「三振が多いというイメージを受けそうな選手だがこの2年間で予想以上に成長した。グアムが駄目でも宮崎には連れて行ってくれ」と訴えた。一軍首脳陣の中にも時期尚早と反対する人間もいたが王助監督のたっての希望で駒田のグアムキャンプ参加が決まった。もしもこの時、従来のような「ウドの大木」という先入観だけで決めていたら駒田は多くの先人のように多摩川グラウンドの土埃と共に消え去っていたかもしれない。

巨人というチームは人気球団であるが故に少しでも欠点があると直ぐにマスコミの標的にされる。早い話が他球団だって似たり寄ったりなのだ。高卒選手で直ぐに一軍で活躍した選手は数える程で阪神・江夏豊、近鉄・鈴木啓志、中日・鈴木孝政などは例外中の例外。阪神・工藤一彦は4年、中日・都裕次郎でも2年間は二軍でみっちり鍛えてきた。他球団の数年間の二軍生活は「焦らず鍛えた」と評価されるが巨人だと「何年経っても成長しない」と酷評されるのが辛い所。三軍制を明確に内外に標榜する事で数年間の猶予期間が許された今後の巨人に第四・五の選手が現れるのか注目が集まる。



コメント

# 347 日本人コーチ第1号

2014年11月05日 | 1983 年 



「話が違うじゃないか!」 若菜は単語と単語を繋ぎ合わせて精一杯、思いを伝えようとした。明日がキャンプ打ち上げという前日の4月9日、NY・メッツのマイナー組織の統括責任者であるスティーブ・シュライバー氏に呼ばれて「ヨシ(若菜)、君には選手ではなく3Aのタイドウォーター・タイズでコーチをやって貰いたい」と告げられたのだ。「阪神タイガースは僕に1シーズン、プレー出来ると言ってくれた。僕は米国までトライアウト(入団テスト)を受けに来たのではない」と訴えるとシュライバー氏は「我々はそんな約束はしていない。阪神タイガースに対してトライアウトだと説明していた」と譲らなかった。若菜はその場で電話をかけた。相手は渡米の手続きを手伝ってくれた阪神の三宅通訳である。「若菜さん、もう僕はこれ以上お手伝い出来ないんです。それに契約内容までは関知していません。申し訳ないですが…」

野球さえ出来ればどこでも構わない。そういう思いで日本を飛び出した。でも好き好んで飛び出した訳ではない。あの忌まわしい一連の騒動に嫌気がさしたのだ。ポルノ女優の一方的な結婚宣言、愛人騒動、離婚、再婚、そしてトレード宣言の果てにクビ。昨年の若菜は1年中騒がれ続けた。退団にまで追い込まれた決定打は週刊ポストが報じた暴力団との黒い交際疑惑だった。「球団が調査しても何一つとしてやましい事は無かった。それなのに…」「言ってもいない事、事実でない事を面白おかしく書くのはペンの暴力じゃないのか。僕の事だけなら我慢もするが女房や女房の姉さんの事まで書かれて堪忍袋の緒が切れた」と当時を述懐する。

その頃、若菜は左肩の故障を名目上の理由に二軍に幽閉されていた。プレーに支障は無い、一軍に戻りたいと訴えても球団は頑なに昇格させなかった。「だったらトレードに出してくれ」と要求したがスキャンダルに追い討ちをかけたこの爆弾発言が若菜の立場を更に危うくした。12月下旬になって若菜を球団事務所に呼び出して「君がチームにいると悪影響を及ぼすし君自身も居づらいだろう。我々も君が望むトレード先を探したけれど残念ながら見つからなかった」として自発的な退団を促した。若菜は腹を括った。野球をやるなら何処でも一緒、この謂れ無き汚名を晴らしてやると他球団からの誘いを待ったが「まるで刑務所帰りの扱いだった(若菜)」で声をかける球団は現れなかった。

そんな若菜に阪神が助け舟を出した。岡崎球団社長が阪神と友好関係にあるNYメッツに話を持ちかけると折り返しマイナーの2A・ジャクソンから契約書が届いた。米国行きを決めようとした矢先、日本の4球団から内々に「3ヶ月か半年してほとぼりが冷めたらウチに来て欲しい」と誘いが来た。中には監督が直々に電話をかけてきた球団もあった。心が揺れた。再婚して新しい家庭を構えたばかりで妻子を日本に残して何の保証もない米国へ行くより日本の球団でプレーする方が良いのでは…。迷う若菜に新妻・尚子夫人の「日本に残ってチームが変わっても世間の貴方を見る目は簡単には変わりませんよ。私達の事は気にしないで下さい」 この一言で若菜は米国行きを決意した。なのに…である。

渡米後の生活の面倒をみてくれたのはかつて長嶋巨人の助っ人だったデーブ・ジョンソン氏。現在は3A・タイズの監督に就いている彼は「今のウチは若手にチャンスを掴んで欲しい大事な時期なんだ。3Aの枠は22人で君に割ける余裕は無く仕方ない措置なのだ。若手に何かアクシデントが起きたらすぐに選手に戻れるようにしておく。その為に練習もこれまで通り自由にやって構わないのでコーチの肩書きで残って欲しい」と頭を下げた。日頃から世話になっている彼に懇願されれば無下には断れない。しかし「野球をする為に来たのにコーチなんて思いもしかった。先ず頭に浮かんだのは日本の事。あれだけ盛大に送り出して貰いながらこのザマでは残された家族が笑い者になるのではという不安だった」米国に残る以上、若菜に選択の余地は無く大リーグに日本人初のコーチが誕生する事となった。

取り敢えずは米国に留まる事になったが来年以降はどうするのか?「メッツが選手として契約してくれるのならこちらにいるつもり。僕の気持ちは野球をやりたい、それだけです。使ってくれるのなら日本の球団でも構わない」と。そして若菜には昔からの夢が有るという。あの長嶋さんがどこかの球団で指揮を執る事になったら是非とも彼の下でプレーしたいそうだ。「子供の頃から長嶋さんのファン。オールスター戦で満塁本塁打を放った時に『若菜いいゾ』と声をかけて貰って嬉しかった」と無邪気に語る。誘いのあった日本の4球団のうち1つに長嶋氏の監督就任説が根強くあり若菜もその動向を海を渡った遠く離れた異国の地から常に気にかけている。

とにかく今は与えられた場でやるべき事をこなしていくしかない。若菜が所属する3Aは9月2日までに何と140試合を消化する。つまり殆ど毎日が試合で朝6時に集合して移動し即試合を行い、試合が終わればまた移動。それの繰り返しの中で自分のトレーニングもしなければならない。打撃練習も出来るが5人1組で20分と限られており充分とは言えない。「これからが本当の勉強です。とにかく色々な事を学びたい」「体調はまずまず、日本にいた時と変わらない。肩だって普通に投げてますから大丈夫です」 " コーチ就任 " がイコール " 引退 " でない事を強調する。現状を見つめ、その中で最善の方向を探し出し突き進んで行く。今の若菜にはそんな姿勢がある。



コメント

# 346 駒田に続け!新戦力

2014年10月29日 | 1983 年 



市村則紀(中日)…酒だけは止められないけどタバコは正月からキッパリ止めました
聞き手…滑り込みで開幕一軍を決めたけど初登板はいきなり開幕戦(4月9日・広島戦)でしたね?
市 村…ええ、今は安木さんが万全じゃないので左の中継ぎは僕一人なんで大変ですけどチャンスだと思ってます
聞き手…初登板はやはり緊張した?
市 村…あの時(一死三塁で打者・加藤)は急に言われて10球くらいの肩慣らしで出たので何が何だか…特に加藤さんには串間の
      オープン戦で初球を本塁打されたので緊張しました。でもいざマウンドに上がったら「初球は直球で行こう」とハラを括って
      次の山本浩さんには「もう打たれてもいいや」と開き直りました。結果が良くて助かりました

聞き手…次の大洋戦も抑えましたね?
市 村…ホッとしています。良い結果を積み重ねて今度はもっと緊迫した場面でも使って貰えるよう頑張ります

聞き手…ところで子連れルーキーと騒がれプロ入りして3ヶ月が過ぎますが、どうですか?
市 村…皆さん気軽に声をかけてくれてやり易いですね。ただ遠征が多くて子供たち(娘5歳、息子2歳)の顔を見られないのが
      寂しいですけど、2日に一度は電話で話しています

聞き手…ドラフト直後はプロ入りに反対していた奥様は?
市 村…勿論、今は応援してくれてます。悔いの残らない人生を送りたい、という僕の決意に賭けたみたいです
聞き手…でもオープン戦の中盤で二軍落ちした時は不安だったのでは?
市 村…本当は心配していたと思いますけどいつも通りでしたね。でも二軍に落ちた2週間は自分にとって良かったですね
聞き手…どうして?
市 村…子連れルーキーと騒がれてプロ入りしたので取材が毎日続きプレッシャーに押し潰されそうだったのが、あの2週間で
      一息つけました。同時に1日でも早く一軍に行かなくちゃと奮起しましたね

聞き手…もう名古屋での生活は慣れましたか?
市 村…ええ。でも環境とは不思議なもんで会社勤めの頃のような早起きは出来なくなりました。でも規則正しい生活を送っていますよ
      酒は止められませんけどタバコは止めました。プロ入りが遅かった分、1年でも長くプロでやりたいですからね



二村忠美(日ハム)…初打席は 『こりゃ打てん』 と思ったらやっぱり三球三振
聞き手…流石の肝っ玉ルーキーも開幕戦(阪急戦)は緊張したらしいですね?
二 村…守備についた時は緊張しましたね。慣れない外野だったから「早く飛んで来い」とばかり思ってました
      でも打席では落ち着いてましたよ

聞き手…プロ初打席を振り返ると?
二 村…山田さん(阪急)だったんですけど初球の外角ストレートを見た時に「こりゃ打てんわ」と思いましたね
      2球目の内角ストレートをファール、3球目の外角カーブを空振りして三球三振。アッという間でしたわ

聞き手…でも2打席目に見事プロ初安打
二 村…何としても喰らいつこうと。真ん中のカーブでした
聞き手…打つ事よりも守りの不安の方が大きい?
二 村…社会人時代も殆ど外野はやってませんからね。それにナイターと人工芝はほぼ初体験ですから慣れるまで
      時間がかかるでしょうね

聞き手…プロの実感っていうのは?
二 村…やっぱりお金じゃないスかね。オープン戦から既に懸賞金が有りますし、1つ1つのプレーがお金に跳ね返って来ますから
聞き手…社会人野球との違いは?
二 村…特には無いですね。投手のスピードとか打球の速さも驚く程ではない。やっぱりお金っスよ

聞き手…オープン戦では結構打っていましたけど今は苦戦してますよね?
二 村…オープン戦は調整の場ですから主力級投手は。開幕したら明らかに別人ですよ。それと打ち損じも多いですね、焦りもあるけど
      良い所を見せようと力んでいるんですかね。ま、開き直るしかないっスよ

聞き手…自分が書かれている記事は読みますか?
二 村…読んでますよ。面白いっスよね、言ってない事まで書いてあったりして
聞き手…今は独り暮らしですか?
二 村…合宿所で若い奴らと共同生活です。5月になったら女房を呼ぼうと部屋を探しているんスけど東京は家賃が高いっスね
      払える家賃の部屋だと、どんどん都心から離れていって…

聞き手…駒田(巨人)の活躍は気になりますか?
二 村…凄いっスよね、駒田。でも今は他人の事なんか気にする余裕は無いっス。自分の事で精一杯っス
聞き手…新人王は?
二 村…今は全然眼中にないっス
聞き手…じゃあ今一番欲しい物は?
二 村…そりゃあヒットですよ。どんな汚いヒットでもいいから欲しいっス


宮城弘明(ヤクルト)…ナイターが始まる頃になると眠くなっちゃって
聞き手…初登板(4月13日・巨人戦)では二軍でも対決した駒田と当たりましたがどうでしたか?
宮 城…別にいつも通りでしたよ「あぁ駒田か」って。ただ派手なデビューをして波に乗ってるなという感じでしたね。でも二軍では
      僕が投げ勝っていたし威圧感はなかったですけどね、打たれちゃいましたが(笑)

聞き手…駒田とは同級生だけど話をした事はあるの?
宮 城…二軍の試合前とか話をよくしてましたよ
聞き手…最近は?
宮 城…駒田は今やスーパースターですから(笑)話かけられないっス。それは冗談で神宮の試合前にも「お互い一軍入り出来て
      良かったな、頑張ろう」と話しました。対戦するのは何時頃だろう消化試合の頃かな、なんて言っていたら次の日でしたね

聞き手…初登板(5回一死から三番手として登板)の状況は?
宮 城…僕の場合は何時でも行けるように毎試合準備しとけと言われてましたが本当に急でした。肩慣らしも充分じゃなかったけど
      何とか抑える事が出来てよかったです

聞き手…緊張しましたか?
宮 城…想像していた程ではなかったです。もっと膝がガクガクして顔も硬直するかもと思っていたので。一死一・二塁の場面だったので
      打者を抑える事しか頭になかったですね


聞き手…一軍入りで生活面も変わったと思うけど何か困った事は?
宮 城…ずっと昼間に野球をやっていたので夜型に変えようのしているのですが難しくて。ナイターが始まる頃になると眠くなっちゃって
      さすがにブルペンに入れば目が覚めますけど(笑)

聞き手…合宿所から球場までは電車移動らしいけどオシャレには注意してる?
宮 城…最近トラッド風シャツ、ズボン、セーターを買いました。服装は無頓着なんですけど毎日同じ服を着て行く訳にいかないですから
      それに沢山持っていても洗濯が大変なんですよ、自分でやらなくちゃならないので。実家にいた頃は楽をし過ぎてました。改めて
      母親に感謝しています

聞き手…でも大きなサイズを探すのも大変でしょ?
宮 城…青山にあるんですよ大きいサイズを扱う店が。神宮からも近いし一軍で頑張っていれば服を買いに行く機会も増えそうです
聞き手…ご両親を球場へ呼ぶ事も考えている?お母様の病気も快復しつつあると聞いているけど
宮 城…ええ、もうすっかり良くなりました。実家は中華料理屋なんですがもう店に出ています。母は球場で試合を見たいと言って
      いるんですが僕の出番は事前には分かりませんし、まだナイターは寒いのでもう少し暖かくなってからと考えています

聞き手…じゃその頃までにローテーション入りしなくちゃね
宮 城…ハイ。そう出来るように頑張ります


中居謹蔵(ロッテ)…朝6時に起きて野球をやるのはもうイヤ
聞き手…開幕戦(対南海戦)で勝利投手の権利を残して降板しましたがあの時の心境は?
中 居…口には出さなかったけど結構イライラしてました。とにかくシャーリー投手が抑えてくれるように祈ってましたけど…
聞き手…結局、引き分けでプロ初勝利は消えてしまいました
中 居…若生投手コーチには「まだ行けます!」と言いましたけど正直ヘロヘロでしたから続投しても打たれてたでしょうね
      残念でしたけど試合に出れた事が嬉しかった。ナイターで投げるのが夢でした。コーチから昼間に投げたって一銭にも
      ならないと言われてましたから。朝6時に起きて野球をやるのはもう嫌です

聞き手…病気のお父さんからその後連絡は?
中 居…ありません。開幕一軍が決まったのを電話したら「そんな事でいちいち連絡してくるな」と言われました。今度連絡するのは
      ローテーションに入って投げる日がハッキリするようになった時です

聞き手…昨年は悔しい思いをしましたね
中 居…日ハムとのオープン戦でクルーズ選手と大宮選手に一発を喰らって二軍落ちしてそれっきりでした。二軍で5勝6敗じゃ
      お呼びはかからなくて当然です

聞き手…でも今年のオープン戦は、2勝1敗1S・防御率 2.81 と結果を残して4年目で初のの開幕一軍を果たしました
中 居…体調も良いしこれで二軍行きだったら納得出来ないでしょうね

聞き手…二軍の時と調整法に違いはある?
中 居…まだ出番がまちまちなので投げる事より今は下半身の強化が主体ですね。二軍監督の土居さんは僕をスカウトしてくれた
      人なんですが「ピッチングはランニングと同じ」が口癖でとにかく走らされました

聞き手…昨年は一軍に帯同して打撃投手を任されて充分に練習出来ませんでしたね
中 居…球団の考えでしょうけど悔しかったですね、何で自分なのかと。一軍の手伝いだと自分の練習は出来ないし不安でしたね
      二軍の試合にも投げられず後輩にも先を越されそうで焦りました

聞き手…実際に後輩の欠端投手が活躍しましたしね
中 居…テレビ埼玉で西武戦を中継するので見てました。口では「頑張れ」と言っていても心の中は複雑でしたね。本気で野球を辞めて
      故郷に帰ろうかと考えました

聞き手…そんな時に心の支えになったものが有ったそうですが?
中 居…1つは親父(栄蔵さん)の病気ですね。心臓病で入退院を繰り返していて闘病中の楽しみはテレビで「今年はテレビ中継に
      映りそうか?」と気にしているんです。だから今年こそテレビを通じて自分の姿を見せようと心に決めました

聞き手…もう1つは?
中 居…昨年のオフに地元・福島で開いたサイン会です。倉持さん(現ヤクルト)と一緒だったんですけど二軍の僕のサインなんか
      誰も欲しくないんじゃないかと思っていたら多くの人が「頑張れ」「早く一軍に上がれ」と励ましてくれて、この応援を無にしたら
      バチが当たると思いました。そうしたファンの人達の為にもやらなくちゃならないんです、今年こそは



コメント

# 345 草魂

2014年10月22日 | 1983 年 



300完投まであと1つだけ(4月17日現在)となった近鉄・鈴木啓示投手。選手生活18年のベテランながら相変わらず意気軒昂な所を見せてくれる。そのあたりの心境を同じパ・リーグ出身で付き合いの長い元南海・佐藤道郎氏が尋ねた。

佐藤 …やあ、今日は宜しく。長持ちの秘訣を色々と聞かせて下さいな
鈴木 …何を言わせたいんや、迂闊な事は喋らんよ
佐藤 …生まれた時は右利きだったと言うのは本当?
鈴木 …そうらしいよ。自分では憶えてないけど2歳頃に右腕を骨折してギプスしていた間に左手を使っているうちに左利きになったそうだ
佐藤 …まさに怪我の功名だな。野球を始めるまでは何に興味があったの?
鈴木 …相撲かな。ワシらが子供の頃は野球と相撲くらいしかなかったからね。今はテニスやらゴルフやら色々あるけどな
佐藤 …身体も大きいし相撲取りになっても横綱になれたかもね。四股名は「草魂山」かな(笑)
鈴木 …横綱はともかく得意な型は左四つ。食事や字を書くのは右だけど運動関連は左ばかりだね
佐藤 …へぇ~、じゃ握力はどうなの。やっぱり左の方が強い?
鈴木 …いや右の方が10㌔くらい強くて65㌔前後、やはり生まれ持った筋力かな。左腕なんかピアニストみたいに細いでしょ?
佐藤 …本当だね。マメひとつ無いね
鈴木 …でもねシーズンに入るとゴッつくなるんや

佐藤 …ところでその歳まで元気に投げ続ける事が出来る秘訣は何かな?
鈴木 …ワシの持論なんやけど「投手とは投げる人ならず、走る人なり」とね
佐藤 …カネやん(金田正一)と同じか。大投手二人が揃って「走れ・走れ」と来たか
鈴木 …走り込みが足らんとマウンド上で足に震えが来るで。「地に足を着ける」とはホンマの話やね
佐藤 …俺なんかは上体で投げるタイプで、しかも短いイニングしか投げなかったから走り込みは余り必要なかった
鈴木 …同じ投手と言っても十人十色だからね。長年プロでやってると「顔」で打者を抑え込んでしまう猛者もいるわな
佐藤 …いやいや、人相の悪さならお前さんには負けるわ(笑) 確か西本(巨人)も走るのが好きだと言ってたな
鈴木 …ホンマかいな?走るのが好きな選手などおらんと思うけどな。投げたり打ったりする方が楽しいやろ?
佐藤 …巨人のグアムキャンプに行った時、投手陣がようけ走っとるんで 「何でそんなに走るん?」 と中村投手コーチに聞いたら
     「貯金ですよ、1~2年先の為に」 と言うとったわ。投手王国の秘訣を見た気がしたね


佐藤 …あと1つで300完投達成だけど、どんな気分?
鈴木 …特に意識していない。まぁ、ただ長くやってきただけさ
佐藤 …またまた御謙遜を。でも投手の分業制が確立した今後はこの記録を破られる事はないだろうね
鈴木 …だろうね。昔は60試合登板も珍しくなかったからね。稲尾さんなんて平気で70試合くらい投げてた
     そんな俺も最近の登板数は20~23試合だもの、仮に全試合完投しても15年かかる計算…無理だわ

佐藤 …先日、連投した投手が打たれた時にアナウンサーが「連投ですから仕方ありません」と言ってたけど世代の違いを感じたよ
鈴木 …高校時代から連投は当たり前だった。東映にいた森安なんか2日投げないと「俺は干された」と愚痴ってたくらい
佐藤 …完投した翌日にベンチ入りするのは当たり前で試合展開によっては普通に投げてたもんな
鈴木 …これからは300勝は勿論、200勝も難しくなるだろうね。江川だってあと140勝くらいでしょ、15勝を10年…厳しいな
佐藤 …もしも若い頃の鈴木啓志投手が今の時代に投げたいたらどうなっていたかね?
鈴木 …中4日、5日で投げていたら今の勝ち星(282勝)は無理だろうね。ただ選手寿命は延びて45歳くらいまで投げられそう(笑)
佐藤 …今の選手は温室育ち、ひ弱、根性無しって事かなぁ。まぁ時代だからね仕方のない事だけど
鈴木 …ワシらだって当時は「最近の若い者は…」と言われたから同じだよ、今の選手と

鈴木 …プロ根性と言えば思い出す事があってね、プロ1年目に4勝くらいしかしてないのに鶴岡監督(南海)がオールスター戦に
     選んでくれた。テレビで見た選手と間近に会えて嬉しくてね憧れの投手に「カーブの投げ方を教えて下さい」と言ったんだ
     そしたらね「あぁ君が鈴木君か、速い球を投げるらしいね」との社交辞令の後「いいかい、ここはクラブ活動じゃないんだよ
     教えて欲しいならコレを持って来なさい」と指で銭マークを示してね。憧れていた分だけ悔しくてね、このオッサンよりも凄い
     カーブを放ったる!と思ったわけよ

佐藤 …持ち前の反骨精神に火が点いた訳だ
鈴木 …でも感謝しとるよ。あれ以来、現状に満足しなかった事が今に繋がっている。技術は見て盗み、創意工夫してこそ自分の物になる
     簡単に教えて貰った事は身につかんよ

佐藤 …俺も現役の頃にコノヤロ~という気概は持ってたよ。新人の時は朝8時過ぎに自転車でグラウンドに行って整備をさせられたんだ
     すると11時頃になると杉浦さんや三浦さん達がバスで悠々と現れてね。『コン畜生、俺も来年はバスに乗ってやる』 と頑張った
鈴木 …そうそう、プロの世界の「平等」とは活躍した選手にはその成績に応じて御褒美を配分するという事。大した成績でもないくせに
     要求ばかり一人前なのは「平等」を履き違えているね


佐藤 …今年で36歳、これまでの鈴木啓志投手の野球人生を振り返るとどう?
鈴木 …本音を言うとワシは阪神に入りたかったけど、よくよく考えてみると近鉄で正解だったと思う。当時の阪神には小山・村山・
     バッキー投手が全盛で投手王国だった。そこには高卒の1年坊主が潜り込む隙間はなかったろう。投手力の弱かった近鉄
     だからこそ打たれても、打たれても使って貰えた。職場として近鉄は最高だった、と感謝せんとね

佐藤 …俺がいなくちゃ、という自負も生まれるしね
鈴木 …よく言うのが阪神は 「LIKE」 だけど近鉄は 「LOVE」 なんや。まぁ惚れとるっちゅうこっちゃ
佐藤 …300完投達成後の目標は?
鈴木 …300勝は勿論だけど1年でも長く現役で頑張る事が目標かな
佐藤 …冗談じゃなく45歳目指して頑張って下さい。今日はありがとうございました


コメント