Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 845 月見草

2024年05月22日 | 1977 年 



野村監督との対談はポツリポツリというかダラダラというかそんな調子だった。野村監督は今にも居眠りをしてしまいそうで何やら心細くなった。しかし話のひとつひとつが面白く私のツボにはまった。

金が魅力でプロ入り
「プロ野球の世界に入った動機?やっぱりカネやな。プロの世界に入ればとにかくカネになると思ったから」と話しながらタバコを離さない。洋モクのケントを口に咥えて煙たそうに目を細めて話し続けた。「でも実際にプロ入りしても思うてたほどカネは貰えんかったなぁ。忘れもせんが年俸8万4千円やった(苦笑)。なんぼテスト入団でもちょっと安すぎやろと思ったな」京都府下の網野で生まれ育ち小学校、中学校を卒業した。家が貧乏で小学3年生から中学卒業まで新聞配達をやっていた。アルバイト?と聞くと「そんな生易しいもんやなかった。本業だよ。一家が生きていく為のカネを稼いでいたから気安く休んだりできんかったよ」と否定した。

父親は昭和13年、野村監督が3歳の時に亡くなった。戦死だった。「お袋と三歳上の兄貴と俺。食っていく為に必死やった。当時の貧乏いうのは今とはわけが違う。ホンマに餓死してまう」網野に住之江織物の絨毯工場があった。母親はそこへ働きに行っていた。だが過労がたたり子宮ガンを患い働けなくなった。その頃から小学校3年の野村少年が家計の為に新聞配達をするようになったのだ。「あの頃は本当に辛かったねぇ。明日食べるものがなかったからお袋も大変だった」と振り返る。その母親が亡くなったのは昭和43年。野村 " 選手 " は既にスター選手になっていたが、「まだ監督にはなってなかった。お袋に晴れ姿を見せられず残念だった」と吐息をつく。


兄貴のお陰で高校へ
中学校に入学すると野球部に入った。「お袋に頼んだんや野球をやらせてくれと。その代わり卒業したら京都へ丁稚奉公に行くからと」その彼が峯山高校に進学した。「高校へ行けたのは兄貴のお陰だった。高校くらい出てないと人様に相手にされないぞとお袋に言ってくれて最初は反対していたお袋を説得してくれたんだ」それで野球も辞めずに済んだのだ。ただし野球界では峯山高校は言うまでもなく無名高校だった。グラウンドも小さく、そもそも野球専用ではなく恵まれた環境ではなかった。

「俺は誰が何と言おうと、とことんまでプレーをやっていこうと思うてるね。ファンが1人もいなくなって、もうお前は野球を辞めろと言われるまで続けるよ」この道24年・43歳。言うまでもなくプロ野球界の最古参である。「花盛りの最中にパッと現役を去る人もおるが、それは人それぞれの考え方というもんでね、俺は12球団のどこも使ってくれなくまでプレーしたいねぇ。何しろ丹後の田舎から出て来て右も左も分からんかった人間がここまで生き残ってこれたんやからそう簡単に辞められん」


ボロボロになるまで
昭和46年に突如として右肘にアクシデントが起こった。痛みが激しく球を投げられなくなった。医者にもかかったが治る見込みは立たなかった。「なにしろ投手に返球する距離も投げられんかったから困ったねぇ。もう俺もこれまでかと密かに引退を覚悟したわ」と振り返った。だが医者も見放した状態を何と腕立て伏せをすることで克服してしまった。「結局、この世界は人を頼りにしただけではアカンのや。自分の事は自分で解決せんとな」

好きな酒も断った。故障と飲酒は関係なかったが「何かを辞めることによって野球に全てを賭ける。そういう生き方をしようと決めたんや」と淡々と語る。野村監督の話は途切れては続き、その言葉一つ一つに味があり、風格があり、千金の重みがあった。「人生ていうもんは大体こういうもんやないのかねぇ。ボロボロになるまで、ぶつぶつと自問自答しながら生きていく。それが人間の生き様というもんと違うかね」


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« # 844 吼えよタイガース ② | トップ | # 846 素顔拝見・益山性旭 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

1977 年 」カテゴリの最新記事