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#331 十大秘話 ⑨ 最高年俸

2014年07月16日 | 1983 年 
阪神が遂に江夏を放出した。問題児とか異端児などと呼ばれながらも投手としての実績は不動のものだ。「プロの世界で生き残るにはあれ位のアクの強さが必要なんだ。それを扱いきれずにトレードに出してしまうとは残念で阪神にとって大損失だよ。困ったもんだ…」と語るのは昭和39年に阪神を優勝に導き、江夏も「お爺ちゃん」と慕う藤本定男元監督。また鈴木セ・リーグ会長も「あれだけのスター選手を失うのはセ・リーグとしても惜しい。ここ数年は球団と色々と揉めていたようだが何とか阪神に残って欲しいと願っていたんだがねぇ」とパ・リーグへの流出を残念がった。

惜しまれながら南海入りする江夏の代わりに南海からは江本が阪神にやって来る。江本は今回のトレード劇に「トレードは野球選手には付き物。野球をするのはどこでも一緒、望まれて行くんだからショックなんて無い。寧ろ、セ・リーグはお客さんも多いしやり甲斐は今まで以上にある」とやる気充分のようだ。 【 昭和51年2月9日号より 】



常に打者優位だった球界最高年俸の座に優勝請負人こと江夏が遂に辿り着いた。しかし、そこに至る迄の江夏の野球人生は紆余曲折な道だった。日本中が王選手の本塁打世界新記録に沸いた昭和51年から52年、巨人と人気を二分する阪神のシンボル的存在の一人だった江夏が縦縞のユニフォームと決別し南海へ移籍した事は後のプロ野球界にとって大きな分岐点となる。キャンプで江夏の投球を自ら受けた野村兼任監督は愕然とし頭を抱えた。嘗て長嶋や王をキリキリ舞いさせた豪速球は消え失せていたのだ。

並みの投手となってしまった江夏をどうすればもう一度「日本一の投手」に戻す事が出来るのか、を野村は考えた。既に28歳で心臓に持病がある江夏に今更、激しいトレーニングを課す事は無理。長いイニングを全力投球出来ないのなら短いイニング専門の投手として活路を見い出すしかないと判断しリリーフ投手転向を薦めたが江夏は頑として拒否した。「先発して完投する事こそ投手としての生き甲斐。リリーフ投手なんて半端者のする事、いっそ引退した方がマシ」とまで言い切った。しかし野村は時間をかけて口説き続けた。

江夏を自宅に呼び、時には江夏の家まで出向いてコンコンと説いた。「短いイニングに全力投球する事が今の君がこの世界で生き残る道だ。チームだってそれで助かり、君の投手寿命も伸ばす事が出来る最良の策なんだ、と大げさではなく命がけの説得だった」と野村は懐かしそうに語る。「時には深夜から早朝まで延々と説得する野村さんの熱意に負けた。野村さんの野球に対する情熱に賭けてみようとリリーフ転向を決意した」と江夏はようやく折れた。

長嶋や王の引退後も山本浩ら打者が常に占めていた球界最高年俸の座に投手、それも最多勝争いが常連の先発投手ではなく救援投手がつく事になる。「江夏が行く所に優勝あり」の言葉通りに広島は日本一に、日本ハムは悲願のリーグ初優勝を成すなど最高年俸選手に相応しい活躍を見せた。王に始まり王に終わった昭和51年から52年、後のプロ野球界に優勝する為に不可欠な存在となる救援専門投手が生まれたのだ。ちなみに江夏の代わりに阪神入りした江本は首脳陣と衝突してアッサリと縦縞のユニフォームを脱ぎ、今やテレビCMや芸能界で活躍している。

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