
史上初の三冠王
野村克也選手(南海)の三冠王が確実視されるようになった昭和40年9月30日、プロ野球実行委員会は「昭和13年の中島治康選手(巨人)が初の三冠王である」と公式発表をした。昭和13年といえば職業野球が誕生して3年目で記録に関する関心も薄く、中島選手が打率・本塁打・打点の3部門でトップに立っても少しも話題にされなかった。それが30年たってやっと見直されたわけである。当時は春季と秋季は独立して記録はシーズン毎にリセットされた。春は打率のみトップだったが、秋は打率・本塁打・打点を制した。
10月10日までは打率 .288 ・本塁打2と平凡だったが、11日から22日にかけての5試合連続本塁打で一気にトップになり、その後の23日と25日の試合で5打数4安打の固め打ちで打率を上げて三冠王を確実にした。ちなみに5試合連続本塁打も当時は見逃され昭和40年になって発掘された。秋季40試合で10本塁打は少ないように感じるが当時リーグ全体で109本塁打で割合では1割弱を占め、現在に換算すると100本を超える大変な本数だ。また春・秋季を通算しても3部門ともトップだった。
二度も助けた大記録
中島選手は強肩外野手でもあった。巨人の中尾輝三投手は二度ノーヒットノーランを達成しているが、二度とも中島選手の強肩に助けられている。中尾投手は昭和14年11月4日のセネターズ戦の4回、四球で走者を出し野口二郎選手にライト前にポトリと落ちる飛球を打たれたが、中島選手が二塁へ矢のような送球で一塁走者を封殺し安打にならなかった。昭和16年7月16日の名古屋戦でも同じようにライト前への打球を二塁で走者を封殺して中尾投手の二度のノーヒットノーラン達成の陰の立役者になっている。
その強肩ぶりは戦後になっても衰えなかった。昭和21年、中島選手が外野を守ったのは僅か54試合だったが飛球を捕球した後、タッチアップして進塁しようとした走者を刺して併殺にしたのが9回もあった。セ・パ分裂後、外野手の最多併殺記録はセ・リーグは8回(3選手)、パ・リーグは7回(2選手)であり、しかも5人全員が100試合以上の守備機会なので54試合で9併殺という記録が如何に驚異的な数字かが分かる。
骨折で定位置すべる
強肩ぶりは年齢を重ねても変わらなくても、打撃の方は往年の力には程遠かった終戦直後の中島選手が男をあげたのは昭和23年シーズンの半ば。前年に初めて5位に転落した巨人軍はこの年も開幕から振るわず、6月12日の時点で勝率は4割前後をウロウロして5位に低迷していた。すると三原監督はショック療法として翌13日の試合から三番打者の千葉選手を一番打者に据え、ベンチの控え要員だった中島選手を六番に起用する新打線を組んだ。
このカンフル剤が見事に効いた。巨人は7月17日までの21試合を15勝と勝ちまくった。この期間中、打率 .269 をマークした中島選手は川上選手が欠場した7月18日にはチームは負けはしたが四番打者を務めるほどの活躍を見せた。ところがその試合の9回裏の攻撃中に走者として三塁ベースを回った時に足首を骨折したしまい、久々のレギュラー生活は終止符を打った。

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