新人離れしたデビュー
昭和13年5月1日、甲子園球場での阪急対巨人戦は巨人軍の歴史にとって画期的な試合であった。次代の巨人軍を背負う2人の新人がデビューしたのだ。六番・一塁手としてスタメン登場した熊本工・川上哲治選手と9回表に代打起用された松山商・千葉茂選手である。川上選手は2打席凡退で退き、千葉選手は四球だった。千葉選手はボール球には手を出さず、際どい球はファールするなど新人らしからぬ粘りを見せた。好球必打を身上とする千葉選手は四死球が多かった。年間100四死球というのは現在では敬遠四球が多い王選手が14シーズンも記録しているが、当時は誰もおらずプロ野球史上初めて記録したのが昭和25年の千葉選手だった。
昭和25年から同27年にかけて3年連続でセ・リーグの四死球王で、通算919四死球は史上9位。通算出塁率は王選手・張本選手・榎本選手に次ぐ3割8分5厘で同期の川上選手と肩を並べる第4位である(5000打席以上)。また数字では現れない面でも千葉選手はチームに貢献していた。昭和24年4月29日の試合で千葉選手は3打数0安打・1四球だったが四度の打席で千葉選手が相手の三富投手に27球を投げさせた。この日の三富投手が巨人打線に投じた球数は36打者に142球。1打者に平均3.9球だったが千葉選手には6.8球を要した。四球で出塁した第2打席は実に9球も投げさせた。
右翼打ちの職人芸
もうひとつの特徴は典型的な右翼打ちだったこと。通算96本塁打のうち81本が右翼席に打ち込んだものだった(1本は右中間のランニングホームラン)。特に昭和25年9月9日から同29年までの39本はいずれも右翼席への本塁打という他者には決して真似できない職人芸の持ち主だった。通算1512試合出場で打率も2割8分4厘だがタイトルとは無縁だった。昭和24年の千葉選手はリードオフマンとして打率3割7厘をマークし巨人の優勝に貢献し、自身初の最高殊勲選手賞は間違いないと評されていた。ところが記者による投票で選出されたのは千葉選手ではなかった。
・藤村富美男(阪神):142点
・千葉 茂 (巨人):129点
・藤本英雄 (巨人):112点
・川上哲治 (巨人): 57点
千葉選手は次点で、なんと最下位阪神の藤村選手に栄冠をさらわれてしまったのだ。この年の藤村選手が46本塁打という新記録を樹立したこともあるが、つくずく運に見放された千葉選手だった。昭和31年に現役を引退し、巨人の二軍コーチを経て昭和34年に近鉄の監督に就任した。それを記念して行われた巨人対西鉄の " 激励試合 " が日本における引退試合の第1号である。
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