面白き 事も無き世を 面白く
住みなすものは 心なりけり

「太陽」

2006年11月01日 | 映画
天皇像の新機軸。
ひと昔前なら、不敬罪で訴えられる映画。

天皇の天皇たる由縁、一般人とは精神構造、行動様式が全く違うという点を見事に活写しているが、それはある種マスメディアを通して我々が認識している天皇像である。
この映画の最も特徴的なところは、天皇の人間としての本能に基づく部分、すなわち一般人と変わらない感情表現や行動を描いていることである。
実に画期的なドラマだ。

生まれながらにして「天皇」という“肩書き”を背負う運命を負い、常に侍従に囲まれていて、一般人が享受するようなプライバシーというものはなく、「帝王学」という一般人には決して教えられることのない学問を学ぶ彼(なんだか「彼」という表現が畏れ多い気になるというのは日本人としてDNAに刷り込まれた“何か”のせいか!?)。
その謎に満ちたプライベートな部分についての創造を、イッセー尾形が見せる迫真の“形態模写”により、あたかも実在のものとして表現し、昭和天皇のもつ一面を見せている。

しかしこんな映像が作れるのは、やはり外国人監督だからだろう。
日本人監督には、ここまで客観視した天皇像を撮ることは不可能ではないか。

また、昭和天皇という素材が良い。
“最後のやんごとなきお方”としてベールに包まれた部分が多く、とても興味をそそられる人物だからだ。
昭和天皇が園遊会で招待者(即ち皇族関係ではない全くの一般人)に話しかける様子はメディアを通して目にしていたが、まるでフツウの会話に聞こえなかったのは、まともに一般的な会話をしたことがない証拠であった。
その点で今上天皇(在位中の天皇のことをこう呼ぶことを皆さんはご存知だったか?)の場合、そのしゃべりは一般人と言っても差し支えないくらいである。
なので、失礼を承知で言うならば、素材として面白みに乏しい。

それにしてもイッセー尾形の昭和天皇が圧巻!
皇族と側近以外、誰も詳細は知らないだろうが、よくメディアで見た昭和天皇の特徴をもののみごとに掴んでいて、見紛う事無き昭和天皇を演じきっている。
実際には見たことがないのに、「そうそう!そんな感じ、そんな感じ!」と思わず手を叩きたくなる。

全体的に画面の彩度を落とし、セピア調の映像が、夢か現(うつつ)か現か夢か…というハーモニーを奏でていて、なんだか中学生のときに体育館に集められてみた黒澤監督の「羅生門」を思い出した。
人間であるのに人間でないと言い聞かされ、そのように振舞わされて生きてきた天皇が、自分自身の力でその人間性を取り戻すまでを丹念に描きこんだ佳作。

太陽
2005年/ロシア・イタリア・フランス・スイス
監督:アレクサンドル・ソクーロフ
出演:イッセー尾形、ロバート・ドーソン、桃井かおり、佐野史郎

連鎖

2006年11月01日 | よもやま
小学生から高校生まで、自殺の連鎖が止まらない。
かつて、アイドル歌手が自殺すると、その後を追うように子供達が自殺する、という事象があったが、今の状況もそれに類似するものだと考える。
テレビや新聞で自殺が取り上げられるのを目にしたとき、ギリギリのところで思いとどまっている子供達が、死神に背中を押されてしまう。

「そんな、死ぬことはないのに。」
大多数の人は言うが、身内に「死にたい!」と叫ぶ者がいた経験が無いから言えるのだろうし、そう言う人こそ身内の“サイン”には、本当に注意を払ってほしいもの。
しかし、注意を払っていないからこそ、軽々にそういうことが言えるのだろう。

「死ぬ気になったら、何でもできる。」
ほとんどの人はそう言うが、「ここで消えることができたら、どんなに楽だろう」という発想しか浮かばなくなるという経験が無いからこそ言えるのだろうし、そう言う人こそ周囲の人に気遣ってあげてほしいもの。
しかし、気遣いができないからこそ、軽々にそういうことが言えるのだろう。

『死』は、日常的には自分に関係のないものとしてとらえられているが、実はものすごく身近なもの。
常に考えていると発想がおかしくなるが、ふとしたときに考えてみることも大切。

そんなことをふと…