面白き 事も無き世を 面白く
住みなすものは 心なりけり

「手紙」

2006年11月26日 | 映画
リサイクル工場で働く武島直貴(山田孝之)は、職場の人間とも打ち解けず、人目を避けるように暮らしていた。
まるで自分の存在を消すかのような直貴の行動は、兄・剛志(玉山鉄二)が強盗殺人犯として服役していることが原因で受けてきた差別から逃れるためだった。
ある日、元服役囚の同僚(田中要次)の「夢があるんだったら簡単に諦めるなよ」という一言に、一度は諦めたお笑い芸人の夢に、再び挑戦しようと決意するのだが…

語弊を承知で書くが、犯罪被害者の視点に立つことは比較的容易である。
マスメディアを通じて情報も多いし、何よりもその悲しみを推し量ることができるからである。
一方、犯罪加害者の側に立つことは容易ではない。
だいたい犯罪加害者の視点に立つという発想を持つのは、法学を研究する者か、法曹関係者くらいだろう。
同様に、犯罪加害者の近親者に思いを巡らすことも滅多にないのではないだろうか。

本作では、身内から殺人者が出た家族が受ける差別を目の当たりにする。
剛志と一緒に住んでいたアパートは心無い落書きで見るも無残に汚されて大家から立ち退きを迫られ、殺人者の身内という非難の声に追われて職を変え、ようやく夢をつかみかけたお笑い芸人としての成功もインターネット上の匿名攻撃に潰され、結婚を考えた恋人も去り、ようやくたどりついた職場で実績も挙げ始めた矢先に左遷される。

亡くなった親代わりに自分の学費を稼ごうとして果たせず、強盗殺人を犯してしまった兄に自責の念を抱いていたものの、度重なる兄を起因とする不幸に、兄との絆を断とうとすることを責めることはできないだろう。
直貴が勤め先の会長(杉浦直樹)からかけられる言葉がとても印象深い。
「殺人を犯したものは、その罪が自分の家族・身内にも及ぶことを思わなければならない。殺人犯は、単に犯した罪に対してだけでなく、自身の身内が差別を受けることも含めて贖罪しなければならない。」
罪を償うということは、自分自身が犯した行為を悔い改め、被害者に対して懺悔することだけではない。
凄まじい攻撃を受ける自身の身内に対しても、償わなければならないのだ。

しかし、ある意味「塀の中で守られている」状況にある犯罪者が、何からも守られることのない身内に対して、“償う”ことができるだろうか。
更に言えば、殺人や傷害という犯罪は、加害者とその身内に対して“償う”ことができるだろうか。
「罪を償う」という行為を考えたとき、財産を奪った犯罪であれば、その奪った財産を返すことで、100歩譲って罪を償うことは可能だと考えられる。
しかし、人を傷つけ、更に命を奪うという犯罪の場合、加害者の傷や命は、決して元へ戻ることはないのであり、そう考えたときに罪を償うことなど決してできないのではないだろうか。

このどうしようもないことに一定のラインを引くために、法律があるという気がした。
どうしようもないことを「どうしよう?」と考えていても何も始まらない。
であれば、人間社会の発展のためには、罪を犯した者に対して法律により罰を与え、法律によって定められた期間、更生するための生活を送り、二度と過ちを犯さずに社会活動を営ませることが効果的である。
つまり、被害者・加害者双方において、個人的に起きたことを、社会的に昇華させるために法律は存在するのではないだろうか。

自分は大学で法学を学んだ身でありながら、恥ずかしながらこのように法律の存在意義について考えたことはなかった。
ぜひ、大学で法律を学んでいる学生諸氏には、観て考えて欲しい映画である。

原作では直貴はミュージシャンであるが、映画では漫才師。
この点に賛否両論、いや自分の周りでは否定的な意見が多かったが、これは正解だ。
書物よりも、視覚と聴覚を通してダイレクトに伝わってくる映画という媒体においては、一度は縁を切り身内としての存在を消してしまった兄に対する懺悔と和解の場面として、漫才のセリフというものは、歌詞よりもはるかにストレートに伝わってくる。

ただ、沢尻エリカに大阪弁をしゃべらせる必要性は無かった。
監督や脚本家陣の中に、思ったことをストレートに相手に話し、根性の座った強い女性は関西人である、という固定観念があるのだろうかとさえ思う。

手紙
2006年/日本  家督:生野慈朗
出演:山田孝之、玉山鉄二、沢尻エリカ、吹石一恵、尾上寛之、吹越満、風間杜夫、杉浦直樹