面白き 事も無き世を 面白く
住みなすものは 心なりけり

「テザ 慟哭の大地」

2011年09月30日 | 映画
エチオピアの寒村出身のアンベルブルは、祖国を離れてドイツで医学を学び、革命後に帰国してするが「反革命分子」とされて職場を追われ、東ドイツへと送られる。
しかし、「ベルリンの壁崩」崩壊の混乱の中で、差別主義の暴徒に襲われて片足を失う。
一命をとりとめたアンベルブルは、失意のまま故郷の村へと戻ってくるが、古い因習にとらわれて時が止まったかのような村の中で、自分の居場所を見つけられずに苦しむ…


エチオピア出身で、アメリカを拠点に祖国の姿を世界に発信し続ける巨匠ハイレ・ゲリマ監督の、自伝的要素のある静かな大作。
長引く内戦は地方の寒村にも暗い影を落とし、子供でも兵士として狩り出されるため男児は家を出て洞窟に集まり、隠れて集団生活を送っている。
ほとんど窺い知ることのできないエチオピアの現状と、革命前後の現代史を追いながら、人間社会の暴力性や排他性、様々な差別を描き、暗澹たる社会の現実に迫る社会派作品だが、心にポッと“希望の光”が灯るラストシーンが秀逸。
絶望の中にも力強く響く“命”の慟哭に、ほのかな将来への希望が垣間見え、我々の胸を打つ。


「テザ 慟哭の大地」
2008年/エチオピア=ドイツ=フランス
監督:ハイレ・ゲリマ
出演:アーロン・アレフ、アビュユ・テドラ、テジェ・テスファウン、タケレチ・ベイエネ、ネビユ・バイエ

「ムカデ人間」

2011年09月29日 | 映画
ニューヨークからやってきた二人の若く美しいアメリカ人女性、リンジー(アシュリー・C・ウィリアムス)とジェニー(アシュリン・イェニー)は、レンタカーでヨーロッパ各地を旅行していた。
ドイツに滞在したある夜、彼女たちは道に迷い、さらには車のタイヤがパンクして、森の中で孤立してしまう。
偶然通りかかった車に助けを求めようとするが、ドライバーの男は英語が分からず話が通じない。
携帯電話も電波圏外で繋がらず、途方に暮れた二人は、歩いて助けを求めることにした。
雷鳴が轟き、雨が降り出す中、二人はようやく一軒の大きな家の灯りを発見。
その家には、隠遁生活を送っている高名な外科医のヨゼフ・ハイター博士(ディーター・ラーザー)が一人で住んでいた。
博士は二人をリビングへ通すと、電話をかけるふりをしながらグラスの水に睡眠薬を入れ、二人に手渡した。
何の疑いも無くその水を飲んだジェニーとリンジーは意識を失う。

二人は、博士自ら拉致してきた日本人男性カツロー(北村昭博)と共に、地下室に並べられた患者用のベッドに拘束されていた。
博士は三人に対して、自分が結合双生児の分離手術のエキスパートとして知られる外科医で、半年前に三匹の犬の口と肛門を結合させ一つの生命体に変えることに成功したことを自慢げに解説する。
そして今回、それを人間で行うという。
三人は、博士のおぞましい目的のために集められたのだった…


オランダの鬼才トム・シックスが放つ、「衝撃のインモラル・センセーション」。
オランダ、イギリスの合作でドイツ人俳優ディーター・ラーザーを主役に迎えた本作は、誰しもの想像を絶するショッキングな内容から、本国やアメリカで公開された途端、大きな物議を醸し映画界を震撼させたというが、当たり前だ!

かつて結合双生児の分離手術の権威であった博士は、これまで「分離」し続けてきたことの反動からか何なのか、「結合」により新たな生命体を創ることを夢見ている。
博士の夢は、複数の人間の口と肛門をつなぎ合わせ、胃腸を一体化させることで一つの生命体となる「ムカデ人間」を創りあげることなのだ。
どう考えても、誰が何と言おうと、この博士は頭がおかしい。
頭がおかしい博士が作り出すおぞましい世界の中で、泣き、呻き、蠢く「ムカデ人間」の痛々しい姿に胸苦しくなってくる。

マッドサイエンティストの狂気を描く、タイトルからしてイッてる本格的カルト・ホラー。
久しぶりに観終わった瞬間、どっと脱力した。
あー、顔とお尻が痛い…

そういえばシリーズ化の話もあるようだが、あの悪夢の続きがどうなるのかというところは物凄く気になるが、観たいような、しかし痛いような……!


ムカデ人間
2009年/オランダ=イギリス  監督 トム・シックス
出演 ディーター・ラザール、北村昭博、アシュリー・C・ウィリアムス、アシュリン・イェニー

「アイ・スピット・オン・ユア・グレイヴ」

2011年09月28日 | 映画
小説家のジェニファー(サラ・バトラー)は、新作執筆のために、とある田舎の森の奥にある別荘を訪れる。
途中、ガソリンスタンドに立ち寄った彼女に浴びせかけられる、従業員たちのねっとりとした熱い視線。
彼女が一人で別荘にいることを知った男たちの欲望は暴走し、ジョニー(ジェフ・ブランソン)をリーダーとする4人が別荘に侵入した。
男たちの隙を突いて別荘から脱出することに成功したジェニファーは、森の中で出会った保安官のストーク(アンドリュー・ハワード)に保護される。
しかしストークは、実はジョニーたちと繋がっていたのだった。
別荘に連れ戻されたジェニファーは、ストークも加わった“野獣ども”の餌食に。
繰り返し凄惨な暴行を受け、肉体のみならず精神的にもズタズタに傷つけられたジェニファーは、ストークによって射殺される寸前、川に飛び込んで行方をくらました。
彼女の遺体は発見されず、消息が途絶えたまま月日が流れたある日、ジェニファーの“影”が現われる。
死んだと思われていた彼女は、辛うじて生き延びていたのだ。
再び姿を見せたジェニファー復讐の復讐が始まる。
一人、また一人と、彼女が仕掛けた罠にかかった男たちは、じわりじわりと恐怖と苦痛に苛まれながら、ゆっくりと殺されていく…


日本では配給会社が内容の過激さに恐れをなし、「発情アニマル」という邦題でポルノ映画として劇場公開された後、テレビ放映時には「女の日(もう一つの原題がDay of the Woman)」というタイトルになり、ビデオ化に際してのタイトルは「悪魔のえじき」と変遷していった、1978年アメリカ製作の「I Spit on Your Grave(お前の墓に唾を吐く:原題)」の、32年ぶりとなるリメイク。
元ネタは、同じく1970年代に製作されたダスティン・ホフマンの「わらの犬」や「リップスティック」、後年の「キル・ビル」のような“リベンジ・バイオレンス”の元祖としてカルト・ムービーの地位を確立し、熱狂的なファンの支持を受けて伝説と化した映画である。

暴行シーンの暴力性は「アレックス」よりは穏やかで、復讐の場面は「SAW」シリーズよりも緩い表現ではあるものの十二分に刺激的で、一筋縄ではいかない残酷な復讐の果たし方はオリジナルよりも過激度はアップ。
目には目を、外道には非道をもって相対すべし。
スカッと爽やかコカ・コーラ♪…とはいかないものの、口の中がざらつくような独特のカタルシスが得られるバイオレンス・ムービー。


「アイ・スピット・オン・ユア・グレイヴ」
2010年/アメリカ  監督:スティーヴン・R・モンロー
出演:サラ・バトラー、ジェフ・ブランソン、ダニエル・フランゼーゼ、ロドニー・イーストマン、チャド・リンドバーグ

「世界侵略:ロサンゼルス決戦」

2011年09月27日 | 映画
2011年8月12日、海沿いにある世界各地の大都市付近に流星群が降り注いだ。
やがて海の中から何者かが大挙して姿を現し、人類に攻撃を開始する。
そのころロサンゼルスのサンタモニカ空港の前線基地に、若い少尉率いる小隊が到着。
除隊間近のナンツ2等軍曹も配属された小隊は、取り残された民間人救出の命を受ける。
タイムリミットは3時間。
その後は、街に大規模な空爆が行われるのだ。
砂塵が舞い、視界不良の廃墟と化した市街地を進む彼らの前に、未知なる敵の大群が現れる…


世界各地でエイリアンの襲撃が始まった中、ロサンゼルスで戦いを挑む海兵隊員たちの死闘を描く。
世界で過去に起こったUFO事件のエピソードを実録映像を交えて伏線として活用し、ハンディカメラを用いて海兵隊員達の目線でとらえた映像により、スリルと臨場感が味わえるSFアクション。

UFOやモンスターによる圧倒的な攻撃力に人類はなすすべも無い…というような設定ではなく、銃砲で応戦する地球人に対して、群れを成して押し寄せてくるエイリアンも銃火器で攻撃してくるところは、さながら戦争映画のよう。
もはや「地球の保安官」を自負するアメリカが相手にするのは、宇宙からの侵略者しかない。
「インディペンデンスデイ」よりも、はるかに強い高揚感に包まれるクライマックスでは、海兵隊の広報部の声が聞こえてきそうだ。
「さあ!君も海兵隊に来ないか!?WE WANT YOU!」


世界侵略:ロサンゼルス決戦
2010年/アメリカ  監督:ジョナサン・リーベスマン
出演:アーロン・エッカート、ブリジット・モイナハン、ミシェル・ロドリゲス、マイケル・ペーニャ、ニーヨ

落合退陣、真弓続投。

2011年09月26日 | 野球
真弓に異変か?虎・坂井オーナー、緊急招集(サンケイスポーツ) - goo ニュース


就任以来Aクラスをキープし、ドラゴンズをリーグ優勝のみならず日本一にも導き、名将と呼んでも不足のない落合監督の退院が決まった。
ある程度予想されていたこととはいえ驚いた。
球団としては、勝っても人気が無く、OBをないがしろにするコーチ人事でOB連中からの不満が渦巻いていたこともあって、いつ“切る”かのタイミングを計っていたのだろうが、確実に勝てる監督を辞めさせるというのも、それなりに勇気のいることではある。

一方、就任以来連勝でチームを波に乗せることもできず、ここぞという試合はことごとく落とし、うかつな選手起用で投手に外野を守らせたり代走させたりする素人以下の采配を繰り返し、ファンを呆れ嘆かせることはあっても決して納得して唸らせることの一切無い真弓は続投する。
これも先に非公式で発表されていたとはいえ落胆した。
しかしここへ来て真弓を“切る”という状況が生まれたかもしれないというのは朗報だ。

いっそ、星野監督を招聘したときのように、落合に来てもらったらどうか。


ある去就。

2011年09月22日 | 野球
阪神・下柳、来季の戦力構想から外れる(読売新聞) - goo ニュース


下柳が来季の戦力構想から外れたという。
球団は10月上旬にも正式に通告する見通しとのことだが、順番がおかしくないか?
なぜ下柳本人に伝えられる前に、ニュースとして報道されているのか。

本人に対して水面下で打診されていることが記事になったのなら、まだ理解できるが、そうでないならば、チームに対する不信感が選手の間に芽生える元となる。
杞憂であってもらいたいものだが、かつて毎年のようにドロドロとした人間模様を繰りひろげていた、古くて悪しき「阪神タイガース」へと再び戻っていくことだけが心配だ。


「パレルモ・シューティング」

2011年09月16日 | 映画
主人公のフィンは、世界的に有名な写真家。
立ち並ぶビルの風景写真をアーティスティックに加工するようアシスタントスタッフに指示したり、特撮映画のようなセットを背景にしてミラ・ジョヴォヴィッチをモデルにモード写真を撮影したりと、ドイツのデュッセルドルフを拠点に精力的に活動している彼は、常に人から注目される存在であり、どこへ行くにも携帯電話が手放せない毎日を送っている。
唯一、ヘッドホンで音楽を聴いているときだけは心を落ち着かせることができるような生活の中、ベッドで眠りについても「死」にまつわる短い夢の始まりで目を覚まし、ほとんど眠ることもできなかった。

ある日、仕事を終えた彼は、愛車をかっ飛ばしながら風景を撮影していると、ひとりの男の姿を偶然写真に収めた。
その瞬間、車のコントロールを失い、危うく大事故を引き起こしそうになりながらも九死に一生を得る。
車を降りてフラフラと立ち寄ったパブで、彼はまた不思議な体験をした。

フィンは旅に出ることにする。
偶然ライン川で見かけた船に書かれていた「パレルモ」という町に向かったのは、デュッセルドルフでの撮影に満足しなかったミラのためでもあった。
彼女は、妊娠中の姿を収めるファッション撮影を、現実の風景の中で撮り直したいと言っていたのである。

撮影を終えた後もパレルモに残ることにしたフィンだったが、今度は彼をボーガンで狙う謎の男に付け狙われた。
またしても心の安らぎを得られずに悩む彼は、町の美術館に巨大な壁画を修復しているフラヴィアという女性に出会う。
彼が矢で命を狙われているという話を聞いたフラヴィアは、彼こそが自分が抱えてきた疑問を埋める存在であると悟り、彼の命に危険が迫っていることを案じて、祖母との思いでの地であるガンジへと彼を連れだした。
フラヴィアが唯一安心できる、本当の幸せを思い出させてくれる場所であるガンジにたどり着いたフィンは、ようやく平穏な心を取り戻すことができそうだった。
しかし彼は、そこで再び「死」に対面することになる…


フィンの写真の特徴は、写真にデジタル処理を施して「現実」を組み換え、全く新しい世界を創り出す点にある。
そんな彼は、常に「死」の影に悩まされている。
「現実」を書き換える作業を続ける中で「現実感」を失っていき、それが自分の存在を否定することにつながり、やがては「死」に追われる。
生身の女性の心に触れ、無機質な風景の無い田舎の風土に包まれていくことによって、ようやく彼の心は平穏を取り戻そうとしていくことができた。
「デジタル化」が、まるで進歩の象徴であるかのように世の中に浸透しているが、それが果たして人間に幸せをもたらすものなのか?という投げかけを与えられているようだ。

しかしヴェンダースは、「デジタル化」を否定しているのではない。
本作自体、アナログのフィルムで撮影されたシーンを全てデジタル変換し、さまざまな視覚効果シーンが作り出されているのだから。
フィンを「死」と真正面から対峙させるラストシーンで、「デジタル」というものが持つ可能性を描き、ヴェンダース自身が今後の映画作りに対して新たな一歩を踏み出す決意を示している。

ちなみにこの「死」を、「アメリカの友人」以来30年ぶりのヴェンダース作品となるデニス・ホッパーが演じているが、彼は本作の2年後にこの世を去っているだけに、登場シーンはより強烈な印象を与えるものとなった。


フィンは、デュッセルドルフで世界的に有名な写真家として活躍しているが、心が休まる暇がなく不眠が続き、常に「死」にまつわる夢や幻想に悩まされている。
そんな彼は、パレルモの町へ旅に出て、更に心を許せる相手と出会い、相手が心安らぐ土地へと連れだって心の安息を得る。
長らくアメリカに拠点を置いて活躍してきた監督のヴィム・ヴェンダースが、12年ぶりにヨーロッパに戻ってきて製作された本作。
主人公フィンの姿は、世界的な名声に包まれながら、異国の大都会で暮らしてきたヴェンダースそのものに感じられた。
ふるさとのデュッセルドルフを初めて映画に収め、更にシチリアの古都・パレルモ、続いて同じパレルモの田舎にあるガンジへと撮影を続けていく中で、監督自身も心の安らぎを得ていたのではないだろうか(あくまで私見であるので念のため…)。


映像と音楽がカッコ良くマッチングして心地よく、まさに「ヴェンダース節」全開!
そもそも、自分の好きな音楽の世界に没頭することで心の安らぎを得る主人公に、ミュージシャンとして活躍しているカンピーノを登用するところもまたヴェンダースらしい。

現実世界に疲れた観客は、主人公と共に旅に安らぎを得たくなることだろう。


9月17日より大阪九条「シネ・ヌーヴォ」にて公開。
京都では「京都シネマ」、神戸では「神戸アートビレッジセンター」にて、順次公開予定(詳細は劇場HPにて)


パレルモ・シューティング
2008年/ドイツ=フランス=イタリア  監督:ヴィム・ヴェンダース
出演:カンピーノ、ジョヴァンナ・メッツォジョルノ、デニス・ホッパー、ミラ・ジョヴォヴィッチ、ルー・リード

「探偵はBARにいる」

2011年09月15日 | 映画
札幌はススキノ。
この街の裏も表も知り尽くした探偵の「俺」(大泉洋)は、いつものように行きつけのBAR「ケラーオオハタ」で、相棒兼運転手の高田(松田龍平)と酒を飲み、オセロに興じていた。
そこへ「コンドウキョウコ」と名乗る女から、仕事の依頼の電話がかかってきた。
既に口座に金を振り込んだというその女は、
「札幌経済法律事務所のミナミという弁護士に、去年の2月5日、カトウはどこにいたか?」
を聞いてくれと言う。
ヤバイ匂いを嗅ぎ取ったが、電話の声から美人であることも嗅ぎ取った「俺」は、その依頼を引き受けることにした。

さっそく弁護士の南(中村育二)に接触してみたが、何も得られない。
それどころか突然“その筋”の方々に拉致されると強制的にドライブに連れて行かれた挙句、だだっ広い雪原のど真ん中で生き埋めにされてしまった!
からくも自力で這い出して高田を呼び寄せたが(来るのが遅ぇんだよ!)、痛い目に遭わされたことに腹の虫が収まらない!
こうなりゃキョウコの依頼云々はどうでもいい。
必ず報復してやる!と南の周辺を探って“叩いて”みると、“埃”が出るわ出るわ。
ただの弁護士でありえない、キナ臭い人間関係が浮かび上がってきた。

更に調べを進めていくうちに「俺」は、「コンドウキョウコ」が引きずり込んだ事態の核心へと近づいていく。
1年前に殺された大物実業家・霧島(西田敏行)、その未亡人・沙織(小雪)、霧島亡き後に関西からススキノに進出してきた「銀漢興産」。
様々な事実が明らかになる中、「コンドウキョウコ」はこの世にいないことが判明する…


日本推理作家協会賞受賞の東直己の「ススキノ探偵」シリーズ2作目、「バーにかかってきた電話」を映画化。
毎夜シャレたBARのカウンターで酒を楽しむ「俺」。
スタイリッシュなBARには、ピシッと身なりを整えた寡黙なマスター。
小技の利いたウィットに富んだ会話やセンテンス。
高校の頃、「HOTDOG PRESS」や「POPEYE」を通して学んだ“カッコいいこと”が、舞台装置のそこかしこに散りばめられている。

しかし、ヘタをすればスノビッシュ臭くなってしまうこの舞台装置を程よく“ハズして”余分な気取りを削ぎ落とし、嫌味を無くしているのは、「俺」を演じる大泉洋が持つキャラクターの効能のひとつ。
そこはかとなく醸し出される“三枚目のオーラ”によって、カッコいいシチュエーションの中で若干背伸び気味な雰囲気が漂う。
思わずニヤっとなってしまうのは、青々しかった頃の自分を思い出して小っ恥ずかしいからか、はたまた、男ってのはいくつ何十になってもカッコつけたがるその琴線に触れてくるからなのか。
ハードボイルドタッチな「オトナの男」の世界に憧れて、しかしとてもとてもハードボイルドには程遠い現実に、ちょっとお尻がこそばい(…大阪弁か…標準語なら「くすぐったい」)思いがして、頬が緩んでしまうということだろう。


我々世代の男なら誰もが(たぶん)憧れたことのある(あるいは憧れる)、「オトナの男」を演出するアイテムが溢れて楽しい、ススキノを舞台にした「探偵物語」。
松田龍平の“ハズし方”が「工藤チャン」の血統を感じてgood♪


探偵はBARにいる
2011年/日本  監督:橋本一
原作:東直己
出演:大泉洋、松田龍平、小雪、西田敏行、中村育二、竹下景子、

うんざり。

2011年09月12日 | ニュースから
鉢呂氏「放射能つけちゃうぞ」 「死のまち」発言は陳謝(朝日新聞) - goo ニュース


あっという間に辞めてしまった鉢呂大臣。
このテの大臣辞職騒動に辟易しているのは自分だけではないはず。

鉢呂氏の発言については、その言葉遣いはいかがなものかとは思う。
大臣としての“覚悟”の弱さを感じるところではあるが、一方で今までの大臣連中には無い早さで現地に飛んだことを評価してもいいのではないか?
「死の街」という表現は確かにボキャ貧(死語?)感は否めないものの、しかし人っ子一人いないあの風景は、「死の街」そのものではないだろうか。
この一語をもって大問題視する姿勢の方こそ、「木を見て森を見ず」そのものであると同時に、その昔、世の中を糾弾の嵐で席巻した「言葉狩り」が先鋭化してきた現われのように思えて危険な香りがしてならない。
「死の街」を見て「死の街だ」と指摘した人間は糾弾され、「死の街」を作り出した連中は何ら責任を問われることなく表に出てくることが無いように感じるのは、単なる思い過ごしだろうか?
大スポンサー様に対する最大限の配慮をいとわないマスコミ各社と、莫大な利権の麻薬にマヒしてしまっている官僚・政治家による言論統制の影がチラついているように思うのは気のせいだろうか?
その先棒を担ぐかのような昨今の“大マスコミ”は、もはやジャーナリズムの機能を停止させていて、クソの役にも立たなくなっているのではないだろうか。
彼らの活動に「社会的使命」を背負っているように見えない。

インターネットによって膨大な量の情報が瞬時に飛び交うようになった世の中は、自由度が増しているようでいて、その実個人の自由度を著しく制限している。
民主的で自由な世の中は、ひとりひとりの「高い脳内成熟度」によって支えられるものだと考えるが、インターネットによる情報流通のスピードの速さに、それを使う人間の脳の成熟が追いつけていない。
「ネチケット」という言葉も思想も、“過去の遺物”としてしまってはいけない。