青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

朝と夜のはざまで My Sentimental Journey (第111回)

2011-10-16 09:17:45 | 雑記 報告



パソコン内の収録内容を『中国の自然』『四川雲南の花』『アジサイ』『屋久島はどこにある?』『蝉』『蝶』『サパ』『中国を旅する』『アメリカンポップス』「スケジュールほか」「現在進行作業」に大別整理しました。

*『中国の自然』は読み物的内容、「麦菜」「レンゲソウ」「イチゴ」など、および「アジサイ」「蝉」「蝶」の一部を纏めたものなども、これに含まれます。
*『四川雲南の花』はビジュアルを主眼に置いた、図鑑・ガイドブック的内容。
*『中国を旅する』は、四川・雲南以外の地方(西安・恩施・桂林など)を含む、風景・風俗が主体。
*「スケジュールほか」は、「スケジュール」「原稿予備」「通信予備」「受信メール」「送信メール」など。

一度、すべての内容をハードデスクに移し替え、その中から改めて上記項目に配分していくという作業です。

これは大変な作業で、客観的に考えれば、いったい何年かかることか、、、、。でも、これをやらない限りは先に進めません。

この“将来に不可欠な”「基本的作業」と、“今すぐ必要とされる”「プレゼン作成」は、完璧に相反するものです。後者の進行は、前者の進行の多大な妨げになりますし、前者に絞れば、後者は出来なくなってしまいます。でも、後者を行うためには、前者がなされていなくてはならない、また、前者を行うには、後者を遂行して(じっくり作業に取り組むための)資金捻出をしなくてはなりません。

両者を並立しようとすれば、“虻蜂採らず”の結果になってしまうのは目に見えています。でも、両者を並立しないことには、先に進めないのです。

この際、開き直って、水と油の「基本的作業」と「プレゼン作成」を並行して取り組む覚悟でいます。失敗の確率99%ですが、残り1%に賭けましょう。

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小沢一郎氏の話。この後ブログで展開していきたいのですが、、、、、。やはり、上記した2つの作業を優先しなくてはならないように思います。

僕が(あやこさんの反対を押し切って)『朝と夜のはざまで』を統一テーマとしたことと、今回の小沢氏の問題は、無関係ではありません。(小沢氏個人の問題ではなく)今まさに日本の将来を左右する時が来ているのです。国家~権力~司法(法曹界)と、市民と、個人に纏わる問題です。国家(権力・司法)V.S.市民&個人と、あやこさんをはじめとした多くの人は思っているのでしょうが、それは大間違いです。本質は、国家(権力・司法)&市民V.S.個人なのです。

中国は、とんでもない国、中国人は、どうしようもない人種です(いつも言ってるように“蛆虫以下”、笑)。ノーベル平和賞を受けた革新活動家を逮捕監禁し、代わりに中国独自の(ノーベル賞を模した)国際平和賞を設立、第一回の受賞者に台湾の政治家を選んだ(まさにブラック・ジョークです)のですが、当然のことながら受賞者は完全無視(代わりに何の縁も所縁もない中国の少女が花束を受け取ったという)、世界の物笑いの種になったのは記憶に新しいところです。それに懲りずに、今年もまた「第2回孔子世界平和賞」が開催されるとのこと。

新聞に、中国の若者のコメントとして、このような記事が紹介されていました。
「恥ずかしいから、やめてくれ!」
今や、中国の一部の若者も、自分たちの国家の進む方向が“なんだかおかしいのでは?”ということに、薄っすらとはいえ、気が付き始めているのです。

翻って日本。あからさまに“国家の刷り込み”が浸透していることがわかる中国と違って、無自覚な“国家の刷り込み”によって社会の構築が成り立っている、、、、ほとんどの国民が、実は国家からの多大な擁護を受けることによって、(本人たちはそうは思っていないのだろうけれど)贅沢な生活を満喫している、、、、まるで“羊の群れ”(石垣島のガンケ・オンム氏の言)のように、権力に従順な、日本国の市民。

中国の街には、違法売春がまかり通っていて、いわゆる赤線街が繁華街に野放しに蔓延しています。その中には多くの「交番」もあるわけで、お巡りさんも、しょっちゅう“客”として接待を受けているのです。そしてたまに、そのお巡りさんたちが、一斉検挙を行う(おおむね、お巡りさんの虫の居所で、検挙対象を決めるのでしょう)。検挙される(さすがに今はそういうことはないでしょうが、些細なことで検挙されて、“即死刑”というパターンが、ついこの間まであった)人間は、“運が悪い”ということで、“されなかった”人々は、“他人事”として、自分は検挙されないように、“社会の空気”に浸りきって、従順に生活を続けていくわけです。

今回の検察(上は国家に支えられ、下からは“市民”に支えられた)の横暴を、どれだけの“市民”が理解し得ているのでしょうか? 検察(権力)と市民が、同じ穴の貉とするならば、嘆くだけ無駄なのかもしれませんが。

中国のT.V.番組では、一日中、第二次大戦前後の日本兵の悪辣さをテーマにした大河ドラマを、これでもか!と放映し続けていて、それをもって中国国民は、「中国は善、日本は悪」と刷り込まれてしまっているわけですが(もっとも、先ほども言ったように、一部の人は、「なんだかおかしいのじゃないの?」と気付き始めている)、ある意味、日本も全く同じ。軽薄限りないT.V.ほかのメディアからの報道刷り込みによって、「水戸黄門」の悪代官のごとく、小沢一郎=悪人、と、何の疑いもなく(いわば尻馬に乗って)信じ切ってしまっている(小沢一郎が実際に悪人なのかどうかとは、別次元の問題、、、一般市民にその判断がつくなど、ありえません)。

「(世界の人々に対して)恥ずかしいから、やめてくれ!」と言いたくなってきます。

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「朝と夜のはざまで」の究極のテーマは、僕(青山)と日本国家(権力~法曹界~検察~市民)との“対決”です。

友子さん(一族全員が法曹界関係者)と最初に出会った1981年の春、裁判官で浄土真宗住職でもあった彼女の叔父さん(母上の弟)に、「14歳年長の君が、友子と交際することは許せない、もし続けるようなら、君を社会から抹殺する」と宣言され、けれども父上(家庭裁判所書記官で反体制の闘志)の擁護のもとで、18年間かろうじて交際を続けてきたのですが、1998年の夏、突如、文字通り“葬られて”しまったのです(母上の様態悪化を期として)。

「検察官」(「弁護士」もおおむね同様)を一言でいうと、“バカ”であるとしか言いようがない。人生の半分を、ひたすら“受験合格”のための暗記にだけ費やしてきた人々です。壊れたテープレコーダー。その人々が、(人の生死までを左右する)「権力」を手にしている。「権力」のバックボーンにあるのは、(自分たちも権力と勘違いしている)「メディア」であり、(羊の群れのような)「市民の声」です。

すべてが(権力者&市民にとって有利な)「規定路線」にのっとって、進められます。事実がどうであるかは二の次。「嘘をつく」「騙す」「暴力をふるう」何でもありです。自分たちが“正義”と信じて疑わない人々ですから、当然の権利と、それはもう(あやこさんには)とても信じてもらえないだろうほどの「やり放題」。

たとえば、あやこさんを嫌っている法曹界実力者がいるとすれば、あやこさんを「死刑」にすることだってできるのですよ。それが“日本”という(羊の群れのごとき“市民”をバックボーンに配した)国家の実態です。

千明さんの問題も、それらのことと深くかかわってくるのですが、ここでは割愛します。友子さんの問題も、千明さんの問題も、どうしようもない国家権力者・法曹関係者の中で、それぞれ「千明さん側のK弁護士」「友子さんの父上」という、“掃き溜めの中の鶴”ともいうべき、まっとうな人物が、公平な立場で間に立ってくれている(K氏は解任されてしまったのですが)というのが、唯一の救いです。

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関川夏央・谷口ジロー著『坊ちゃんの時代/凛冽たり近代/なお生彩あり明治人・五部作(「坊ちゃんの時代」「春の舞姫」ほか)』

第1巻と第5巻は夏目漱石が主人公。第2巻は森鴎外。漱石は全巻を通じての主人公でもあり、鴎外や二葉亭四迷、正岡子規といった同時代人も、全巻を通じて頻繁に登場します。

第3巻「かの碧空に」の主人公(そのほかの巻にも準主役的役割で登場)は、彼らより年代が一回り以上下の石川啄木、漱石の“手下”のような役割で登場しますが、実は漱石や子規の陣営(?)“ほととぎす”や“あららぎ”の一派とは対極にある、鴎外配下“スバル”の一員、漱石と啄木が、師弟関係にあることは事実に反するのです。ただし、両者とも(立場が全く異なるとはいえ)同じ時期に「東京朝日新聞」社員だったわけで、繋がりがなかったわけではありません。斉藤茂吉・島木赤彦ら、“アララギ一派”大好き人間である僕は、対極の存在の、与謝野晶子以下“明星一派”の短歌には、どうにも親しめないのです。中でも、啄木の歌の良さは、全く理解できない。はっきり言って、嫌いです。でも、この作品(サブタイトルたる「借金王・啄木」の行状は、まるで僕そのまま、笑)を読んで、なんだか身近に感じられるようになりました。

第4巻「明治流星雨」は、幸徳秋水以下の大逆事件。ああ、日本は100年経っても変わっていないのだな、と思い知らされます。
「日本は滅びる」漱石『三四郎』明治41年
「日本はまだ普請中だ」鴎外『普請中』明治43年
、、、、「これから百年経っても日本は普請中なのだ」

『普請中』の末尾の一節、
まだ八時半ごろであった。燈火の海のような銀座通りを横切って、ウェエルに深く面(おもて)を包んだ女をのせた、一輛の寂しい車が芝の方へ駈けて行った。
「坊ちゃんの時代・5部作」には、この場面を描いた画が何度か登場しますが、涙が出てくるほど素敵です。



追記

まだアップされていないようなので、今日付けの新聞ニュースから追加記述します。

検察による(小沢一郎側近)石川代議士取り調べの、録音テープの一部が、公開されました。検察の正体が垣間見えてきます。上記したごとき、「無知蒙昧さ」に加えて、「品位のなさ」は、目を覆うばかりです。僕も録音しておけばよかったのに、と後悔しています(笑)。

メディアの意見は、「読売」「産経」「新潮」「サピオ」だけではないのですよ。

「日刊ゲンダイ」はちょっと過激すぎる(モロに小沢一郎応援団)けれど、一応、10月13日付け1・2面見出しと小見出しの一部を、抜粋しておきましょう。
「この国は民主主義国でも法治国家でもない」
「私刑にかけられている小沢一郎の運命」
「民主主義を標榜するこの国で、暗黒裁判が強行され大マスコミが有罪を求めている、政治実力者抹殺の信じられぬ蛮行」
「戦前は天皇制絶対の憲法下で、お上はやりたい放題だった。戦争に負けて平和憲法が制定されたが、60年も経った今ではその内容も運用も主権者の国民のためではなく、為政者の体制維持のために存在している」
「体制反対の若者たちのデモが世界中で起きているのに、お上の言いなりになって“がんばろう”とか言っているこの国の絶望的状況」
「戦前と同じ道を歩みつつある日本」
「一連の小沢事件は何から何まで憲法違反だ」
「せっかく勝ち取った憲法の精神を捨てるのか」

ずっとソフトなところで、今日10月15日付け「日刊スポーツ」には、前記した検察取り調べ「録音再現」が掲載されていますが、それを読めば、明らかに検事の側の異常性・独善性を見て取ることが出来ます。また、同一紙面の、江川詔子氏のコラムには、「有罪突き崩す重要証言」という見出しのもとに、「検察の取り調べに威迫や誘導があるとして、多くの調書が証拠不採用となった」「すでに検察のストーリーに沿った調書は出来上がっており」等々の、疑問が呈されています。

この「小沢裁判」を機会に、上掲「日刊ゲンダイ」記事中にもある「日本はどこか狂っているのではないか」という疑問を、少しでも多くの日本の“市民”に感じとってもらいたい、と願うばかりです。


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