読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。
【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?
【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。
*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。
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ここ数日撮影分の、僕が自分で気に入った写真(既に類似カットをアップ済み)2枚を、改めて紹介しておきます。
*ちなみに、この2枚の写真、地面に這い蹲って、泥んこになって撮影しているのですよ。
“風が光を運ぶ、、、”
その透き通った感じが好きなので。
ウスバシロチョウ Parnassius glacialis 冰清绢蝶 2021.4.27 東京都青梅市霞丘陵
カワトンボ Mnais pruinose 珈蟌(日本珈蟌) complex 2021.5.6 東京都青梅市霞丘陵
*種の特定(和名・学名の表記)は、想うところあり、古い見解のままにしておきます。詳しくは追々述べていく予定ですが、とりあえず少しだけ付記しておきます。
ウスバシロチョウの学名については、現在日本ではcitrinariusで定められているようですね。その扱いに対しては別に特に反対するわけではないのですが、僕は従来のglacialisにしておく方がより妥当と思っています(具体的なことは~必ずしも“ロジカルに”と言う事でもないのですが~近く別項目で述べる予定)。
和名を「ウスバアゲハ」とすることも有ります。でも見かけは“紛いなき白蝶”なので、「ウスバシロチョウ」の名を使いたいです。一時は「ウスバアゲハ」使用が主流だったようですが、最近は元に戻っているようです。
僕はウスバ“シロチョウ”派で、一時期の「ウスバ“アゲハ”とすることが正しい」とされていた期間も“シロチョウ”で通して来ました。しかし、なんせへそ曲がりなもんですから(笑)、大勢が「シロチョウ派」になった今は、案外「アゲハ」とするのも理由なきことではない、と(頭の片隅では)思うようになってきました。
むろん、「アゲハチョウ科だからシロチョウではなくアゲハと呼ばねばならない」、と言う事ではありません。そのような理由では、真っ向反対します。和名の持つ意義は、「見た印象」が最も重要だと思っているので。
で、「紛いなきシロチョウ(のイメージ)」と書いたけれど、ちょっと異なる想いもあります。「ウスバアゲハ」の名を提唱 したのは、白水隆先生です。僕は(雑談中に)直接伺ったのですが、「批判は承知で、いろいろと想うところがあって“ウスバアゲハ”に改称した」のだそうです。白水先生の気持ちも少しは分かる気もするのです。
実際に飛んでいるとき、色はともかくとして(でも色も陽の当たり具合で黄色く見えたり黒っぽく見えたりもする)、全体のイメージが、アゲハチョウそのものなのです。或る意味、見かけはシロチョウだけれど、と同時に(生きているときの印象は)確かにアゲハチョウの仲間でもあるのです。
中国に於ける属名「絹蝶」は、まさにピッタリの名ですね。種小名「冰清」のほうは「氷の様に清らかな」という意味ですが、学名(種小名)のラテン語(→英語)「glacialis氷河時代」(あるいはそれに基づく「氷河」)の意味をも併せ持つ中国語の一つなのかも知れません(定かでない)。
英語のローカル名は、ヨーロッパ産の近縁種クロホシウスバシロチョウParnassius mnemosyneに当てられた「クラウデッド・アポロ」(Japanese clouded Apollo)。「雲がかった(曇りの)太陽蝶」というところでしょう。「薄羽白蝶」「冰清絹蝶」「曇太陽蝶」、、、それぞれこの蝶のイメージにピッタリだと思います。
カワトンボのほう。トンボについては、僕は全く無知でして、、、。前回のブログで、昔、千葉大の知人からのアドバイスを受けて、スミレに深く関わることはやめた、という話をしました。トンボについての関わりも、同じく千葉大学出身の別の旧友Oさんとの関連です。その時点(1980年代)で僕の最大傑作を自任していたのが、“キトンボ”の交接飛翔写真でした。そのポジフィルムを貸したら、それを失くしてしまった。
その何年か後、「引っ越しを手伝ってくれ」という電話が来て、突然なので渋っていたら、「例のキトンボの写真が出てくるかも知れん」、というので長野県の彼女のアパートまで手伝いに行ったのだけれど、「え~、そんな昔の写真出てくるわけないでしょ」と、あっさり前言撤回されちゃった、というトホホな結末の話を、以前ブログで書きました。もしその時、キトンボの写真を取り戻すことが出来ていれば、その後トンボ撮影に積極的に取り組んでいたのではないか、と思うのです(でもOさんからは様々な恩恵も受けているので、恨んだりはしていません)。
前回、日本のカワトンボについては、分類上の様々な変遷を経て、現在はDNA解析に基づいて最終的な答えが出ている、ということを記しました。
改めて思うのですが、分類とは、系統関係とは、種とは、何なんでしょうか?
分子生物学的手法による解析は、系統関係を考察するに当たって、確かに一つの「極めて優れた答え」ではあるのでしょうが、時間との関りが主体となった、様々な次元からなる「遺伝」の問題を、そう簡単に、ロジカルに結論することは出来ない、と僕は思います。
https://blog.goo.ne.jp/dragomoss/e/30a2b8f6b3a40c7f1217ba4e4a180269
カワトンボの種類について - Days of Dragonflies & Moths (goo.ne.jp)
これを読んでいただければ、その辺りの大枠は、理解して頂けるのではないか、と思われます。
全ての(たぶんヒトを含む)生物の“種”に該当することになるのだと思うのですが、理論上の“解決”(僕は解決だとは思っていない)とは別に、実際上の“種名”の表記は、別な概念で行っておくべきではないだろうか、と。
カワトンボcomplexの場合に於いても、上記ブログ執筆者の指摘のとおり、和名を(暫定的に)「カワトンボ」とし、学名は、sp.としておくのが賢明のように思われます。
ただ“sp.”のままでは、読者に対して無責任なような気もします。それで種小名を暫定的に(たぶん以前から使用されている)pruinoseとし(ただしこれを使用することの是非については僕は知らない)、そのうえで複合種(complex)の表記を加えておきました。
カワトンボ類の中国名は「珈蟌」。なかなか良いですね。日本名の「カワトンボ」も、全くその通りですから、反対する余地はないのですけれど、その通り過ぎて、もうひとつ芸がないような気がします。“コーヒー・トンボ(実際の意味は違います、後述)”のほうが魅力に溢れています。
因みに、日本に於いては、いわゆるトンボ(「不均翅亜科」の種)だけでなく、イトトンボやカワトンボなどの「均翅亜目」 の種も、一括してトンボ(蜻蛉)と呼びますが、中国では、不均翅亜目の種は「蜻蜓」、均翅亜目の種は「蟌」と、明確に呼び分けているようですね。
珈琲、もとい、「珈蟌」の名についても少し触れておきます。「珈琲の色」だから「珈」なのではありません。「珈」の色をしているから「珈琲」なのです。「珈」とは、古代の翡翠で出来た玉櫛で、その一部がこんな色をしている。カワトンボの翅は、実に翡翠の玉櫛のイメージと共通します。
もう一つ因みに、中国に於ける“コーヒー”の文字には、「荫」が使われます。文字そのものの意味は、陰と同じ「こかげ」(覆われている状態)などを指しますが、発音が「カ」で、coffee(及びcafe)の発音と似ているからのようです。
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晩春(本来の季節の流れと違って今年は既に初夏ですが)の東京近郊の、雑木林の丘と小川のせせらぎ、風と陽の光、、、、。
そこは、遥かな過去から、人類(少なくとも日本人)の出現よりもずっと以前から、少なからぬ野生生物(日本固有種やそれに準じる種を含む)が遺存分布し続けている空間でもあります。
そして今、人々はそこには見向きもせず、たまにマスクをつけた人々が、彼(彼女)ら(古代から生き続けている蝶やトンボ)の存在に気が付かずに、黙々と歩き去っていく。
日本(のヒトおよび国)は、早晩滅びますね、そして、永劫の昔からそこ(いわゆる日本国)に棲む野生生物たちは(たぶん様々なウイルスたちも)、人間の営みとは関わりなく、生き続けていくのです。
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ブログは、猛スピードで書いています。よって、支離滅裂(自分の中では一貫しているつもりですが)で幼稚な文章です。書いたものは原則読み返しません(読み返すと恥ずかしくなってきて中断してしまう)。それに、再読していちいち整えていると、いつまで経ってもアップは出来ません(事実関係などの最低限のチェックは行っていますが)。
アップされてから(直しようが無くなった時点で、、、むろん根本的な間違いがあった時だけは、あや子さんに無理を言って訂正していますが)時々読み返します。
根本的な内容に関わらない文章や文字は、別に少々変でも、そのままにしておきます。例えば昨日の文章に、「香港デモ」“発生”とありますが、この言葉をここで使うことには書いた当初から違和感を持っていて、なんか別の適切な表現があったような、、、と気にしていたのです。
ごく普通の言葉が、いざ使おうとしたときに出て来なくなっちゃったりします(ずっと昔からですので、たぶん惚けてきているわけではないと思います、笑)。今言葉を思い出しました。ここは「香港デモが発生」ではなくて、「香港デモに遭遇」、でしょうね。むろん前者でも間違っているわけじゃないので、そのままにしておいても一向に差し支えないと思います。
何で前回記事の話から書き始めたのかというと、それに続く内容が、我ながら気に入っているからです。これは、意外な重大発見(盲点)!ではないかと。それで、再掲載(「妄信」を「妄想」に変えました、、、どっちでも同じですけれど)しておくことにしました。
中国本土や台湾の、コロナウイルス感染者が、日本より圧倒的に少ない、という謎。
その謎の理由が分かった!!!
中国本土や台湾と日本の違いは、どこにあるのか?
中国/台湾の人たちは、一般生活でマスクはしていない。
日本人は、いつどこでもマスク必着。
そうです。コロナウイルス感染媒体源は、“マスク”です!!
まあ、“陰謀論”(というよりもバカの妄想、笑)とされちゃうに決まっているので、真面目には言いません、「陰謀論」として貰って構いません。
もとより「陰謀論」というのは、9割方「妄想」(冷静な立場に立てば9割がた「冗談」と置き換えても良い)ですね。でも、どの陰謀論(妄想あるいは冗談)であっても、どこかに「真実」の根っこのような部分が隠されているのではないか、と僕は想うのです(“真実”は一つでない、と思っているので)。
“妄想(陰謀論とか)”を、単なる妄想と済ませて良いのでしょうか? ロジカルであることが絶対的で、科学で証明されたことのみが真実。では、全ての物事が、ロジカルに、科学的に、因果関係の証明だけで説明できるのでしょうか? 「因果関係」の背景に存在する、それぞれの“気質(根源的部分)”の捉え方によっては、異なる答えが導かれると、僕は思っています。
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個人単位でも人類単位でもいい。全てのことが、望んだとおりになるとは限らない(どころかまずならない)。しかし、ある一定の集団以上(大衆、国民、人類)が同調し承認する対象を、望み通りに進めて行くことが出来るという前提で、何らかの方向に疑いもなく突き進んでいく。
それを否定する(望みどおりにはいかないことを認める)ことは、大多数の望みどおりに進めることを是とする「集団的自己中」の人々からは、逆に「自己中」として無視・排除されてしまいます。
一例として、「冷房」と「熱中症」の問題。
(この話は次回回しにします)
極論ですが、「コロナウイルス」には、感染しても良いのではないか、と思っています。その時々の流れで、それぞれのウイルスには、人類に対する“毀誉褒貶”があるのだと思っています。
むろん、人類に対してマイナスになる脅威は、避ける努力をする必要はあるでしょう。
でも、それは、マスクや消毒やワクチンではない。
冷房を極力なくして、風を入れ、満員電車の社会を是正し、一人一人が十分な睡眠と最低限の栄養を摂って、、、そこから始めるべきです。
「結核」という病気がありましたね。明治時代には、非常に多くの人々が、それに罹って若死にしています。当時は「不治の病」だったのです。今は、ほとんどありません。「治療法」が確立されたから、「予防」が徹底されているから、
違いますね。だって、みんな、そんなのしてないでしょう(少なくとも僕はしていない)。別に、科学や文明で打ち勝ったわけではないのです。
「安全」とか「清潔」とかは(「便利」とかも)、相対的なものだと、僕は思っています。全部ひっくるめて、俯瞰的に見渡さねばならない。
いずれ、「健康マニア」で「リスク徹底排除主義者」ばかりから成る日本人だけが、地球上から消え去る日が、来ないとも限りません。
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ここまでは、今日の執筆。以下は、数日前にほぼ書き上げていた記事です(いつものごとく詰めが甘くて後送り追加になってしまったので、内容的重複があります)。
天気予報が当たらない、、、、。もしかしたら気象庁は、発表されるものよりもより精度の高いデータを持っているのかも知れません。しかし敢えてそれは公表しないのかも知れない(「陰謀論」*ですね、笑)。しかし、「安全な」(外れても避難されない)策を採るのです。すなわち「いい天気です」とは言わずに、常に「注意」を促しておく。
*ジョージ曰く「ギリシャの天気がおかしい、エーゲ海はこの時期快晴のはずなのに、毎日靄がかかったような空、もしかするとアメリカが気象操作している?」。まあ「陰謀論」ではあるのだけれど、あながちない事でもないでしょう。
これから梅雨、猛暑、台風とやってくるわけで、また大騒ぎが始まります。豪雨が、猛暑が、暴風が、、、「怖いですよ、気を付けて下さい」、、、姿勢として、そうアナウンスしておくことは、それはそれでよいと思う。基本的には、当たらなくても良いのだと思います。細心の注意を促す。ここまではその通りなんですね。
確かに怖いですよ。でも特別な事ではない。気を付けましょう、と伝えることは必要であっても、リスクに対して過剰な反応を促すことは、間違っていると思う。大事なことは、個々の人々が細心の注意をすることであって、科学・文明の力で、雨や風や暑さ寒さを制御しよう、という事ではないと思います。
よく、台風を消滅させればいい、降雨量を操ることは出来ないのか? まあ、冗談半分で言っているのだとは思うのですが、どうやら半ば本気の人もいるようで。今(今後)の科学・文明をもってしては、やろうと思えばできることですから。現実的な対象で言えば、ダムを造ることも、冷暖房も、或る意味同じです。
全面的に否定するつもりはありません。補助的にそれらが機能すれば良い。しかし、それに頼り切るのは、間違っていると思います。
コロナ問題も、全く同じです。
マスクがウイルス感染の媒体である、と言うのは、むろん冗談ではあるのですが、結構真面目な冗談です。僕は、マスクの毀誉褒貶を、ずっと以前から(「コロナ問題」発生よりも前から)指摘し続けています。マスクのメリットの全てを頭から否定しているわけではないです。その他のリスク管理も、ワクチンに対しても同様です。必要な時に補助を求めれば、それなりの効果はあると思います。でも、やみくもにマスクやワクチンに頼るのは、本末転倒です。逆方向に進んでしまいます。
もし、人類が「永遠の命」を求め、地球を支配しようとしているのなら、本当にそれが目的なら、今の方向性(「マスクで防御」「ワクチンで撃退」)は間違っていないのかも知れません。しかし、(個人ではなく未来の)人類のためを思えば、間違っている。
「空気」は、本来は素敵なものですね。+αの存在としてなら。しかし「空気」が主体となって、そこから逃れることの出来ない、「無意識強要同調空気(そうでないものは無視排除する)」の中に置かれてしまえば、本末転倒です。
空気は、外から浴びるものであって、内から作り出すものではないはずです。
想うに、
民主主義は、(大衆が自発的に協調する)「空気」を育てる社会。
共産主義は、(大衆が自発的に発する)「空気」を制御する社会。
どっちも、方向性が間違っている、と僕は思うんですけれど(どっちも「それはそれで正しい」と言い換えても良いのでしょうが)。
事実(真実)は、一つではない、というのが(余りにも当たり前で今更言うことじゃあないとは思いますが)僕の基本的な考えです。全てに於いて複雑である、と。
人は言います。「科学・学問は、その複雑さを解きほぐして構築前進し、人類にとって良き結果を齎しているではないか」と。
漱石の「夢十夜」の何夜目か(第6夜)に、運慶が仁王を彫る話がありましたね。
>「よくああ雨造作に鑿を使って、思うような眉や鼻が出来るものだな。」
>「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずはない。」
科学・学問の成果(文明)というのは、たぶん無限に埋まっている“もの”の中から、体系と方法論の学習でもって、それを取り出しているに過ぎないのだと思います。むろん、その方法論の取得は誰にでも出来るものではなく、それを為すことが出来る人は(運慶の様に)尊敬に値するとは思いますが。
でも、科学・文明の恩恵などは、“全体”からすれば、ちっぽけなものかも知れんのですよね。例えば、電気だって何だって、ついこの間の出現でしょう? 逆方向で捉えれば(この曲線の先を辿れば)、今後、何が可能になるか、予測もつかない。
おそらく、今我々が思いもしないことが、ごく近い将来に、次々と為し得ていくのではないでしょうか?
例えば、永遠の命の獲得とか、宇宙の果てに到達とか、、、、(でもその時は人間は人間じゃ無くなっていると思う)。
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ロジカルな思考・表現というのは、言い換えれば「一つの現象のみを“真実”と捉える技術の学習」だと思うのです。教育であり、洗脳でもあります。そんなことをいうと、人類に対する冒涜であり、「陰謀論」としかされないのでしょうが(そもそも相手にされない、笑)。
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まだ続きがあるのですが、長くなるので分割して、今日はここまで。