へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

坂本竜馬きどり?

2010年04月23日 04時21分33秒 | Weblog
「竜馬の再来」を望む声がそこここでおきているようだが、今の時代に竜馬が現れても「何も出来ずに消え去る他ない」のではないだろうか。
さて、現実に目を向けてみると「自民党を離脱して新党を立ち上げる」と言った現象が起きているのだが、これらを見ていると何となく「竜馬きどり」でいるように見えたならないのである。
これは私の個人的な見方かもしれないのだが、「自民党を離脱する」と言うことを、「竜馬が土佐藩を脱藩した」と言うことと同じレベルで捕らえているのだろうが、竜馬が土佐藩を脱藩した事と自民党を離脱する事は「次元も時代背景も全く違う」と言うことを理解する必要があるだろう。
しかしながら、何故このような現象が起きるのだろうか。
自民党ばかりか、政権与党の民主党の中でも意見の相違が表面化しているのだが、これらの問題の根底にあるのは「選挙に勝つ」と言う事で、議員の側から言えば「政治に民意を反映させたい」と言いたいのだろうが、これは所謂「詭弁」の一種で、本音を言うなら「選挙に勝つために民意に迎合する」と言う以外にないであろう。
「民意が政治に反映されていない」などとよく言われるのだが、「政治が民意に左右される」と言う事は非常に危険なことで、余程慎重に考えないと後で取り返しの付かない事になってしまうのであるが、そのことに気が付く人は極一部にしかおらず、民意に迎合した結果、今正に「破綻への道を突き進んでいる」のである。
そもそも、国が国民のために何かをしようとすると「財源が必要」になるのだが、その財源の殆んどは「国民が払う税金」なのだが、殆んどの民意は「自分が払った税金以上のものを求める」と言うことが当たり前のように行われ、不足した分は「国債の発行(借金をする)で帳尻を合わせる」と言う方法が取られてきたのだが、無制限に国債を発行することは出来るはずもなく、「最早限界」に近づきつつあり、早晩新たな国債の引き受け手がなくなってしまうだろう。
「新たな国際の引き受け手がなくなる」と言う事は、日本の「国際的な信用がなくなる」と言うことを意味しており、日本全体が「夕張市の二の舞」と言うことになるのであるが、このような状態の中で竜馬が現れたとしても「多くの国民が期待するような事はしてくれない」であろう。
当時は身分によってその地位が決まってしまい「上位下達」が当たり前の時代であり、今とは時代背景が全く違うのである。
こんな事を言うのはおこがましいが、仮の話竜馬が今現れたとしても「私と同じような事を言う」のではないだろうか・・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする