一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

「『悪者』であるための実存的努力について」への補足

2006-09-01 | 余計なひとこと
前のエントリを読み返すと、話が拡散してしまっているので若干の補足を。

前のエントリではバッシングする側、される側の論理という方に話が展開したのですが、もう一つ言いたかったのはホリエモンなり村上氏なり三木谷氏が「おのれの自己同一性を実存的な努力によって構築せねばならず、にもかかわらず、そうやって獲得したものはそのつど無価値なものという宣告を受け、あらたな獲得目標に向けての競争に駆り立てられる」という努力をあるところで止めてしまったために、魅力が薄れてしまったのではないか、ということです。

ライブドアも楽天も、株式公開をして多額の余剰キャッシュを得た後、株価を維持・上昇させることが自己目的化してしまい、買収したキャッシュフローを生む(主に金融)子会社の収益に下支えられた決算と「次のM&A」による話題作りという似たり寄ったりの会社(よく見れば違うのでしょうが)になってしまいました。
(ホリエモンは注目を浴びるようになってから、自分個人についての脱構築を続けていたのかもしれませんが、ライブドアという企業は取り残されてしまいましたよね)
村上ファンドは東京スタイルなどで「物言う株主」として脚光を浴び、資金が集まりだしてからは、表の顔を維持しながら多額の資金を運用するために、きわどいことをするようになったわけです。

結局は皆、巨額の金を手にしたものの、それを制御しきれるだけの事業の継続的な革新ができなかった(そもそもそんなことが可能なのかどうかわかりませんけど)ことが「虚像」などといわれてしまう結果になった、ということではないかと。



それからもう一つのポイントは「実存主義的にゼロ」であることの選択、または実存主義的な努力を回避するための誘惑(=「自分は○○だ」と定義してもらうまたは定義する必要もないくらいに楽な地位に身を置くことへの誘惑)です。

これはサラリーマン(被用者)など何らかの組織や社会的カテゴリーに属していることの安心感を生み出すわけです。

私はそれが必ずしも悪いとは思わないのですが、そこの安心を得るのと引き換えに失うものも出てくるということも、頭の片隅に置いておいた方がいい、という自戒です。
つまり、安心と引き換えに考えなくなってしまう、または思考の枠組みが制限されることに無自覚になってしまう、ということです。

具体的には「バカの壁」であったり、それぞれが自分の塹壕にこもったまま手榴弾を放り投げるかのような2ちゃんなどでの荒れる現象であったり、もうすこし前向きな例としてはモトケンさんのblogで盛り上がっている医療崩壊における医師の(刑事)責任追求のあり方に関して医師の方と法律家の方が(誠実に議論しながらも)議論をすりあわせるのに苦労されていることに現れています。


ホントこれは、自分自身に対して一番意識しないといけないことだと思います。
(でも、私は天邪鬼なのでついつい「起業家」とカテゴライズされる起業予備軍の人々が、カテゴライズされること自体の論理矛盾に潜む危うさに気づいているのか、などとつっこみたくもなっちゃうんですよねw)

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