小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

ウソと真実

2011年09月28日 13時31分27秒 | 現代日本

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。引き揚げ女性がソ連兵などの暴行を受けて妊娠して、引き揚げの船上で自ら命をたったり、あるいは帰国後にやむなく人工中絶の手術を受けたりと、悲惨な運命を受けたことは、以前「チエンマイの原風景」からの転載記事で、「伝え続けたい ~敗戦国日本女性の受けた悲劇」お伝えしたことがあります。

ソ連兵のひどい行為は、まさに野蛮としか言えないものでした。私も学生時代に、近所に満州から引き揚げた方がいて、その苦労話と、その方の知り合いの美しい女性が、家に押し入ってきたソ連兵に暴行を受けそうになり、夫や子供の目の前で暴行を受けることを防ぐために、二階から身を投げて命を絶ったという話を聞いたことがあります。このソ連兵が治安を取り締まる活動を行ったという事実は聞いたこともない話で、、さくらの花びらさんのおっしゃるように、捏造としか言えません。このような捏造までして、何を目指そうとするのか、ほんとうにしっかりと彼らが誘導しようとする先を見据える眼が国民には必要でしょう。


 

 

高志さんの記事より、掲載します。 
・・・ 
 
昨日(9月20日)の朝日新聞「声」欄は「語りつぐ戦争」というテーマで、関連した記事が載っている。 
一つは【引き揚げ女性の孤独な闘い】。 
敗戦後の一時期を舞鶴の国立病院で、引揚者の入退院事務の仕事をしていたという今年79才の女性からのもので、当時まだ10代の多感な娘さんだった彼女にとっては生涯忘れ得ぬ思いを綴ったものである。 
《悲惨な命の現場に立ち会った記憶は今も、私の心の奥底に重く沈んでいる。》 
と彼女は控えめな表現で記述している。

《入院して来た女性たちは疲れ果て、頭は丸刈り、薄汚れたネズミ色の綿入れ上着とズボンの男装。
現地で旧ソ連軍の兵士らによる暴行や地元民からの迫害を受け、心身に深い傷を負った人が多かった。家族が待つ仮宿舎の向かいの産婦人科病棟で、人工妊娠中絶がひそかに行われた。
医師らにとっても苦渋に満ちた決断だったに違いない。妊娠後期に入り、困難な手術もあったようだ。》

「声」の女性は《古い布に包まれた胎児の遺体》を雑役のおじさんと二人で木箱に納め、
《薪の束と小さな「棺」をリヤカーに乗せ、町外れの焼き場まで運び、荼毘に付した。
戦後復興の歴史の裏に封印された、引き揚げ女性たちの長く孤独な闘いを思う。
悲惨な命の現場に立ち会った記憶は今も、私の心の奥底に重く沈んでいる。》
と結んでいるが、同様な事は舞鶴よりも距離的に大陸に近く、引揚者の数も多かった博多では、もっと大々的に人工中絶が行われている。一体どれ位の女性が犠牲になったのか、人工中絶の手術を受けた女性だけが犠牲になった訳ではない。
内地に帰り付くまでに亡くなった人もあるだろうし、心ならずも出産した人もあるだろう。
犠牲になった女性の人数をチャイナ流で表すと五百万人か1千万人かという事になる。
在留邦人の数から見て、計算が合わないのはアチラさんの流儀で言ったからである。

「声」欄には同時に【強盗を取り押さえたソ連兵】という岡山県の80才の男性の記事も載っている。
《・・・ 旧ソ連の占領下(平壌)で・・・ある夜、出刃包丁を握った数人の強盗に押し入られた。全員が1か所に座らせられ、金品を奪われた。私は頭を出刃の先でこづ かれ、木綿のパンツに血がポタポタと落ちた。20分ほどたっただろうか、突如、自動小銃を携えたソ連軍の兵士が数人飛び込んできて強盗を取り押さえた。東 洋系の幼い顔立ちだった。・・・ソ連兵の蛮行の噂は聞いていたが、この時ばかりは地獄に仏だった。》 

ソ連軍政の下、そういう事はあって当然だが、私は邦人がソ連兵に助けられたという話を聞くのは全く初めてである。ソ連兵の悪事の埋め合わせをする為に載せた記事の様な感じもする。
現在、ソウルでは日本大使館前に「従軍慰安婦」の記念碑を建てるとか建てないとかで紛糾しているというが、この架空の物語に比べると「中絶」の事実は余りにも重い。
だが、事実は事実として教科書にも載せるべき話である。
少なくとも「従軍慰安婦」という記述を掲載している教科書には「人工中絶」の事実も掲載しなければ片手落ちの誹りは免れないだろう。
(記事のはさくらの花びら記入)
・・・・・・・
 
イメージ 1
                          歴史上なかった”従軍慰安婦”の記念碑を建てろと言っているが、
            我々が知るべきは真実の歴史なのです。
   
   
・・・・
   
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転載元 転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

 

 

 


続き 今政治家に1番求められる心 「楠木正成公」

2011年09月28日 12時23分30秒 | 歴史

サイタニのブログからの転載です。楠正成公の一族は、すごいものですね。正成公だけでなく、弟の正季公も、長男の正行公も、みな心を一つにして、正成公についていったということがすごいです。一族の正成公への信頼と一族の団結力を感じます。現代では考えられないような一族への帰属意識ですね。

現代は、個人主義で、家族さえも、これほどの一致団結はない場合が多いです。一族郎党が、大義にのために殉ずる覚悟をするということは、日本の国と、一族の「家」というものとの二つへの帰属、つまり「個」と「家」と「国」の三つが一体と感じるような意識が必要だと思います。

これは一見、個人が個人としての自由を失って、制限されるように見えます。たとえば平和な時に、自分一人で自由に生きる場合の価値もそれはそれなりにあると思います。しかし一旦緩急ある場合の、多数が心を一つにして、大義と信ずる目的に向かうときの感覚は、おそらく生命というものが持つ共感とか、一体感とか、いわゆる孤独とは正反対にある喜び、さらには日本という国が自己の生命の根源にある意識から来る、回帰の喜び、そんなものが無意識的にではあれ、感じられるのではないかと想像します。

 

 

ひるがえる菊水の旗

 
前に両手をついた弟の姿に、正成は胸が熱くなりました。いつも兄である自分を
心から信頼してくれる弟……今また一族が滅びるかもしれない戦をしょうとする
正成に、喜んで従うと言うのです。
 
思わず涙を浮かべた正成に正季が言いました。
「兄者がそんなに気の弱いことでどうなさる!」
すると正成がニッコリ笑い、正季、わしは地獄におちるつもりはないぞ!
二人は笑い心を通わせた!
 
正成は時を移さず、笠置山へむかいました。すぐに馳せ参じた正成に
後醍醐天皇は大変喜ばれ、「速やかに幕府を倒し、天下を統一するにはどうした
ら良いか。そちの考えを申し述べよ。」
 
正成は誠心誠意心をこめて申し上げました。
「幕府を倒すには、武力と謀(はかりごと)の二つが必要でございます。幕府は
強い武力を持っておりますが、謀をもって対すれば恐れることはござりませぬ。
その時々の戦の勝敗を見て、お心に不安を持たれませぬよう…。
帝…この正成が、いまだどこかに生きてあると聞かれましたならば、
帝の天下統一の道は、必ず開かれるものと思(おぼ)し召(め)し下さりませ!」

 
この正成の言葉を、後醍醐天皇はどれ程心強く思われたかわかりません。
この後、天皇はどのように苦しい時にも、正成のこの言葉を心の支えとされた
のです。
 
笠置山から帰った正成は、意を決し、すぐに挙兵の準備にとりかかったのでした
。元弘元年(一三三一年)九月、笠置山の 後醍醐天皇のもとから河内に帰った
正成は、挙兵の準備のため、すぐに城造りに取りかかりました。正成は楠木家の
重臣、恩地左近を呼んで言いました。
 
「左近、幕府軍が 帝(後醍醐天皇)のおられる笠置山にむかっておる。城造りを
急がせてくれ。それから、城の塀を二重(にじゅう)にして、外側の塀は綱を
切れば落とせるように作らせよ。」二重塀と聞いて左近は驚きました。
 
…外塀を切り落として敵兵を防ぐおつもりか…?。
「お館様…外塀が落ちるのを見た敵兵は、本当に塀が崩れたと思い、かえって
勢いにのってしまうのではないでしょうか。」
 
「左近、それは違う。外塀が切り落とされた時の状況を、今少し深く考えてみよ。
長い塀は一気には倒れぬゆえ、本物の塀が残っているのが見てとれる。それに
落ちた塀の下になった兵は、何とか起き上がろうと必死になるであろう。後ろの
兵は、塀の下になった者を踏む訳にもいかず、前に出ることすらできぬ。この
混乱に乗じて櫓(やぐら)の上から矢を射かければ…かなり有効な策じゃと
思うが……?」
 
正成の正確なよみに左近は舌をまきました。
このお館様は尋常(じんじょう)な御仁(ごじん)ではない…、
すると正成がニッコリ笑って言いました。
 
「尋常な戦い方では、何万という幕府軍を相手に戦うことなどできぬのだ。
にわか作りのこの城では、幕府軍には勝つことはできぬ。じゃがこの度の戦は、
幕府軍を相手にどこまで持ちこたえられるかが、勝負なのじゃ!」
 
九月十一日、抜けるような青空のもと、小高い山の上に作られた城には、
いくつもの菊水の旗がひるがえりました。赤坂城と名づけられた城には、
正成を総大将に約五百名の兵がたてこもり、ついに、幕府軍を相手に挙兵した。
 
 
続く
 
                                   楠木正成
                                   後藤久子著より抜粋
 
 
 

転載元 転載元: サイタニのブログ

 

 

 


本物のはなし

2011年09月27日 15時38分09秒 | 無題
 昭和天皇の御代のことです。その頃に参議院議長をしていた人に、重宗雄三という方がおられました。その方の奥様がお話になった逸話だそうです。



或る時インドネシアの大統領が来日されました。国家の正式なお客様ですから、天皇陛下の御招待のパーティが開かれ、参議院議長夫妻もお招きに与りました。

 重宗さんの奥様はその頃大変に痩せておられたそうです。だから洋服はあまりお召にならず、和服を召されました。この様な宮中の正式な場所では、一般の正装である黒の留袖ではなく、無地の色物を着ることになっています。それで奥様は無地の色物を準備しておられたのです。

 するとそこへ御主人の重宗議長が入って来て、「お前、なんだ。今度は天皇様の御招待じゃないか、この種のパーティは初めてじゃないだろう、ずいぶんデラックスなパーティだ、いくら婆さんでもお前、そりゃ、あんまり地味すぎるぞ」と言われたのです。そう言いながらしばらく考えておられた議長は、突然に、

「あっ、いいのがある、あれがいい、あれだったらパアッとしていいから」

 奥様は、御主人が何を言っているのかと思ったら、先日もらったダイヤの指輪をはめていけと言うわけです。

「この間もらった、こんなでかいの、あれがいい」

 ところが奥様はそんなものをもらったこともないし、第一御主人から買ってもらったこともない。何を言っているのかと思ってよく考えてみたら「孫が誕生日にくれた大きなガラス玉の指輪のことでした」とこういうわけです。議長はそれをダイヤと間違えておられたらしいのです。

「あなた、あれはガラスですよ」

「ガラスか……」

 ちょっとびっくりした様子でしたが、又しばらく考えて「いい、いい、はめていけ。まさかあの席上で天下の参議院議長の奥様がガラス玉をはめているなんて誰も思わんだろう」ということになったそうです。重宗夫人は素直な方でしたので、御主人の言うとおりにされたのでした。

 さて、宮中でのパーティは、和食や中華料理はお使いにならないで、いつも洋食なんだそうです。和食の場合ならお茶碗やお箸は下から支えるように持ちます。だから指輪は下の方になります。ところが、洋食となるとフォークとナイフは上から押さえつけるように持つでしょう。つまり指輪が上に向くことになるのです。その上、素晴らしいシャンデリアの光で、その大きなガラスの指輪がピカっと光るわけです。

 人間というのは面白いもので、ガラス玉ということを誰も知らないで自分だけが知っている。自分しか知らないんだけれど、自分がガラス玉だと強く意識するので、光るほど、恥ずかしくてたまらないのです。もしこれが、逆に本物だったら、ちょっとでも光ればウフフンとなります。重宗夫人は、ニセモノのガラス玉なのでもう恥ずかしくて、恥ずかしくて、小さくなっておられたというのです。そうしたらちょうどメインテーブルだから、天皇陛下がいらっしゃって、隣にインドネシアの大統領、それから皇后陛下、天皇陛下の向こうは大統領夫人という風に、交互にお座りになるわけです。そして重宗さんの奥様ははす向かいに座らされたというのです。

 しばらくしたら、あまり光るものだから、天皇陛下が奥様の方、特に指輪を、お体を出されてのぞいていらっしゃるんだそうです。それで、奥様はもうなんとも言えない恥ずかしい気持ちになり、小さくなって御飯を食べました。そこでおひらきになったのです。そして、誰かと重宗夫人が話をしておられたら、そこへ天皇陛下がお近くへいらっしゃったので、恐縮して「本日は御馳走になりました」と深々と陛下の前に最敬礼をされたそうです。しばらくして頭をもたげたら、陛下は御身をのり出されて、問題の指輪をのぞいていらっしゃる。重宗夫人はあわてました。

 そうしたら天皇陛下が、

「重宗さん、先ほど食事の時に、非常に光ったものだから、よく見たらあなたの見事なダイヤでした」

 とおっしゃっておそばに来られ

「あの見事なダイヤをそばでゆっくり拝見させて下さい」とのお言葉があったというのです。奥様のおっしゃるには、「天皇陛下というお方様は絶対にごまかすことができないお方様です。どうしても嘘を言えないお方様です」ということでした。

 これはすばらしいことです。このことを重宗夫人から伝え聞いた方が言っておられました。ここに日本の象徴があるのです。つまり無私というか、無我というか、この無私のお立場というものは、一切を身そぎ祓われた本当に美しいものなんです。本当に美しいものに対しては、よごれたごまかしの心は寄せ付けられない。嘘をつけない。だが一応ごまかしていいような相手だったら、「いやあ、大したものじゃありません」と逃げてしまえばいい、というのです。

ところが、ごまかせないお方様です。仕方がないから、畏れ多いことだったけれど、陛下のお耳元に近づいて、「陛下、まことにお恥ずかしいことでございますが、実を申しますとこれはダイヤではないんです。これはダイヤのニセモノでございます」と小さい声で申し上げたのだそうです。そうしたら、陛下がびっくりされて、大きなお声を出された。

「これニセモノですか!」

 そこでとてもあわててしまって、冷や汗をかきながら、「ハイ、実を申しますとこれはダイヤじゃなくて、ダイヤのニセモノで、ガラス玉でございます」

 陛下はしばらくじっと指輪を御覧になっていらっしゃいましたが、

「重宗さん、本物じゃありませんか」と、またおっしゃったということです。どうしてこう執着なされるのかと思いながら、「違うんです。これはダイヤじゃないんでございます。ダイヤのニセモノでございます。ガラスの玉でございます」と再び申し上げたら、とうとう終いにお笑いになって、

「あなた、本物じゃありませんか、これねえ、ガラスの本物でしょう」

とおっしゃったということです。このおはなしを重宗夫人から聞いた方は、涙がぼろぼろ出てきたと書いておられました。胸がつまるような気持ちになったそうです。“ああ、すばらしいなあ、本物だけを生きるというお方は、本物だけをみられるのだ”と思ったというのです。いわゆる偽物というのは無い。それは比較対照する時に感じられる仮定に過ぎないのであり、一つ一つ見ていったら、凡ては生え抜きの本物だというのです。

 こどもの教育でも、失敗するのは、兄弟がいると、「姉ちゃんと比べてお前は何だ」とか、「お前は兄貴のくせに弟を少し思ってみたらどうか」と、こう比較の中で考える。それだから本来のその子の個性の本物が何処かへくらまされてしまう、というのです。

 昭和天皇は、そういえば、植物の研究をよくされましたが、その時お付きの方が、何かの折にお庭の草のことで、これは雑草で、というようなことを言われた時に、雑草というものはないとおっしゃったというお話を聞いたことがあります。天皇というお方が、いかに無私公平の心で、凡てのものを見ておられるのかということが、ほんとうにこのお話をきいて、しみじみと感じたものです。これは今上陛下におかれても、同じ御心であろうと思います。




神社のお話(二)

2011年09月26日 23時54分27秒 | 無題
美しい国からの転載です。日本神話の神々はあらゆるものの生命を畏敬して神として祭ってあるので、ほんとに様々の神が存在しているのですね。

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我国最古の石鳥居、「元木の鳥居」建立されてから1000年以上と言われ、国の重要文化財に指定されています。(山形県山形市)
 
 
 
みずみずしい”という言葉がありますが、私たちの体内の水含有率は、新生児では80%以上、大人では60%前後で年齢とともに減っていきます。老化とは、細胞からの水分の減少といえるかも知れません。
人間に限らず、自然界にあるものすべて水がなければ「生」を保つことはできません。農耕民族の我々にとって水は最も重要なものの一つであります。
水の状況によって収獲が左右されることから、水は、私たちに大きな恵みを与えてくれるとともに、生命や財産をも奪う恐ろしい存在でもあるのです。
最近では、台風12号、15号による水害は自然の力をまざまざと見せつけられました。
それゆえ祖先は、水が集まる川に対する感謝や畏怖は、生活に直接かかわるた め、信仰という形で古くから私たちに伝えられてきました。川の神様、水の神様である水神として、あるいは水神が姿をかえた竜や蛇、河童などがあり、水神の 神使とされたり、神そのものとして崇めてきたのです。
日本神話には、水に関する神として以下のような神が記述されています。
 
罔象女神(みつはのめのかみ)は『古事記』の神産みの段において、火の神、軻 遇突智(かぐつち)、を生んで陰部を火傷し苦しんでいた伊邪那美(いざなみ)がした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたされ、『日本書 紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムス ビ)が生まれたとしている。
灌漑用水の神、井戸の神として信仰され、祈雨、止雨の神得があるとされる。
闇龗神または、淤加美神(おかみのかみ)貴船神社(京都市)のほか、丹生川上 神社(奈良県吉野郡)では罔象女神とともに祀られ、全国に「意加美神社」などと称する神社がああります。龗 (おかみ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていた。 「闇」は谷間を、「高」は山の上を指す言葉である。祈雨(きう)、止雨(しう)、灌漑(かんがい)の神として信仰されています。
闇罔象神(くらみつは) 闇龗神いずれも祈雨(きう)、止雨(しう)、灌漑の神として信仰されている。
天之水分神(あめのみくまり)・国之水分神(くにのみくまり) 分水・分水嶺の神
天之久比奢母智神(あめのくひざもち)・国之久比奢母智神(くにのくひざもち) -- 瓢(ひさご)・灌漑の神
八岐大蛇(八俣大蛇、八俣遠呂智、ヤマタノオロチ) -- もとは肥河(斐伊川)の水神であったと云われています。
 
我々の祖先は、水・川に対する感謝や畏怖を、信仰という形で古くから私たちに伝えられてきました。川の神様、水の神様である水神として、あるいは水神が姿をかえた竜や大蛇として崇めることはその現われなのです
 
河川改修・治水事業が進み、ある程度は洪水からの恐怖は少なくなったものの、川が私たちに与えてくれる恩恵はもちろん、恐怖は、現在でも変わらないと考えられます。
戦後GHQの施策で核家族化が進み、山間部の人口流出が進み、山々の保水力が低下し昨今のゲリラ豪雨をかんがえ れば、。水神様のような存在を自然のシンボル化と考えれば、川に感謝することや、あるいは畏怖の念を抱くことは、今の私たちが忘れてしまった、とてもたい せつなことなのではないでしょうか。

 
我国は海に囲まれた国です。
海辺に住む人々は、漁をし、生活の糧としてきました。
海をつかさどる神を海神(わたつみ、わだつみ、うながみ、かいじん)と言います。
「ワタ」は海の古語、「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意です。
日本神話では、海に関する神として以下のような神が記述されています。
 
大綿津見神・大海神(おおわたつみ)
海神豊玉彦(わたつみとよたまびこ)
神話の山幸彦と海幸彦の段では、火照命又は火須勢理命(海幸彦)の釣針をなく して困っていた火遠理命(山幸彦)が、塩土老翁の助言に従って綿津見大神(豊玉彦)の元を訪れ、綿津見大神の娘である豊玉姫と結婚している。二神の間の子 であるウガヤフキアエズはトヨタマヒメの妹である玉依姫に育てられ、後に結婚して神日本磐余彦尊(神倭伊波礼琵古命・かむやまといわれひこ)らを生んでい る。綿津見大神の出自は書かれていないが、一般にはオオワタツミと同一神と考えられている。
 
底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称を住吉三神といいます。
住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある。海の神、航海の神とされています。
住吉は「すみよし」は、元は「すみのえ」と読み、住吉の「吉」は古来では 「エ」と読み、、「住吉」は「スミノエ」と読んだが、平安時代の頃から「スミヨシ」と読むようになった。スミノエとは「澄んだ入り江」のことであり、澄 江、清江とも書いた。古代における天皇陛下即位の際の重要な祭儀である八十嶋祭の清めの海を表しており、天皇陛下は即位すると住吉(スミノエ)の海で清め の儀式を行ったのである。住吉大社周辺の墨江や住之江という地名は、「スミノエ」の読みに漢字を当てはめたものです。
住吉三神を祀る神社は住吉神社などという社名で、日本全国に約600社あり、三韓征伐に由来する神社が多いです。
 
 
船魂は、船中にまつられる船の守護神。住吉大明神・猿田彦神・綿津見神など。春日・八幡・大日・薬師なども数え入れ十二船玉という。男女一対の人形やさいころ二個・五穀・銭一二文・女の髪などを神体とし、帆柱の受け材である筒(つつ)の下部に穴をあけて封じ込める。
 
亀や魚などは海神の使者であるとも考えられ、それを助けたために、海の底の宮殿へ行くことが出来たという説話が数多く伝えられています。浦島太郎の話などはその代表例です。
海の神々は命のやりとりをする漁業関係者に今もなお、広く信仰されています。
 
 
 
 
次回に続く・・・・・

転載元 転載元: 美しい国


続き 今こそ、日本人に必要な 「楠木正成公の魂」

2011年09月26日 23時35分30秒 | 歴史

 サイタニのブログ からの転載です。楠木正成公についての記事の続きです。

 

 

今こそ、日本人に必要な 「楠木正成公の魂」
  
  
後醍醐天皇

 
 
元徳二年(一三三0年)米が取れず大飢饉の年の年となり、多くの人々が飢えに
苦しみました。
 
この時、京都の御所におられた、時の帝(天皇陛下)、後醍醐天皇は、「私の、
天皇としての徳が足りないためにこのような飢饉がおこるのであれば、
天は私一人を罰すれば良いものを……なぜ罪もない人々が苦しまねば
ならないか……。」と大変お心を痛められ、
 
 
ご自分の朝の食事をやめられて、その分を飢えている人々に与えるよう命じ、
米の蓄えのある者には飢えた人に分け与えるよう命じられたのです。人々は、
徳の高い帝、と心からお慕いしたのでした。
この、後醍醐天皇は若い頃より、かって大変良く国を治められた「醍醐天皇」を
理想とされ、自ら「後醍醐」と名のり、国の乱れの元となっている鎌倉幕府を
倒そうとされたのでした。
 
河内一帯に勢力を持つ正成の下には、世の中の様々な様子がいち早く知ら
されて来ます。近頃、正成は黙ったまま考え込むことが多くなりました。
 
「兄者…何を考えておれれる?」正季が心配そうに聞きました。
 
「正季…おぬしも聞いたでろう。飢饉の時の帝のなされよう…わしには帝を慕う
民の心が手に取るようにわかる。それに比べ、幕府の身勝手な政治と世の乱れ
…そして、帝の倒幕(幕府を倒す)の動き…。」
 
正成は遠くを見つめたままつぶやきました。
「…時が来る…変革の時が…」
 
元弘元年(一三三一年)五月、後醍醐天皇の鎌倉幕府を倒す計画が幕府側に
しれ、幕府は 天皇を捕えるため、京都に大軍を送りました。八月二十四日夜、
天皇は幕府の軍から逃れるため、密かに京都を脱出されて笠置山に移られた
のです。日本をゆるがすような出来事に、国中が騒然となりました。
 
そんな折り、後醍醐天皇からの勅使(使者)が楠木の館を訪れたのです。
 
元弘元年(一三三一年)八月、後醍醐天皇は笠置山の笠置寺に移られ、鎌倉
幕府を倒すために挙兵(兵を挙げる)されました。しかし、衰えたとはいえ全国に
勢力を持つ幕府の力を恐れて、帝側につく武将はあまりありませんでしたので、
天皇は大変心細く思われました。
 
勅使は楠木の館に入ると、畏まる正成を前にして言いました。
 
「帝は、そなたの力が必要だと仰せじゃ。帝は身勝手な幕府を倒し、民が豊かに
暮らせる世の中を願って立ち上がられた。楠木殿、そなたの力をかして下され!
」すると、正成が即座に答えたのです。
 
「帝が、この正成ごとき必要として下さるとは……弓矢取る身の面目、身に余る
幸せにござります。すぐに笠置へ参上仕りまする!」
 
あまりの即答に使者は驚いてしまいました。
 
「何と…どの武将も幕府を恐れて 帝側につくのをためらっているというに…
即座に、このような色良い返事が聞かれようとは…。」
 
使者が帰ると正成は仏間にこもり、一人祈っておりました。
しばらくすると、弟の正季(まさすえ)を中に呼び入れて言いました。
 
「正季…わしはいつの日か 帝のため、命をかけて挙兵すると心に決めていた
のだ。しかし、幕府が全国を支配している今、帝側についての今回の挙兵は、
楠木一族の命運をかけるものとなろう。一歩違えば一族を滅ぼすことにもなり
かねぬ。お前の本心を聞いておきたい。」


「兄者・・・まず兄者のお心をお話し下され。」
 
 
「…わしは、ずっと考えて来たのだ、帝がなぜ以前より幕府を倒すご計画をされる
のか。もし 帝がご自身の身の安全だけを考えるのであれば、幕府の意向に
従っておれば良い。だが、帝はご自身の身の危険も顧みず、二度までも幕府を
倒そうとされた。…わしには、帝に深いご決意があると思えてならぬ。
 
 
帝は…百年千年の後の世までこの日本が栄え、民が幸せに暮らせる国とする
ため、帝を中心とした日本国本来の姿に国をもどそうとされている…。
 
 
帝のこの深いお志に気づいた時、わしは帝のためになら、命を捨てても
良いと思った。わしの代でこの楠木一族が滅びるとしたら、先祖に何とも申し
訳が立たぬ。しかし、国の真の安泰のためにご自身をなげうたれた 
後醍醐天皇戦いのためなら、楠木一族の命運をかけても良いと思える…
これがわしの本心じゃ。」
 
正季は居ずまいを正し、正成の目を見つめと言いました。
「不肖この正季、地獄の底までお供仕る!」
 
 
続く
 
 
                                   楠木正成
                                   後藤久子著より抜粋
 
 
 

転載元 転載元: サイタニのブログ