今こそ、日本人に必要な 「楠木正成公の魂」
後醍醐天皇
元徳二年(一三三0年)米が取れず大飢饉の年の年となり、多くの人々が飢えに
苦しみました。
この時、京都の御所におられた、時の帝(天皇陛下)、後醍醐天皇は、「私の、
天皇としての徳が足りないためにこのような飢饉がおこるのであれば、
天は私一人を罰すれば良いものを……なぜ罪もない人々が苦しまねば
ならないか……。」と大変お心を痛められ、
ご自分の朝の食事をやめられて、その分を飢えている人々に与えるよう命じ、
米の蓄えのある者には飢えた人に分け与えるよう命じられたのです。人々は、
徳の高い帝、と心からお慕いしたのでした。
この、後醍醐天皇は若い頃より、かって大変良く国を治められた「醍醐天皇」を
理想とされ、自ら「後醍醐」と名のり、国の乱れの元となっている鎌倉幕府を
倒そうとされたのでした。
河内一帯に勢力を持つ正成の下には、世の中の様々な様子がいち早く知ら
されて来ます。近頃、正成は黙ったまま考え込むことが多くなりました。
「兄者…何を考えておれれる?」正季が心配そうに聞きました。
「正季…おぬしも聞いたでろう。飢饉の時の帝のなされよう…わしには帝を慕う
民の心が手に取るようにわかる。それに比べ、幕府の身勝手な政治と世の乱れ
…そして、帝の倒幕(幕府を倒す)の動き…。」
正成は遠くを見つめたままつぶやきました。
「…時が来る…変革の時が…」
元弘元年(一三三一年)五月、後醍醐天皇の鎌倉幕府を倒す計画が幕府側に
しれ、幕府は 天皇を捕えるため、京都に大軍を送りました。八月二十四日夜、
天皇は幕府の軍から逃れるため、密かに京都を脱出されて笠置山に移られた
のです。日本をゆるがすような出来事に、国中が騒然となりました。
そんな折り、後醍醐天皇からの勅使(使者)が楠木の館を訪れたのです。
元弘元年(一三三一年)八月、後醍醐天皇は笠置山の笠置寺に移られ、鎌倉
幕府を倒すために挙兵(兵を挙げる)されました。しかし、衰えたとはいえ全国に
勢力を持つ幕府の力を恐れて、帝側につく武将はあまりありませんでしたので、
天皇は大変心細く思われました。
勅使は楠木の館に入ると、畏まる正成を前にして言いました。
「帝は、そなたの力が必要だと仰せじゃ。帝は身勝手な幕府を倒し、民が豊かに
暮らせる世の中を願って立ち上がられた。楠木殿、そなたの力をかして下され!
」すると、正成が即座に答えたのです。
「帝が、この正成ごとき必要として下さるとは……弓矢取る身の面目、身に余る
幸せにござります。すぐに笠置へ参上仕りまする!」
あまりの即答に使者は驚いてしまいました。
「何と…どの武将も幕府を恐れて 帝側につくのをためらっているというに…
即座に、このような色良い返事が聞かれようとは…。」
使者が帰ると正成は仏間にこもり、一人祈っておりました。
しばらくすると、弟の正季(まさすえ)を中に呼び入れて言いました。
「正季…わしはいつの日か 帝のため、命をかけて挙兵すると心に決めていた
のだ。しかし、幕府が全国を支配している今、帝側についての今回の挙兵は、
楠木一族の命運をかけるものとなろう。一歩違えば一族を滅ぼすことにもなり
かねぬ。お前の本心を聞いておきたい。」
「兄者・・・まず兄者のお心をお話し下され。」
「…わしは、ずっと考えて来たのだ、帝がなぜ以前より幕府を倒すご計画をされる
のか。もし 帝がご自身の身の安全だけを考えるのであれば、幕府の意向に
従っておれば良い。だが、帝はご自身の身の危険も顧みず、二度までも幕府を
倒そうとされた。…わしには、帝に深いご決意があると思えてならぬ。
帝は…百年千年の後の世までこの日本が栄え、民が幸せに暮らせる国とする
ため、帝を中心とした日本国本来の姿に国をもどそうとされている…。
帝のこの深いお志に気づいた時、わしは帝のためになら、命を捨てても
良いと思った。わしの代でこの楠木一族が滅びるとしたら、先祖に何とも申し
訳が立たぬ。しかし、国の真の安泰のためにご自身をなげうたれた
後醍醐天皇の戦いのためなら、楠木一族の命運をかけても良いと思える…
これがわしの本心じゃ。」
正季は居ずまいを正し、正成の目を見つめと言いました。
「不肖この正季、地獄の底までお供仕る!」
続く
楠木正成
後藤久子著より抜粋