さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。最近のさくらの花びらさんの記事は修身で取り上げられた日本の偉人を紹介されています。
こうした先人たちの生き方を見ると、日本人がどういう思想を持ち、どんなふうに工夫して成し遂げていったかという日本人の性格のようなものが、おぼろげに見えてきます。それぞれ成したことは違いますが、共通したもの、があって、それらから、日本人が何を尊び、どんなふうに物事に立ち向かい、どんなふうに克服していくかという民族の持つ性格的なもの、個性というものが、なんとなく感じられます。もちろん世界の偉人たちには、ある程度共通する偉大さがありますが、それとは別に、いかにも日本人らしさという部分が感じられるのです。こういう部分を感じることは、やはり大事なことだと思うのです。
修身では外国の偉人も多く取り上げられています。これも素晴らしいことで、世界の多くの人種を、別け隔てなく、人類がどれだけ偉大なことを成し遂げられるかという、人間そのものの存在を肯定的に捉えることができます。そしてその中で、日本人が日本人らしさを発揮して、何かを成し遂げた話は、自分の中に、日本人としての誇りと共に日本人として世の中に尽くしたいという意識を芽生えさせるのではないでしょうか。
(太田恭三郎)
太田恭三郎
明治三十六年、二百五十人ばかりの一団を先頭に、
日本人渡航者が相次いで、フィリピンに向かった。
フィリピンの首都、マニラからおよそ三百キロ北の高い山の中に、
バギオという町を新しく建設するため、その手始めとして、険しい山坂を切り開き、
三十五キロという長い道路を作ろうとしたのである。
岩が落ちてきて、人が怪我をする。出来かかった道は、すぐに崩れる。
そのため、フィリピン人も、アメリカ人も、支那人も、
これまで果たすことの出来なかった難事業を、今はしとげてみせようというのである。
日本人は、辛抱強くて、よく働いた。
けれども、やっぱりこの仕事は生易しいことではない。
何人も病気になったり、けが人もたくさんできた。
その上、日本人が一番困ったのは、急に食物が変わったことである。
このまま仕事を続けていたのでは、みんな病気になってしまうかもしれない。
この様子を知って、義侠心を起こしたのは、マニラの街に住んでいた太田恭三郎であった。
恭三郎は、早く明治三十四年からマニラへ渡って、そこで日本雑貨の輸入業を営んでいた。
渡航した時は、まだ二十六の若者であったのである。
恭三郎は日本人渡航者たちの苦しみをみては、じっとしていられず、フィリピン政府に相談して、
これを救う工夫をするとともに、自分で漁師からいわしを買い求めて送ることにした。
続いて梅干しやたくあん漬けなどをたくさん送り届けた。
このことを聞いた日本人たちは、
「太田さんは、偉い人だ。太田さんは、有難い人だ」
と、心から感謝して元気づき、一生懸命に働いたので、間もなくフィリピンの島に、
ベンゲット道路という立派な道路が、日本人の力で出来上がったのである。
ところが、今度はその日本人たちに、仕事のなくなる時がきた。
早くもこの様子を見た恭三郎は、またしてもこれを救ってやろうと思い立ち、
「ダバオこそ日本人の新しく働くところだ」
こう考えて、行く末を心配する日本人たちを励ましながら、ます百八十人だけをダバオに送り、
マニラ麻を作らせることにした。
その頃、ダバオは非常にさびしいところであった。恭三郎は、まだ二十九歳にしかなっていない。
三十八年には、二度ほど日本人をベンゲットからダバオへ送ったが、
二度目の時には、自分も一緒になってミンダナオ島のダバオに移り住むことにした。
そうして、今までの輸入業をやめて、太田興業という新しい会社を作り、
広大な畑に麻を栽培し始めたのである。
「日本人にマニラ麻がうまく作れるものか」
と、ばかにしていたアメリカ人やスペイン人をしり目にかけて
恭三郎の会社はだんだん大きくなっていった。
それだけではなく、腕のある日本人たちは、引っ張りだこで、
みんなに麻の作り方を教えるようにさえなった。
「有難い。これで日本人は、ダバオに落ち着くことができる」
恭三郎は、心から喜んだのである。
恭三郎の一生の望みは、どうしたら日本人が、海外でよく栄えることができるか、
ということであった。この望みに向かって、いつも全力を尽くした。
ダバオに落ち着いたのも、せっかく苦心した麻が暴風のため一夜で倒されてしまったことがある。
その時恭三郎は、
「こんなことで、負けてなるものか」
と、雄々しい気持ちを奮い起して、日本人たちを励ましながら、
一生けんめいになって復旧に努めた。
また、干ばつのときに困らないよう、畠に水を引く大きな工事を始めたり、
いつも先々のことを考えながら、細かく気をつかって、仕事をした。
恭三郎は日本人のために学校を作ったり、慰安の設備をしたりした。
その上、フィリピン人も日本人にならって、幸せになるようにと大きな心から、
病院を建てたり、道を開いたり、港をつくったりした。
大東亜戦争になって、フィリピンの島々から、アメリカ人を追い払うことのできる前、
すでに恭三郎は、ダバオ開拓の父と仰がれる大きな事業を成し遂げたのである。
ダバオのミンタルというところ、フィリピン群島第一の高峰アポを背にした緑深い山の上には、
恭三郎の立派な記念碑が立っている。
(第五期(昭和十六年)・初等科修身四より)
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