国祖の天照大御神が須佐之男命の「欲奪我国」(わがくにをうばはんとおもふ)の悪心を問い正され、「汝心之清明」を証しせよともうされた。すると、みことは「無邪心」(きたなきこころなし)と弁解されている。書記の表現では「無黒心」「無悪心」である。
悪・邪・黒いずれもキタナキ、クラキ心であり、国祖神に対する反逆であり、その反対は大神の念願される「キヨキ」心であり、黒心の反対の「アカキ」「ウルワシキ」心である。
この「清明心」は、記紀の後に成立した続日本紀の宣命では「清き明かき正しき直き心を以て」「諂(へつら)い欺く心なく忠(まめ)に赤き誠」また「清直」(きよきなおき→せいちょく→正直)の心を以て、仕え奉れと表されるようになる。
仁慈が天子の大御心なら、清き明かき心は皇室への忠誠心である。(その心は、人々の自然の風光をめでるのにも映されて『万葉集』では「清く」「清(さやけ)く」「清明(あきらけ)く」の類語が百万ヶ所にも上る)
善悪の比定をキヨキとキタナキを以て置きかえ、穢きを忌み嫌って「清き」を願われたこの理想は、私的利害(己の生の利害も含む)を離れることであり”私”無き心がそこに念願される。「清き」の価値は後、尊皇の道において清直→「正直」と自覚されてゆき、戦国時代の武士の気節をたっとび廉恥を重んずる道徳として花開き、江戸時代に儒教道徳の理解の道を開いた。
それだけでない、町民の道となる思潮をも生み出し、近くは”神州清潔の民”と言い、今も、きたない金(賄賂)を受け取ったの受け取らないのと、身の証し(「明かし」の名詞形)を立てるのに身の”潔白”を云々するのである。押し付けられたものでも、唐国からの輸入でもなく、本居宣長のいう「生まれながらの真心」で、お上の仁徳と、下仰ぐところの清明・まごころ相まって連綿と日本歴史を流れ、聖徳太子によってはっきり仰出された「和」と共に、やまと民族の大いに尊ぶところとなった。
以下、旧制中学修身書巻一から
明き心
「明き浄き直き」まことの心は、日本人の性質の中心をなすもので、御歴代の詔勅に、幾度も幾度も繰り返されており、古事記・日本書紀・万葉集に於いても、重々しい場合に幾度も用いられていて、明朗・快活・清廉・潔白・公正・勇武などの諸徳は、概ねこの明・浄・直の三大性を基本としている。
「明き心」は明るく朗らかな心である。活々とした元気と希望に充たされた心である。
熊沢蕃山は日本を「陽国」と称した。本居宣長が
しきしまのやまと心を人とはば、朝日に匂ふ山櫻花
と歌ったのは、よく日本精神の特色を言い表したものと思う。物事に屈託せず、いつも楽天的で天真爛漫で、活発に活動してゆくのが日本人の性質である。
中略
明治天皇の御製に
さしのぼる朝日のごとくさわやかにもたまほしきは心なりけり
と仰せられてあるのは、我等にとって尊い教訓である。
「心は持ちよう、気は取りよう」というように、人は心はある程度までどのようにでもなるものである。不平を言い、怨言を吐き、些細なことに落胆したり、意気阻喪するようなことは男子の面目ではない。
東郷大将が嘗て赤道直下を航した時のこと、同乗の一人が焼き付くような暑さに堪へかねて、大将に、
「実に暑くて堪えられませんね」と言ったが、大将は黙っていられる。彼は更に、
「閣下、このあつさでは凌げませんね」
と言うと、大将は、
「心の持ちようです」
と只一言答えたという。
◯
鏡は一物もたくはへず、私の心なくして万象を照らすに是非善悪の姿あらはれずと云う事なし。その姿に従ひて感応するを徳とす。これ正直の本源なり。(神皇正統記)
◯
心体光明なれば、暗室の中にも青天あり。念頭暗昧なれば、白日の下に鬼(れいき)を生ず。(菜根譚)
浄き心
清浄は日本人の特性であることは、西洋人の日本に関した記事には必ず書いてある。
上古、我等の祖先は、目に不潔なものを見ただけでも身体が汚れるものであるとし、身体が汚れれば精神もまた汚れるものと考えた。清流に浴して禊ぎをしたのは、即ち清い精神は清い身体に宿るものと考えたからで、身を洗うことによって、心の汚れもまた去ってしまうというのが、上代日本人の考えである。
中江藤樹は、「学問は心の汚れを清め身の行いをよくするを本とす」と言った。我等は身体を洗い清めるばかりでなく、常に心を洗い清めなくてはならぬ。たとい身体の清潔を保っても、心のけがれが除かれないでは、人としての価値は失われる。
明治天皇の御製に
浅みどりすみわたりたる大空の広きをおのが心ともがな
と仰せられてある。晴れわたった秋の空のように一点の曇りない心が我等の全生命を支配する時、そこに真の人間としての光が輝き出て、その言行の一切は貴く美しいものとなるであろう。
「浄き心」の反対を「くろき心」或いは「きたなき心」という。俗に「腹黒い」などというのは純潔の反対を意味している。腹黒い心は多く慾心から起こる。曲げられた金銭の慾に囚えられ、道ならぬ道に迷うて終に一身の破滅を招き、醜い行為を白日の下にさらすものがあるのは、日本人としてまことに恥ずべきことではないか。
明治天皇は
みなもとは清くすめるを濁江(にごりえ)におちいる水のをしくもあるかな
と誡め給うた。
◯
うちに敬齋するは心を清くし慾と怒とを止むるをいふ。これ内清浄なり。外に敬齋するは沐浴・みそぎ・はらひして物いみするなり。これ外清浄なり。(貝原益軒)
直き心
直は「すなお」の意で、正直・率直・撲直・実直など、いずれもこれであり、直往邁進して義の為に勇を奮うのも直である。従って邪なこと、卑怯なこと、緩慢なこと、優柔不断なことを嫌う。
心が直く正しいものは、言うことに嘘偽りがない。元来嘘は自分の悪事を隠すためか、体裁をかざるためか、或いは不当の利益を得るために、その方便として言うもので、一時はそれで通れることがあっても、決して何時までも露顕せずに済むものでない。且又一度嘘を言えば、それを隠すために第二の嘘を言い、第三、第四、第五と際限なく嘘を言うようになって、人々から相手にせられなくなり、結局さまざまの悪事を犯して世に立つことの出来ぬようになる。「いかなる悪事も嘘から始まる」というように、悪人も元をただせば嘘をいう習慣から来る。我等はささいなことでも決して嘘を言わぬようにすべきである。
なおく正しい人はその行いに陰日向がない。その行為はいつも公明正大で、人の知ると知らぬとによって表裏のあるようなことをしない。(中略)
直き心は真理を愛するこころである。(中略)
◯
正直は一旦の依怙に非ずといえども、終に日月のあはれみを蒙る。謀計は眼前の利潤たりといえども、必ず神明の罰にあたる。(古語)
◯
自ら反りみて縮(なお)くば千万人といえども吾往かん。(孟子)