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枢密院議長 清水澄博士の思い・・・   憲法学者としての赤心

2012年01月18日 22時42分40秒 | 日本人と憲法

美しい国からの転載です

 

 

昭和天皇陛下 御尊影
 
 
 
わが庭の そぞろありきも 楽しからず 
  
         わざはひ多き 今の世を思へば
  
 
※昭和五十八年年頭の御製です。
総ての臣民に対し、御慈しみの心をもって接せられ、私心(わたくしごころ)を一切現わされるこ との無い 畏くも昭和天皇陛下が「わざはひ多き世」と御詠みあそばされました。
俗に言う「災い」としては、「戦争」「天変地異」「不景気」などが挙げられますが、この御製を詠まれた当時、戦後四十年近くも 平和が続き、
今年3月に東日本を襲った東日本大震災ほどの大きな災害もなく、景気も好況を呈していました。
陛下にこのような御歌を御詠みいただく程の事件は、何も考えられません。
 それにも拘らず「わざはひ」とお詠みになられたのは、天変地異や不景気などとは比較にならない 大きな「災い」である「精神の荒廃」について深く 大御心を痛められたが故と推察致します。
この荒廃の根本原因はマッカーサーが命じて作らせた占領基本法である現行憲法(と称するもの) です。
憲法は国の魂です。近年目を覆いたくなるような、政治の迷走、拝金主義に走った犯罪、尊属殺人など枚挙すればきりがありません。
すべて、個の尊重への偏重による占領憲法を原因としております。
 
清水澄(しみず・とおる)博士肖像、自決ノ辞
 
 
昭和22年9月25日、最後の枢密院議長となった清水博士は、熱海錦ヶ浦の断崖から身を投じられた。享年80歳でした。
大日本帝国憲法下の天皇陛下の忠臣として、自らの生涯を全うする決意であられた博士は、占領憲法発布の同年5月3日屈辱の日に意を決せられ、密かに上掲画像の「自決ノ辞」に認められ、自室の机の引き出しに隠されたのです。
 
発見された博士の亡骸は、モーニング姿の正装、左手に数珠を巻き、口を真一文字に結び、両手の拳はしっかりと腰に当てられ、まさに古武士の大往生の風貌であったと言われています。
 
占領軍は武力を背景とし、国際法の精神を無視し、占領者の都合のいい植民地憲法を速成させ、新憲法として押し付ける暴挙のでたのです。
昭和22年5月3日は、日本人による、日本人の為の「大日本帝国憲法」が、日本人の総意に基づくことなく廃止せられた屈辱、国辱の日であることを、やまと民族たる日本人は決して忘れてはならないでしょう。
 
終戦を境に、占領軍に媚びを売り、戦争には反対だった、我國の政治に疑問を感じていた、戦争に負けていい國になったなどと、臆面もなく宗旨替えする破廉恥な日本人、敗戦利得希望者が各界に声を挙げた。
敗戦利得者の多くは他界しているが、その後継者、追従者が今尚、生き続け一昨年政権を搾取しました。
戦後手中にした、敗戦利得を保持するため、今も政界、マスコミ界、学会、において活動し、国民を騙し、国益を損じているのです。
 
東宮御用掛、宮内省御用掛として、先帝陛下にお仕えされた清水博士には、占領憲法は耐え難いものであったことでしょう。
博士が予測されたとおり、かってのお国柄とは似ても似つかぬ国に変わり果ててしまった今日の日本。
本ブログの拙稿、「誇り高き日本一の町、岡山県奈義町」の中で、昭和44年「大日本帝国憲法復原決議を紹介しましたが、まだこの頃は戦前世代の方々が国を憂い、行く末を修正しようとされていました。
 
冒頭の先帝陛下の御製を賜った昭和58年には、世代変わりが進み、この異常な植民地、占領憲法を異常とさえ思わぬようになっていたのです。
 
 
わが庭の そぞろありきも 楽しからず 
  
         わざはひ多き 今の世を思へば
  
  
先帝陛下は、変わってしまったお国柄、民族の精神の荒廃を「わざはひ」と詠まれたものと推察することは容易です。
 
我々こころある臣民は、博士の遺志を継ぎ「大日本帝国憲法」を復原し、占領憲法の呪縛を解かねばなりません。
そして、敗戦利得者の後継、追従者を駆逐せねばなりません。
 
 
 
 
清水澄博士の墓(青山霊園)
 
 
 
最後に博士の大往生の折り、ポケットに入っていた遺書、辞世ともいえる
 
 
 
 
「われ楚の名臣屈原にならって自決し幽界より國體を護らん」
 
 
尊い御心を胸に刻みたい。
 

転載元 転載元: 美しい国

 


清水澄(しみず・とおる)博士について、南出喜久治弁護士は、次のように言われています。

清水澄博士は、帝国憲法に殉死されたのである。その当時、変節学者や保身学者が多い中で、唯一人帝国憲法に殉死された文人である。

遺書にあるように、中国の戦国時代の楚という国の屈原が汨羅(べきら)の淵に投身自決した故事に倣い、熱海の錦ヶ浦で投身自決してその忠君愛国の至情を貫かれた。その名のとおり、澄んだ清き水が如く、その赤心には一点の曇りもない。

それゆえに、この文人の殉死は、武人の殉死に勝るとも劣らない壮絶さがある。

その昔、明治天皇の御崩御を契機として、乃木希典将軍は、大葬当日、静子夫人と共に殉死された。そして、同じように、清水澄博士は、明治天皇の欽定にかかる帝国憲法が蹂躙されたことを契機として、清水澄博士は、正統憲法である帝国憲法に殉死されたのである。

明治天皇に殉死することと、帝国憲法に殉死することとは、いずれも國體を護持し皇室の藩屏たらんとする信念の発露である。

と、言っておられる。占領国が国際法に違反してまで、わが国を弱体化すべく、明治天皇が神に誓われて制定せられた憲法を蹂躙したことの屈辱は、憲法学者として、ほんとに耐え難かったことでしょう。自分の非力を嘆かれ、魂になって国体を護ろうとされた強い思いが痛いほどに伝わってきます。


昭和天皇が、世の中の荒廃を嘆かれて、わざわい多き、と詠まれた和歌が記事に出ていますが、昭和天皇が日本の社会の荒廃にずいぶんとお悩みであったことは香淳皇后の御歌にも書かれております。次の二首は香淳皇后の御歌で昭和天皇についてお詠みになったものです。

折にふれて 二首(昭和44年)
つぎつぎにおこる禍ごとをいかにせむ慰めまつらむ言の葉もなし

みこころを悩ますことのみ多くしてわが言の葉もつきはてにけり

この昭和44年という年は東大安田講堂占拠事件の年です。学生の左翼運動がひどかった年で、まさに日本の古き心が失われるかのような、革命前夜にも似た時代だったようです。戦後、日本国憲法の下、日本人は和の精神を忘れ、個人主義的な権利意識を増大させて、左翼的な精神で、政治批判が多く行われ、赤旗の林立する光景がよく見られました。そんな時代を、どれほど苦しい思いで、昭和天皇が見ておられたか、香淳皇后の和歌によく映し出されている気がします。




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