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「沈勇」 日本の誇り佐久間勉艇長

2011年08月22日 17時29分05秒 | 歴史

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。この話は、当時世界で賞賛された話です。日本人としてこれ程素晴らしい誇りとすべき佐久間艇長の話、或いはその他の多くの誇るべき先人の話を語り継がないで、子孫に先人の偉大さを伝えないのは、まさに日本の歴史、先人に対する罪ではないかと思います。

 

転載開始

日本の誇りが消されて久しい。 
かつての日本の軍人たちの数々の誇りある偉業や勇戦を「戦争の美化」という連中がいる。 
同じ歴史本を読んでもその人の持っている思想や信条で受け取り方は大きく変わってしまいます。 
特に戦前については、悪いところしか見ない、欠点ばかりしか見ない、傾向が強い。 
こういうものの見方しかできない人間が教育に携わっていると子供たちが悲劇であるといえるでしょう。
しかも彼らの言う「戦争の美化」という言葉はチャイナや韓国も同じく使うのだ。
このことは何を意味するのか、考えたい。・・・ 
 
さて、「沈勇」と聞いてピンとくる方はいるでしょうか?
戦前は修身の授業で「沈勇」と題して佐久間艇長を子供たちに教えていました。
修身の授業では多くの歴史上の人物などを取り上げて、その行いを学ぶものです。
子供たちはそこから、礼儀、道徳心、モラル、孝行、忠君など、
日本人としての生き方を感じ取り、日本の精神や大和心を自然と身につけていったのです。
 
佐久間 勉。
当時は日本国内だけではなく、世界の人々に感動を与えました。
今も佐久間艇長の命日には出身地の福井県で「遺徳顕彰祭」が行われています。
海上自衛隊音楽隊による演奏やイギリス大使館付武官によるスピーチも行われています。
 
明治43年4月15日。
瀬戸内海の新湊沖で海軍の第一潜水隊に所属する六号艇が沈没しました。
艇長の佐久間勉大尉は潜水隊の一号艇から四号艇までの艇長を歴任したベテランで、
日露戦争中は水雷艇に乗り組み、多くの武勲を挙げました。
 
佐久間大尉が六号艦艇勤務になったのは、
潜水艦隊の中でも最も小さく低速の六号艇で僚艦との艦隊行動を可能にするためでした。
艇速をあげる試みとして佐久間大尉は繰り返し半潜航の訓練をしていました。
半潜航とは艦体を半ば沈めて隠密性を確保しながら外気への直接排気をすることで
速力と航続距離を得ようとするものですが、通気筒から浸水する可能性が高く危険な航法でした。
 
この日、六号艇は半潜航中に浸水がはじまりました。
慌ててバルブを閉じようとしましたがバルブのチェーンが切れて
艦体の後部が満水となり、傾斜したまま沈没してしまいました。
 
沈没した艦体が引き上げられたのは翌々日でした。
生存者がいることは期待されていませんでしたが、引き上げられた艦内を見て、
関係者は慟哭せざるを得ませんでした。
 
14人の乗組員全員が自らの持ち場で倒れていたのです。
薄まっていく酸素と、逃げられないことが明らかな死が近づきつつある状況においても、
乗組員たちはみな死にいたるまで取り乱すことなく職務に忠実でありました。
 
そして佐久間大尉の軍服のポケットからメモが発見されました。
沈没と同時に電灯は切れ、艦内に排気ガスが充満している状況において、
さすがに筆跡は乱れてはいるものの、整った文章で沈没に至る過程を記述し、
部下や上官への陳謝を記し、潜水艦の将来をおもんばかっているのです。
・・・・・・
 
佐久間艇長の遺書
 
小官の不注意により陛下の艇を沈め 部下を殺す、誠に申し訳なし、
されど艇員一同、死に至るまで 皆よくその職を守り沈着に事をしょせり
我れ等は国家のため職に倒れ死といえども
ただただ遺憾とする所は天下の士はこれの誤りもって
将来潜水艇の発展に打撃をあたうるに至らざるやを憂うるにあり、
願わくば諸君益々勉励もってこの誤解なく 将来潜水艇の発展研究に
全力を尽くされん事を
さすれば 我ら等一つも遺憾とするところなし
 
 
公言遺書
謹んで陛下に白す 部下の遺族をして 窮するもの無からしめ給わんことを 
我が念頭に懸るもの之あるのみ ・・・
 
十二時三十分 呼吸非常に苦しい・・・
 
十二時四十分なり
 
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このように記して遺書は終わっています。 ここで気を失い、亡くなったと思われます。
この佐久間大尉の遺言を知った日本の国民は震撼し、号泣した。
同時に佐久間大尉が日露戦争での旅順封鎖作戦で戦死した広瀬中佐にも勝るとも劣らない感動を日本全国民に与えました。
 
ヨーロッパなどでは同じような潜水艇事故の時には、脱出しようとした乗員が出入り口に殺到し、
最悪の場合互いに殺し合うなどの悲惨な事態が実際に発生していました。
 
イギリスの新聞グローブ紙には
「この事件で分かることは、日本人は体力上勇敢であるばかりか道徳上、精神上にもまた勇敢であることを証明している。今にも昔にもこのようなことは世界に例がない」と驚嘆しました。
 
佐久間艇長以下の最後は深い尊敬の念を呼び起こし、世界各国から多数の弔電が届きました。
 
佐久間艇長の中学時代の恩師である成田鋼太郎先生は愛する教え子を失った深い悲しみと共に、この遺言を読んでこう言ったといいます。
「これを読みて、予は感極まりて泣けり。今泣くものは、その死を悲しめるにあらざるなり。
その最後の立派なりしに泣けるなり」
 
その後、佐久間艇長は武士道の鑑として言われました。
しかし、人間としての佐久間勉は決して英雄豪傑肌の人ではなかったといいます。
自分には厳しく、人には優しい、温和で思いやりの深い人だったと言われています。
 
自分が息をひきとろうとする間際において、
なお、部下の家族のことまで気遣う心根の優しさ、思いやりの深さは、
まさに海よりも深いものがあるのではないでしょうか。
 
・・・・・・
 
最後になりますが、この佐久間艇長のお話を今の小学校6年生の授業で聞かせているとろがあり、
子供たちの感想を書かせたものを記しておきます。
 
≪佐久間さんやその部下は自分の仕事をやり通した。その執念は今の人にはないと思う。
佐久間さんは国のために死んでいったのだろうと思った。≫
 
≪みんな亡くなっても自分の仕事を果たすなんて,誰にでも出来ることではない。この事はどこでも有名になってもおかしくない。自分の仕事は命をかけなければ出来ないことだ。命をかけなければどんな仕事でも出来ないような気がした。≫
 
≪最後まで自分の事を書かず,陛下,上官,部下の事を書き,ひたすら書いた。やっぱり日本は武士道だ。心が強い。こんなにいっしょうけんめい書いて後の人に残すなんて,さらに泣き言なんて一つも書いていない。≫
 
≪佐久間勉さんもすごいが乗っていた人達もすごい。各受け持ちの仕事を死ぬまでやっていたからだ。さらに佐久間勉さんも普通の人ならパニックになる時でも遺言を書いて事故の様子を詳しく書いていた。悲しい事故だと思う。≫
 
≪佐久間勉さんの潜水艇の人は,最後まで自分の仕事をやっていた。自分の受け持ちの所に居る時,恐くはなかったのだろうか。外国の場合とは全く違う。日本の人は勇敢だった。≫
 
≪亡くなる時はみんなパニックだったと思う。でもその時少しも騒がずに仕事をした佐久間艇長はすごい。もし自分が艇長だったら我先にと潜水艇を飛び出して死んでいただろう。もし死ぬんであれば誇れる死に方をしたい。そう思う。≫
 
≪自分だったらあわてて遺言なんて書けないと思う。日本の海の人はすごいと思う。自分が乗っている艇が沈んだら,私は絶対あわててパニックになっていると思う。佐久間さんはよくあわててパニックにならなかったと思った。≫
  
 
子供たちはこのような日本の偉人、先人たちの偉業こそ知りたがっているのではないでしょうか。 
そして、今の日本人が広く知らなければならないのは”修身”にあるこういう話かもしれません。
  
 
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転載元 転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

 



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