小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

日本人とは・・・

2011年11月25日 15時40分10秒 | 無題

美しい国からの転載です。日本人がかつてはどのような考えを持ち、どのように生きていたか、それを失った現代を見ていると、昔の幸せだった、誠実な時代が輝いて見えます。先日のブータン国王夫妻の来日は、日本がかつて持っていて、今は失ったものを、見せつけられたような気持ちでした。私たちは立ち止まって、本来の日本とは何であるか、歴史を振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。

 

 

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森羅万象に神が宿ると信じ、日本人独特の無常観で他者への思いやりを育む
 
古来、日本人は、森羅万象すべてに神々が宿ると信じ、崇敬してきました。また他者に対しても、同じ運命を背負う人間仲間として捉え、深く共感できたのです。そこから、「思いやり」「いたわり」という優れた感性が芽生え育んできたのです。
無常とは、元来仏教用語ですが、他の仏教国では捉え方が異なります。
いかに権勢を振るって栄耀栄華を極めようとも、多くの権勢なき人々と同じように、やがて死を迎えます。
未来永劫、盛者であり続けることなどできず、無常を知ればこそ、敗者や弱者の姿に、明日のわが身を見る思いがして、敗者への思いやりとか弱者へのいたわりといった感情が湧き上がるが、日本人だけが持ち得る感性なのです。

武士道の価値観
 
武士は侍とも書きます。もののふともいいます。
またその語源は天孫降臨された皇祖ニニギノミコトより前に天孫降臨されたとされるニギハヤヒミコトを祖とし、大和朝廷では国の軍事氏族として活躍した、物部氏(もののべうじ)とされてます。
侍=その文字が示すとおり、もともと高貴な人に侍り、その身辺警護が仕事でした。役目柄、要人よ り華美な振る舞いは許されず、常に死を覚悟していなければなりませんでした。このことが質実剛健な精神構造を生み出し、支配階級となったあとも、「武士 道」として武家社会の規範になっていきます。明治維新で武士階級はなくなりましたが、代わって徴兵制が採用されたため、武家だけの「武士道」からむしろ国 民全体にも拡がり、大東亜戦争終戦まで、日本人の精神的支柱であり続けました。

武士道における価値観は、西洋とでは対極をなします。

         
   ・新しいものよりも古いもの
   ・華美よりも質素
   ・物質的な豊かさよりも精神的な豊かさ
   ・私よりも公( 滅私奉公)
   ・動よりも静
   ・剛よりも柔
 
自分の命より名誉のほうを重んじ、それに増してすばらしいのは、「惻隠の情」(そくいんのじょ う)(かわいそうに思うこと。あわれみ)に高い価値を見出していたことです。弱い者いじめや敗者に鞭打つなどの卑怯を最大の恥とし、弱者敗者をいたわり、 護ってやるのが武士の情でした。

 戦後、アメリカ的価値観を妄信する人が増え、武士道精神は急速に忘れ去られようとしています。軍国主義と結びつけて、頭ごなしに非難する人たちもいます が、しかし、卑怯者がはびこる現代社会にあって、かつての凛とした日本を取り戻すためには、「武士道」を蘇らせるしかないとおもうのです。
 

自然への崇敬

人間は、神代の昔から変わることなく、自然の恵みを受けて生活しています。森羅万象、見えないも のまで、自然は子々孫々に受け継がなければならない人類共有の財産です。太陽・空気・水、どれが欠けても人間は生きていけません。これらすべてのものを、 当然あるものと考えていないでしょうか。自然は人間が創り出したものではなく、一度無くしてしまったら取り返しがつきません。古代の日本人は、自然を崇敬 し護るべきものと知っていました。失ってしまったらら元に戻せないと知っていたからです。古代人に習い、自然への感謝と畏怖の気持ちを忘れてはなりませ ん。これらが、 『斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)の神勅』と繋がっているのです。
 
一人の人間は、小さな能力しかなく弱い存在なのに、なぜこの地球上に人類が君臨しているのでしょ うか。太古の昔から、助け合うことが力になる、という知恵をもっていたからです。原始時代の人々は、火を熾せるようになり、道具を使うことも覚えました。 皇室のご祭祀は、火を熾すことから始まります。古代さながらの鑽火(きりび)(堅い板に棒を揉み込み自然に起す清浄な忌火)で行われます。
そして神聖なものと崇められています。また、全国各地の神社の新嘗祭でも、新穀を得たことを神様に感謝し、境内で火を焚き上げ、火の災いを鎮める祭りが行われています。


先祖から受け継いできた自分の命、800年遡れば、約2700億人以上の先祖が自分に集約している
 
人には必ず両親がいます。父母各一人の合計二人です。その両親にも両親がいます。自分からみれ ば、祖父母にあたる人です。父方と母方の祖父母各一組合計四人です。祖父母、つまり三世代前程度でしたら多くがご存命でしょうからすぐ思い浮かびますが、 何世代前になるともうわかりません。
では、20世代前に遡ると何人になるでしょうか?
52万4288人、さらに30世代前になると5億3687万0912人、40世代前では2748億7790万6944人になるのです。
世代間年数を二十年とすると、20世代前で400年、30世代前で600年、40世代前では、800年前になります。
800年前は、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて19年後にあたります。人一人のご先祖様が800年前まで遡ると2748億7790万6944人もいるのです。
勿論、我国の人口が鎌倉時代初期に2748億も存在するわけがありませんから、同一人を重複して数えることになります。
 同じ父母から生まれた兄弟姉妹。または、同じ国土に生まれた人々、同じ国民、また、同じ民族のことを同胞(どうほう)といいます。
上記の数字からも、日本人が殆ど、血の繋がりのあることの証左でもあります。
系図のなかった庶民では辿りようもありませんが、間違いなく同じ父母から生まれているのです。数 多くのご先祖様のうちたった一人でも欠けていたら、今の自分は生まれてこれなかったはずです。これは生命の奇跡としか言いようがありません。一人一人の生 命はやがてつきます。しかし、生命そのものは親の代から受け継ぎ、子の代へと引き渡されていきます。
 
筆者が子供の頃には、どこの家庭にも神棚と仏壇があり、日常の明け暮れに神仏に祈り朝日に手を合わせ、夕日に感謝する親や祖父母の後ろ姿がありました。
勿論、お正月、国の慶事には、国旗がどこの家にも掲げられていました。


40年前のまだ古き日本の残っていた幸せの時代

 そして、食べ物と大切にしていました。
一粒でもご飯を食べ残したり、好き嫌いを言うと「もったいないと、親は子供を叱りました。食べ物や、ものに対して「いただきもの」「さずかりもの」と天地自然への感謝の気持ちをいつも忘れませんでした。みんな昔話になってしまったのでしょうか。ほんの40年前のことです。

 「ご先祖さまに顔向けできないようなことを、してはいけないよ」親の言葉が頭のどこかにあるから、自制心 がはたらき、悪いことをしょうと思ってもできません。「おてんとさま(お天道さま)が見ているよ」おじいさん、おばあさんの口癖が、いつも心の片隅にあ り、心に残っています。

 親や祖父母の教えが、「生き方の規範」になって、より良き行いをしようと心掛けます。かって人々は「人の道」という、歩むべき方向を持ちあわせていました。

 ご飯を食べ残したり好き嫌いを言っても、最近の親達は「もったいない」と叱らなくなりました。子供は食べ物があふれているのに、自分好みの品を求めてとめてコンビニに行きます。 

 精神の不安定な時期にある青少年の自暴自棄の行動、大人達の自分勝手な独りよがりの行い、失望と絶望、人々はさまざまな心の不安を抱きながら、日々明け暮れしています。 

 現代人は老いも若きも「生き方の規範・人の道」という、心のよりどころを持たないから、ストレスで心身を病み、自信を喪失し、ささいなことにつまずいてしまいます。

 「もったいない」という言葉をつぶやきながら、天地自然に手を合わせても、いいのではないでしょうか。
 「ご先祖さまに顔向けできないようなことを、してはいけないよ」 「おてんとさまが見ているよ」「神さま、仏さま、ご先祖さま、おてんとさま」と拝む、日常行動があっても、いいのではないでしょうか。

 経済や政治・社会情勢に押し流されるようでは、潤いのある生活はできません。昨今のように混迷する社会情勢のもとでは、人々は目先のことばかりに心うばわれます。そんなご時世であればこそ、なにか大きな恐れるもの、畏敬の念を抱くものがあれば、かえって安心します。

 神仏や、天地自然に手を合わせる、積極的な行動によって、
子供達は健やかに成長し、大人達は希望と自信をとりもどし、安らぎを得ることができるでしょう。
 
かっての日本人とは、そのような民族だったのです。
そして、その時代のほうが、皆幸せであったように筆者は思います。
今一度、大らかで、高貴な、こころ優しい日本人の戻ってみませんか・・・
子孫の為にも・・

 
 
 
 
 
 
 
 

転載元 転載元: 美しい国








 


沖縄戦「住民自決命令」(下) ~ 神話との戦い

2011年11月25日 13時06分15秒 | 歴史

国際派日本人養成講座からの転載です。戦後日本や日本軍を悪者にするためにいかに捏造が行われたか、またその捏造がいかに執拗に繰り返し宣伝され、歴史事実にまでされて教科書に載せられ続けてきたか、その典型的な例ではないでしょうか。元は、すべてアメリカ占領軍のプロパガンダです。

現地での取材もせず、一方的に想像力を働かせて描いた史実、一体彼らにとって歴史とはなんなんでしょうか。

しかもそうした捏造によって、貶められる人々に対して、どのように思っているのでしょうか。

 

転載開始


史実として否定されても、いまだにプロパガンダとして生き延びる「住民自決命令」神話。


■1.米軍情報をもとに書かれた『鉄の暴風』

『鉄の暴風』は座間味島での集団自決に関しては、守備隊長・梅澤裕少佐が住民に自決を命じた後、こう行動したと伝えている。

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 最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降、隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。[1,p36]
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 県立沖縄資料編集所主任専門員の経歴を持つ大城将保(おおしろ・まさやす)氏は、この記述に関して次のような指摘をしている。

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 梅沢少佐は今なお健在であって、明らかに事実誤認である。それよりも気になるのは、「梅沢少佐のごとき」とか「朝鮮人慰安婦らしきもの」といった文章のアヤに執筆者の主観が濃厚に出ていて実証精神を疑わしめるところがある点である。[1,p46]
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 さすがに『鉄の暴風』第9版では、この事実誤認の一節は完全に削除されている[1,p47]。しかし、なぜ、このような事実誤認がなされたのか、その経緯は『鉄の暴風』の特殊な性格を明らかにしている。[1,p249]

 座間味島での戦闘で敵弾を受けて重傷を負った森井芳彦少尉は、部隊本部の防空壕で一人の補助看護婦から手当を受けていた。だが、助かる見込みがなかったため、その補助看護婦は「森井少尉が死ぬなら私もお供する」と語り、ほかの兵士を外に出した後で自決した。

 ちなみに、この女性は朝鮮人慰安婦だったが、戦争が始まるとともに補助看護婦として従軍していたのだった。梅澤隊長の部下であった関根清氏は、二人が壕に残る場面を確認しており、手記にこう書いている。[1,p249]

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 戦闘下、本部の壕を捜索した米軍により、自決していた二人を発見、少尉の階級章を、少佐と見まちがい、丁重に遺体を収容したのが伝わったものと思われます。
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『鉄の暴風』の執筆者は、現地調査もせずに、米軍から提供された情報をそのまま使って、机上で「住民自決命令」の神話を創作していたのである。


■2.神話の一人歩き

『鉄の暴風』が創作した「住民自決命令」神話は、昭和34(1959)年の沖縄タイムス編集局長・上地一史氏らによる『沖縄戦史』以降、様々な歴史書・戦記に繰り返し引用されていった。

 なかでも熱心だったのは岩波書店で、昭和40(1965)年の『沖縄問題二十年』(中野好夫、新崎盛暉著)、昭和43(1968)年の『太平洋戦争』(家永三郎著)、昭和45年(1970)年には大江健三郎の『沖縄ノート』と、立て続けに関連本を出版している。

 たとえば、家永三郎の『太平洋戦争』の昭和43(1965)年初版には、次のように書かれている。[1,p38]

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 沖縄の慶良間列島渡嘉敷島守備隊長の赤松隊長は、米軍の上陸に備えるため、島民に食糧を供出して自殺せよと命じ、従順な島民329名は恩納河原でカミソリ・斧・釜などを使い集団自殺をとげた。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 これでは軍が食糧を確保するために島民に「自殺」を命じ、「従順な」島民がその命令通り、自殺したということになる。「軍国主義に盲従して自殺した愚かな島民」と見なされては、亡くなった人々も浮かばれまい。


■3.「渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました」

「住民自決命令」神話の一人歩きに異を唱えたのが、昭和48(1973)年に出版された曽野綾子氏の『ある神話の背景』だった。この著書がそれまでと大きく違う点は、曽野氏自身の次の発言に現れている。[1,p42]

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 もとより私には特別な調査機関もありません。私はただ足で歩いて一つ一つ疑念を調べ上げていっただけです。本土では赤松隊員に個別に会いました。・・・

渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました。大江氏は全く実地の調査をしていないことは、その時知りました。
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 当時は、集団自決の現場に立ち会った村や軍の関係者が多く生存していた。曽野氏はその一人ひとりに直接会い、話を聞いた。赤松隊長の副官・知念朝睦氏が軍命令を明確に否定し、また安里喜順・元巡査が「赤松氏は自決命令など出していない」と証言したのも、曽野氏による直接取材によってであった。

 集団自決の現場を知る人々は、曽野氏の取材によって、ようやく真実を語る機会を与えられたのだった。


■4.つき崩された「住民自決命令」神話

 沖縄県の戦史研究家、戦記作家たちは、曽野氏の実地調査を支持した。先に発言を引用した県立沖縄資料編集所の大城将保氏は、曽野氏の『ある神話の背景』は、「同書(『鉄の暴風』)の記述の誤りを逐一指摘しているが、ほとんど指摘の通りである」と指摘している。[1,p46]

 また仲程昌徳(なかほど・まさのり)氏は著書『沖縄の戦記』でこう述べている。[1,p48]

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 ルポルタージュ構成をとっている本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって、命令されたという集団自決神話をつき崩していくことであった。

そしてそれは、たしかに曽野の調査が進んでいくにしたがって疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて、「命令」説はよりどころを失ってしまう。すなわち、『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改訂をせまられたのである。
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 家永三郎もさすがにプロの歴史家としてこうした動向を無視できず、『太平洋戦争』の平成14(2002)年に岩波現代文庫から出た版では、先に引用した箇所を次のように書き換えている。[1,p53]

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 島民329名が恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い凄惨な集団自決をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない。
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 負け惜しみたっぷりの口調であるが、史実なしに推定でものを言えるのは、せいぜいこの程度であろう。『沖縄問題二十年』も絶版となった。

 曽野氏の実地調査に基づく追求は、「住民自決命令」神話のひとり歩きを止めたのである。


■5.大江氏と岩波書店を相手に訴訟

 しかし、こうした動向の中で、大江の『沖縄ノート』だけは改訂されることもなく、版を重ねていった。また教科書にも「軍命令で集団自決」などといまだに書かれていた。

 この事態に、平成17(2005)年、座間味島の元守備隊長・梅澤裕氏と、渡嘉敷島守備隊長の赤松嘉次氏(昭和55年死去)の弟・秀一氏が、大江氏と出版元の岩波書店に対して、『沖縄ノート』の出版差し止めと損害賠償3千万円の支払いを求めて、大阪地裁に提訴した。赤松氏は手記にこう書いていた。[1,p93]

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 私には大学にいっている娘がある。この事件を知って「お父ちゃんは軍人やった。軍人なら、住民を守るのが義務じゃないか」と私に質問したことがある。・・・

 いまさら弁解がましく当時のことを云々するのは本意ではないが、沖縄で“殺人鬼”なみに悪し様に面罵され、あまつさえ娘にまで誤解されるのは、何としてもつらい。
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 沖縄で“殺人鬼”なみに面罵されたというのは、昭和45(1970)年3月、渡嘉敷島での合同慰霊祭に出席するために沖縄を訪れた際に、空港で抗議の洗礼を受けたことを指す。

 また、これは自分たちだけの問題ではなく、教科書に、軍の命令・強制という記述が堂々とまかり通っていることを知って、日本の子供たちの将来にかかわる問題なので、裁判に訴えようと決意した、という。[1,p97]


■6.「自決命令については、その真実性が揺らいだといえるが」

 平成20(2008)年3月、大阪地裁は二人の訴えを退け、さらに高裁、最高裁も上告を棄却した。

 高裁判決では、「その後公刊された資料等により、控訴人梅澤及び赤松大尉の(中略)直接的な自決命令については、その真実性が揺らいだといえるが、本件各記述やその前提とする事実が真実でないことが明白になったとまではいえない」というものであった。

 この判決の論理は異様である。たとえば、あなたが大江の本で「人殺し」呼ばわりされて、家庭や職場でひどい目にあったとする。

 そこで大江を訴えたとしたら、被告である大江側が「人殺し」呼ばわりが正当であることを証明しなければならない。大江氏がそれを証明できなければ、根拠もなく「人殺し」呼ばわりしたということになり、賠償責任が生ずる。「人殺し」呼ばわりされた被害者のあなたが、人殺しでないことを証明する責任はない。

 裁判所がこんな倒錯した論理を使ってまでも、大江側を無罪としたのは、ノーベル賞作家への配慮が裁判官を萎縮させたからだ、との見方も出ている。

 ただ事実関係については、高裁判決においても、隊長命令は「証拠上、断定できない」としている。史実として「証拠上、断定できない」のであれば、「日本軍が住民自決命令を出した」などという記述は、少なくとも教科書において許されることではない。

 この裁判の過程で、文科省も、歴史教科書での本事件の記述に関して、「軍が命令したかどうかは明らかとはいえない」との検定意見をつけ、各教科書で、軍の命令で住民が自決したとの断定的な記述は、不十分ながらも訂正されていった。[b]


■7.反対集会の参加者数では事実を抑えこめない

 こうした動きに抵抗の狼煙をあげたのは、やはり沖縄タイムスだった。平成19(2007)年の1年間だけで、100本以上もの「住民自決」関連の記事を掲載した。社を上げて神話を護ろうとした感がある。

 同年9月29日には、沖縄県宣野湾市で教科書検定に関する抗議集会で開かれ、朝日新聞が一面トップで「『集団自決強制』削除、沖縄11万人抗議」と報道した。

 この報道に、当時の福田首相は「随分たくさん集まったね。沖縄県民の気持ちは私も分かりますよ」と発言。これを受けて、文科省も「(訂正申請が)出てきたら、真摯に対応したい」と教科書各社に訂正申請を促すような発言までした。

 実際の参加者は沖縄県警の推定で4万人強、集会写真によるカウントでは2万人程度とされている。それを「11万人」と報道するあたりに、事実をねじ曲げても主張を通そうとする、神話の創作者たちと同じ姿勢が垣間見える。

 いずれにせよ、「住民自決命令」が事実でないことを地道に検証しようしてきた曽野氏以降の動きを、マスコミと数の力で抑えこもうとしたのである。

 一つの出来事が実際にあったかという問題は、曽野氏が丹念に当事者の話を聞いて回ったように、あくまで事実調査をもとに追求すべきであり、反対集会の参加者数で決まるものではない。


■8.プロパガンダを見破る力

 以上、「住民自決命令」という神話が、どう創作・流布され、またそれを疑う人々がどう戦ってきたか、経緯を辿ってきた。史実としては、すでに歴史家の家永三郎氏が負け惜しみたっぷりながらも、自著において軍命令説を撤回した点から見ても、ほぼ決着がついた、という所であろう。

 残る問題は、教科書や様々な出版物を通じて、長年流布されてきた「住民自決命令」というプロパガンダから、いかに多くの国民が目覚めるか、ということである。

 そのプロパガンダの象徴が、大江健三郎の『沖縄ノート』である。60年以上前の神話をそのまま流布し、その後の多くの証言者の言い分も、また実地研究の進展も一切黙殺して、堂々と版を重ねているのは、さすがにノーベル賞作家である。自説を撤回した歴史家などとは格が違う、というところか。

 逆に言えば、この『沖縄ノート』は、戦後、長らくわが国を支配してきた左翼プロパガンダの記念碑的作品なのだ。

 こうした作品は末永く版を重ねてもらい、学校の総合学習などで曽野氏の『ある神話の背景』と読み比べてみれば、生徒たちも事実を追求する歴史研究と、虚構に基づくプロパガンダとの違いを、実例を通じて学ぶことができるだろう。

 国民が自らの意思をもって政治的選択を行うという自由民主主義体制を守るには、国民一人ひとりがプロパガンダを見破る力を鍛えなければならない。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(722) 沖縄戦「住民自決命令」(上)~ 神話の創作者たち
「住民自決命令」の神話を創作した沖縄タイムスは、米軍の御用新聞だった。
http://archive.mag2.com/0000000699/20111106080000000.html

b. JOG(537) 何を目指すか、沖縄タイムス
 反日意識を煽り、米軍の撤退を要求する、その先にあるものは?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h20/jog537.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 鴨野守『あばかれた「神話」の正体』★★、祥伝社、H21
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4396613326/japanontheg01-22/