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「占領憲法下の祖国」斎藤忠(昭和55年)  つづき

2011年11月03日 23時02分08秒 | 日本人と憲法

 日本国憲法第九条の最初の案文は、日本占領軍最高司令官ダグラス・マッカーサー自身、ペンを執ってこれを草したものである。「国家の主権的権利としての戦争を廃止する。日本国は、国家の紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する」という案文は、明らかに、最初の起草者たる占領軍最高司令官に、自衛の手段としての戦争をわが日本に禁止する意図が在ったことを立証するものであらねばならない。

九条前段の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とある条文に拠って、「これは国際紛争解決のための手段としての戦争、或いは武力行使をこそ禁止するものではあれ、それ以外の目的のための武力行使は、これを禁ずるものではない」と主張された人々もあったようだ。現にまた、そのような解釈がおこなわれていることも、充分に承知している。

この条文によるならば、「国権の発動たる戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」は、ともに国際紛争解決の手段としては、これを放棄するのである。その放棄は、「国際紛争を解決する手段としては」という但し書きを伴う条件付き放棄だ。したがって、国際紛争解決のため以外の目的のためにこれを行うにおいては、戦争も、武力行使も、一向に違憲ではないという解釈も、当然生じうる道理である。

第九条のに本文が意味するところはまさしく、その通りとも言えよう。だが、日本国憲法は、祖国の文字文章をもって起草されたものではない。この憲法は、その最初の段階において、英文をもって草されたのだ。

異邦の言語で起草された憲法
この戦後憲法が、まず異邦の言語文章をもって草され、のちに初めて、多くの改変は経たにせよ、これに相当する自国の文章による本文を持ったということは、日本とその国民にとってまことに言おうようなき不幸であった。そしてその不幸は、上記の第九条前段の英文として今日流布するものと、日本の文字文章によるその正文とのあいだの文意の重大な相違にもあらわれて来るのである。日本国憲法第九条の英文として今日流布するものの意味するところは、日本文による正文の解釈から引き出しうる結果とは、はなはだしく異なるものである。
少なくとも虚心坦懐にこれを読む限り、さきに述べたような日本文の意味は、この英文からは出て来ない。
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
尋常の感覚をもってこれを読むならば、接続詞andによって結ばれた2つの句、war as a sovereign right of the nation と、the threat or use of force as means of settling international disputes とは、文法的に同格であって、ともに renounce (放棄する)という他動詞の目的をなすものだ。

すなわち、日本国民は、正義と秩序に基く国際平和を衷心より希求するがゆえに、「国の主権的権利としての戦争」を放棄し、また「国際紛争解決の手段としての武力による脅威または武力の行使」を放棄するのであって、「国家の主権的権利としての戦争」および「武力による脅威または武力の行使」を国際紛争解決のための手段としては放棄するのではない。

したがって、この一条は、前段と後段の日本文のあいだに、甚だ奇妙な喰い違いが見られるのだ。――戦争の放棄は、第一項では、日本文に従うならば条件つきの放棄である。だが、第二項では、無条件でこれを放棄しているのだ。
同じく一つの条章のなかで、第一項は条件つきの戦争放棄を規定し、第二項は無条件の戦争放棄を宣言する。かりそめにも国の基本法において、このような矛盾撞着が許されるのか?

繰り返していう。英文に従うならば、放棄されるものは「国の主権的権利としての戦争」であり、また「国際紛争解決のための手段としての武力行使」である。決して、これらのものを「国際紛争解決のための手段」としてのみ、条件付きで放棄するのではない。
放棄は、無条件の放棄である。そうでなければ「永久にこれを放棄する」という強烈な語勢は出て来ない。
そして、禁止さるべき「国の主権的権利としての戦争」の中には、草案執筆者の意図に従うならば、自衛のための戦争を包含していたのである。

没却し得ぬ制定の事情
およそ法の条章を解釈するにあたっては、いろいろの態度があろう。その成立の歴史的事情、政治的背景を一切顧慮することなく、ただ条文のうえにあらわされたところだけを、論理的に分析、解釈する態度も、もとよりあり得ることである。 

だが、国家・民族の存亡の運命にも重大な影響を及ぼし得るこのような基本法の、このように重要な条文を解釈するにあたって、この制定の歴史的事情をことごとく無視し没却することは、果たして正しいか?如何に故意に無視してみたところで、出生の歴史的事情は本質的にこの憲法の性格を決定し、機能を左右せずにはやまない。

 実証された非現実性

これは、反対の立場より見るならば実に、日本国憲法の「非現実性」を立証するものなのである。世界の憲法に他に例を見ぬ、憲法と現実の遊離背反を、われわれは此処に見る。

不幸にも、日本国民は早くもこの矛盾に慣れてしまった。だが、これを放棄することは、自衛隊のために悲しむべきことであるばかりではない。これはやがて、国民の間に国法軽視の警戒すべき風潮を生むのだ。ひいては、国法を無視して顧みぬ禍いの因を醸成するに到ろう。

たとえまた、この憲法の解釈を曲げて日本国憲法が自衛の戦争を認めることを確認し、自衛隊の存在が憲法に背反するものに非ざることを強弁してみても、禍はなお終わらない。国内の左翼勢力はもとより言わず、彼等を支持する国外の勢力は、あくまでもこの規定を根拠として日本の自衛措置を攻撃し、日本が自身の安全のために採るあらゆる集団安全保障の方法に執念深く反対し続けるであろう。

すでに国会の批准を経た安全保障条約さえも、違憲の存在として、「即刻に廃棄せよ」と主張する。彼らは、東西対立の続く限り、彼らが世界革命の野望を放棄せざる限り、必ず、米国の占領政策が残したこの重大な過誤を利用して、日本がとろうとする一切の防衛の努力を拒否するであろう。
占領軍の残した日本国憲法は、かくて、永く国論の分裂と、これに乗ずる外国勢力の内政干渉の禍根を残すのである。 

陸海空軍その他の「戦力」とは?
自衛隊が「戦力」であるか否かという論議も、われわれには、甚だ滑稽に思われる。
現に存在するこの国に自衛隊というものが、陸・海・空の三部門を含む軍隊であることは疑いをさしはさみ得ぬ事実である。その前身である保安隊、警備隊はもとより、朝鮮戦争の勃発とともにあわただしく設けられた警察予備隊すらも、その本質は軍隊であった。

だが、この憲法が保有を禁じているのは、そのような武力だけではない。
In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
すなわち、第九条後段の規定は、陸・海・空三軍の保持よりも先に、他の一切のウォー・ポテンシァルの保有を禁じているのだ。

それならば、その言うwar potentialとは、何であろうか?
日本語で普通にいう「戦力」という語が表す概念は、war potentialとは甚だしく相違するのである。

対戦前の旧時代の軍事常識に立って考えてみても、たとえば商船隊のごときいわゆる「予備海軍」であって、何者がこれを見ても、厳然たる戦力要素であることは疑うべくもない。

重化学工業、重工業、精密機械工業――いずれも、もとよりウォー・ポテンシァルである。交通・通信の能力もまた同様。まして、超総力戦の時代とも言うべき今日、ウォー・ポテンシァルは、人間のほとんどあらゆる営為、あらゆる能力を包括すると考えなければならない。食糧生産の組織も、国民結合の原理も。――教育機関も、漁船隊も広報宣伝の機構も、ことごとく広義のウォー・ポテンシァルに他ならない。

そもそも、日本国憲法第九条における戦力放棄規定の根底となったものは先に述べた「ポツダム宣言」の降伏条件にあらわれた「武装の完全なる剥奪」である。この降伏条件は、第一に「国軍の解体」である。そして第二には、かりそめにも戦争のための再武装を可能ならしめ得べき一切の工業力を奪うことであった。これは、ワイマール憲法における第178条の規定と本質を同じくするものである。

このドイツ戦後憲法は、上の条項において、「ベルサイユ条約規定の効力は、この憲法によって妨げられるものではない」ことを規定している。結局は、敗戦の結果を恒久化して、永くドイツを再び起つ能わざる隷従の境遇につなぎ留めようとしたもの。当時のドイツ国民が、いかに遣るかたない屈辱の思いと悲憤の念をもってこの一条の規定を見つつあったかは、われわれが今も記憶するところだ。

憲法制定の記念日に、国民の多くは故意に黒布を竿頭に垂らした弔旗を門に掲げた。憲法に対する非難攻撃のあまりの激しさに堪えかねて、ドイツ国会はついに「憲法擁護法」を制定して、憲法に対する国民の非難を厳しい罰則をもって抑圧するに到った。


その下において生くる能わざる憲法
交戦者としての国の権利を否認し、自衛の力たり得べき一切のものの放棄を命令し、あらゆる侵略の前に自ら衛るための最後の措置さえも、その国民に拒む。これを国家自滅の憲法と呼ぶことは、不当であろうか?

およそ法は、国家の存立を保持し、民族をして生き得しめんがためにこそ存在するものではあれ、国家の生命を枯渇せしめ、民族の存在を抹殺せんがためにあるのではあるまい。

自衛と戦力の問題のほかにも、日本国憲法は幾多の疑問を包蔵している。
国会をもって国権最高の機関とする制度と、議院内閣制度の併用は、この憲法の規定するところである。

これは、当然の結果として、数の横暴を許すに到るのである。多数党専制の危険は、実にこの憲法の欠陥に胚胎すると言って差支えあるまい。まして現在の日本は、相背馳する世界観を抱く二つの勢力が真っ向から対立し、仮借ない闘争を展開する争いの場である。多数党は「数」の威力のみに頼って少数党を圧服しようと試み、少数党派民主主義の鉄則を一切無視して、暴力に訴えても多数党の主張を阻止し、爆砕しようとする。

数において明らかに敗れながら、なお一切の決議を否認し、自党の反対にもかかわらずなお成立した法案は、あくまでもこれを拒んで、その成立を否定する。このような宥和なき対立を国会に持ち込み、民主主義の名において仮借なき闘争を展開するのである。しかも、これを調整すべき何らかの方法をも、日本国憲法は規定していない。

日本崩壊の禍因を内包する「トロイの木馬」
この憲法はまた、その国会に二院制度を規定している。それにもかかわらず、この憲法によれば、上院は何らその特殊性を発揮できるようにはなっていない。――上院もまた、下院と全く機能を同じゅうする。結局は、同一のものを二つ併せ並べたに過ぎない。

果たせるかな、参議院もまた、組合のボスと官僚の古手の集合所となり果てた。国会は、こうして両院を挙げて、暴力と破壊の場と化し去ろうとする。
いずれにしても、これは日本崩壊の禍因を内包する「トロイの木馬」として日本にあたえられたものであった。

日本国憲法はこの意味でも、さきに言及したワイマール憲法と共通するものを持っているのだ。
フーゴー・プロアスによって起草されたこのドイツ憲法は、実に、ドイツの徹底した共産化と、やがてこれに続いたナチズムの勃興の原因を、深くその本質の内に胚胎していたのである。

日本国憲法を起草するにあたってワイマール憲法を参考にしたことは、この任務にあたった占領軍総司令部の人々も、はっきり書き残している。だが、このかたの憲法の欠陥は、ヨーロッパではすでに試験ずみのものであったのである。


「占領憲法下の祖国」斎藤忠   

2011年11月03日 22時30分42秒 | 日本人と憲法

昭和55年に書かれた「占領憲法下の祖国」という斎藤忠(国際政治評論家)氏による評論の一部を転載しました。現行憲法が法理論上ありえないことがよく分かります。

ヘーグ陸戦法規違反の暴挙
如何に軍事占領といえども、被占領国の文化・伝統は、あくまでもこれを尊重しなければならない。如何に軍政を行うとも、被占領国の法令・慣習は、ほしいままに改廃することは許されるものでは断じてない。


ヘーグ陸戦条規は、その第三款、「敵国の領土における軍の権力に関する規則」の第四十三条に、「国の権力にして事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的支障なき限り、占領地の現行法を尊重し、能う限り公共の秩序及び生活を回復確保するため、施しうべき一切の手段を尽くすべきものとす」と、明確に規定している。


占領軍がわが日本において行ったことは、軍政に許されうる範囲をはるかに逸脱するもの。いうまでもなく、陸戦法規に違反するものであったのだ。
おおよそ法の制定は、自由にして冷静な意思を保有し得て、はじめて行いうるものである。国家に完全な主権が存在することと、国民に完(まった)き意志の自由が保障されることこそ、その不可欠の前提であらねばならない。


旧帝国憲法の第七十五条が、摂政時代に憲法を改正することを禁止しているのも、もとより、その故である。ブラジル連邦の憲法も、また、同じ理由によって、戒厳令下に於いて憲法を改正することを禁じている。
フランス第四共和国の憲法もまた、かりそめにも占領期間中にこれを改廃してはならぬことを、厳に規定している。乃ち、その第九十四条によれば、本国領土の 全部又は一部が外国軍隊の占領下にある場合は、憲法改正のいかなる手続きも、これに着手しもしくは継続することを許されないのだ。


だが、日本国憲法は、敗戦後の占領下に、事実における亡国の状態において、制定され公布された。
これが、わが国会の審議を経たものであることは、たしかに事実である。だが、当時の日本は、精神的にも、敗戦直後の言おうようなき混乱と動揺のただ中に あった。形においては、日本国会は存在した。だが、主権は日本国民には無かったのだ。――日本は、占領軍最高司令官の事実における軍政下にあったのであ る。
しかも、国民のうち、三十万にのぼるおびただしい人口は、戦争の責任を問われて、戦勝国の一方的な裁断によって、祖国の運命に関する一切の発言の自由も、権利も、奪われていた。追放の範囲は、自治体機構の最末端似までも及んだのである。


審議は、二十万の占領軍の銃剣の威嚇のもとに行われた。このような条件における審議に、どうして、国民の自由な意思が表明され得よう?
わが日本に後れて、同じように、占領軍によってその憲法草案を与えられた西ドイツは、このような環境のもとにおける憲法の受諾を、断固として拒否した。ドイツ国民自身の自由意志によってその制定をおこない得る日までは、「憲法」というものを所有することを拒んだのだ。


仮に西ドイツ基本法を定めて、占領下にある歳月の間、これをもって憲法に代えるという態度をもって一貫した。これは、真に憲法を尊重した敬服すべき見識であり、また勇気であったというべきであろう。


だが、日本の場合には、西ドイツの場合には存在せぬ責め道具があった。
「もし日本国会にしてこの憲法を拒否するにおいては、天皇の御身分も、或いは、これを保証し得ぬであろう」という。これは、日本国民にとっては、断じて抵抗することを許されぬ暗黙の恫喝であったのだ。
更に、審議の結末は、当然、占領軍最高司令官の裁決・承認をへなければならなかった。最後の決定権は、もとより、占領下の敗戦国民にはなかったのである。

国体原理の抹殺

国の交戦権を否認し、一切のウォー・ポテンシャルの保有を拒否した前代未聞の憲法は、このようにして成立した。
およそ憲法は、国の存立のあり方に関する国民意思の表現であらねばならない。国民精神の象徴でさえもあらねばならない。しかるに日本国憲法は、その国民の意志感情とは全く無関係に、わずか一握りの占領軍関係者によって起草されたのである。
(中略)


おなじく、この四十余年の間に新しく制定されたものに、ソビエト連邦の憲法がある。スターリン憲法と呼ばれるもの。この憲法は、1936年12月に発布さ れたが、その草案の作成には、実に一年にわたる歳月を費やして、あらゆる慎重の用意を尽くしているのである。しかも、起草を終った憲法草案は、ただちにこ れをソビエト大会の議に付する措置をとらなかった。(中略)


だが、わが日本国憲法は、実に、わずかに数旬にも充たぬ短時日のあいだに、事もなく作成された。かりそめにも国の基本法たる憲法がである。
それも致し方ない。ただ、問題は、その内容である。たとえ形式のみにせよ。日本国憲法は、旧帝国憲法第73条の憲法改正手続きによって成立したものである。この憲法の上論は大日本帝国憲法のもとにあることを是認し、日本国憲法が大日本帝国憲法の改正によって生まれたものであることを明らかにしている


それにもかかわらず、その天皇統治の原理をもって貫かれている大日本帝国憲法の改正によって生まれたはずの戦後憲法は、「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」ことを言明しているのである。


日本国憲法の大日本帝国憲法における関係は、たとえば第一次大戦後のドイツに於けるワイマール憲法の旧ドイツ帝国憲法に対する関係と全く異なるのだ。ワイ マール憲法は、ドイツ帝国憲法とは何らの関係もない全くの別個の憲法であった。皇帝はすでに国外に逃れ、ドイツにおける君主制は、つとに廃止されていた。 ドイツは全く新たな共和国としてうまれたのである。


だが、日本国憲法は、さきにも言うように、大日本帝国憲法第73条の改正手続によって生まれたものである。日本国憲法自体、国家及び国民統合の象徴たる天皇の在位される憲法である。この憲法のもとにおいて、国民をして、にわかに「主権が国民にある」ことを宣言せしめ、これを前提として民約憲法を確定する。これは、法理上あり得ることか?


「そもそも国政は国民の厳粛なる信託によるもの」と言い、「その権威は国民に由来し、その権利は国民の代表者がこれを行使する」と言っている。これは、もとよりアメリカン・デモクラシーの本質である。


しかしながら、国政がいかなる権威にもとづくか、また、何人が如何なる方法によってこれを行使するかは、もとよりそれぞれの国の歴史、伝統、国情によって全く異なるのである。その形成は、悠遠な歴史の流れの中においておこなわれた。いわゆる「不文の憲法」は、厳として、すでに久しく存在していたのだ。


アメリカン・デモクラシー、もとより、米国の歴史・伝統を根拠とし、背景とする一つの真理であるには相違ない。だが、これをもってただちに「人類普遍の原理」となし、歴史と伝統を全く異にする他の国に俄に適用して「これに反する一切の憲法・法令および詔勅を排除する」
というに到っては、言語道断という他に言葉はあるまい。
上記の宣言を含む「日本国憲法前文」は、実に、占領軍総司令部が、その原案を日本政府に交付するにあたって、「一字一句の修正をも許さぬ」旨を指示したものである。

交戦権否認の規定

「憲法」は変った。だが、憲法の根基たる歴史的統一体としての日本国民の存在は、厳として変らなかったのである。
日本は、敗戦によって、その領土を失った。だが、そのために、日本国民の統一性は却って増大し、深化した。「日本国土に居住する日本民族」は、「日本国民」と同義になったのだ。こうして日本民族は、そのまま一国民として、現に歴史的統一を保持する。


それにもかかわらず、占領軍は日本弱体化のための政策の根幹として、この国の憲法を廃棄し、これに代えるに彼らの「日本国憲法」を以ってした。これが歴史的統一体としての日本国民の実体と如何に相反し、相剋するものであるかは、おのずから明らかであろう。


まして、およそ独立主権国家の憲法に於いて国の交戦権を否認し、国家の自衛をみずから放棄したもののある例を知らない。
一国の憲法に戦争の放棄を規定した例は、今日までも、決して皆無ではない。古くは、1848年のフランス憲法にも、すでにこの種の条章を見るのである。 1931年のスペイン新憲法にも、また、これに類似する条項は存在する。さらに、1934年のブラジル憲法、1935年のフィリピン憲法、いずれも一種の 戦争放棄憲法だ。

しかしながら、こられはただ、侵略戦争を行わぬことを定めたものである。あらゆる戦争の場合を含めて、国の交戦権をことごとく放棄することを宣言した日本国憲法のご時は、古今東西に絶えてその例を見ない。
まして、戦力の一切を放棄する規定にいたっては、まことに前代未聞のことである。


たとえば、イタリアは、わが国と同じく第二次大戦において徹底的な敗戦を経験した国である。だが、そのイタリア共和国の、ひとしく戦後に制定された憲法ですらも、戦力の保持は明白にこれを規定しているのだ。
三軍の編制に、数量の制約こそは設けている。だが、一切の戦力を放棄するなどという奇怪な規定は、決して包含してはいないのである。


さきに言及したソビエト連邦憲法――わが国のインテリのある者は、平和を愛する人々の唯一の祖国のようにさえも言う、そのソビエト社会主義共和国連邦の新 憲法すらも、なお、祖国の防衛は「ソ連邦各人民の神聖なる義務」であると明白に規定している。その大32条は、全国民的兵役の義務を「国法の定むるとこ ろ」と規定し、さらに「労働赤軍における軍事勤務は、ソビエト社会主義共和国連邦人民の名誉ある義務である」と断言している。また、第133条も、その前 段において、「祖国の防衛は、ソビエト社会主義共和国連邦各人民の神聖なる義務」と言い、また「祖国に対する反逆、宣誓違反、敵国への内応、国家兵力の毀 損間諜行為は、最も重大なる罪悪として法の峻厳を尽くしてこれを罰するであろう」と宣言しているのだ。


TPP参加で日米同盟強化にはならない。却って支那帝国主義の膨張を利するだけ。

2011年11月03日 21時20分53秒 | TPP

 蘇る日本! 日本を良くすることができるのは、わたしたち日本人です からの転載です。とても論理的に納得し易く、わかり易い文章です。TPP賛成派の、TPPは対中国網だとか、日米同盟の強化のためだとかいう主張には、無理があることがよく分かります。


転載開始

 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)への参加の是非について国論が二分しています。
 最初に私の基本的立場は、TPP参加に反対であることを述べておきます。
 
 
 
 

 TPP参加の賛成論の根拠としては、いくつか挙げられています。

 
                                                                 1,日米同盟の強化のため(対中包囲網の形成、あるいは対中戦略として)、て)、   
2,我が国の内需が低迷する中で、外需(アジア・環太平洋の内需)を取り込み経済成長するためめ                                  
3,外圧を利用して、国内の弊害(農業、医療、その他既得権益や不合理な経済制度)を改革するためめ                                    
4,早目にTPPに参加して、アジア・太平洋の自由貿易経済圏のルール作りに加わるためめ                                           
                                                   
 
 
 いずれも、一見もっともらしい意見ですが、私はいずれの理由についてもおかしいと思います。
 
 
 しかし、予め申しておきますが、私は幼稚な反米感情に流されてTPP反対を唱えているわけではありません。情緒や感情に流されるのではなく、支那帝国主義の膨張世界的大不況という世界情勢を冷静に踏まえたうえで、ご皇室の弥栄を祈り、我が国のみならず世界の国々の平和と繁栄を心から願って、素人ながら我が国はいかにあるべきかを真摯に考えた末、TPP参加に反対すべきだと考えます。
 
 なお、私は素人ですので、政治、経済、外交、軍事、いずれも専門家の主張を頼りとして考えるほかありません。
 専門家の先生のネット言論(チャンネル桜、AJER、超人大陸など)や著作でいろいろ学ばせて頂いています。 国際情勢については、主に岡崎久彦、藤井厳喜、中西輝政、江崎道朗、樋泉克夫、青山繁晴、関岡英之、宮崎正弘、田母神俊雄、平松茂雄、副島隆彦、故・会田 雄次の各氏に学び、経済問題については、三橋貴明、丹羽春喜、中野剛志、東谷暁、渡邊哲也、上念司、田村秀男の各氏に学ばせて頂いています。(※副島隆彦 氏はゴリゴリの左翼で偏った考えも多々ありますが、米国政治思想などについては謙虚に学ぶべきものがあると思います。)
 また、大東亜戦争を戦地(支那、マレーシア、シンガポール、インドネシア)で戦った戦中派の先生に、政治・歴史・外交などについて基本的な考え方を学ばせて頂きました。戦後のお花畑的思考で国際政治を見ることはありません。
 また、先日急逝されました敬天愛人様を始め、保守系ブログの諸先生方・諸先輩方に実に多くのことを日々学ばせて頂いております。
 そして、思想的バックボーンとしては谷口哲学に基づいています。とりわけ、経済問題を考える際には、谷口雅春先生が提唱された生長の家経済理論(主 に『生命の実相』第2巻、『生命の経済-無限供給の原理』、近衛首相への建白書『軍事紙幣を発行せよ』、「戦時経済のユートピア」『日本を繞るユダヤ問題 特集』など)を頼りとし、私なりに咀嚼して意見を書かせていただきたいと思います。もっとも、私はあくまで谷口哲学を学びつつある末端の信徒であり、まだ まだ深く体得できていないところが多々あろうかと思います。私の不理解な点がありましたら、ご教示いただければと存じます。
 
 
 


 

 
 
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 前置きが長くなって恐縮ですが、本題に入ります。
 まず、「①日米同盟の強化のため(対中包囲網の形成、あるいは対中戦略として)、TPPに参加すべきだ」とい う主張を見かけますが、TPPによりアメリカが日本から経済的利益を得たところで、それが日米同盟を強化することにはならないと思います。なぜなら、日米 同盟はそもそも軍事同盟であり、日米両国の国家関係は軍事的関係によって第一義的に規定されています。それをあべこべにアメリカに日本の経済的利益を吸わ せたところで、一体どう日米同盟が強化されるというのか、理由が全く理解できません。
 日米同盟を強化したければ、まずもって自らの軍事力で自国の領土・領海(尖閣諸島、北方領土、竹島、対馬、沖縄、その他島嶼を含む)を護る覚悟をしっかりと明示すること集団的自衛権の行使を認めること基地問題を解決すること武器輸出三原則の正常化が先決であると思います。
 アメリカにいくらお金を上げたところで、日本自身が血を流して領土・領海を護る覚悟がないのに、アメリカが日本を護るということなどありえません。また日本がアメリカにいくらお金を上げたところで、戦争が起こった際に、米軍が攻撃されているのに、日本軍(自衛隊)が集団的自衛権を行使して、同盟国(=アメリカ)を援護して共に戦わない限り、日米同盟は崩壊してしまいますアメリカにとっては、TPPで得られるようなお金よりも、ちゃんと使える基地があることの方が軍事的に極めて重要です
 よって、TPP参加により、日米同盟が強化されるという考えは、本質を突かない議論であり、むしろ、ちょっと きつい言い方かもしれませんが、ほとんど妄想に近いのではないかと私は思います。日米同盟はあくまで軍事同盟であって、単にお金をアメリカにあげれば守っ てくれるという話ではありません。むしろ、我が国が戦う覚悟と戦う態勢がきちんできているかどうかの方が、現実の日米同盟を強化するのに一番重要なことであるはずです。本質的に言って、日米同盟を強化するのは、決してお金の話ではなく、我が国の軍事的決断の問題であるはずです。「TPP(経済協定)により日米同盟が強化される」という見方は、かなり本質から外れた議論ではないかと思います。
 
 
 「いやそうではない、アメリカに経済的利益を献上し続けて(有体に言えば、アメリカの植民地となって)アメリカに日本が必要だと思わせればよい。」と思う方もあるかもしれませんイメージ 2が、 日本がアメリカに搾取されて、このままデフレ不況をあと10年でも続けていけば、日本の経済力はどんどん衰える一方で、いずれアメリカが日本をしゃぶりつ くした後は、もう魅力の亡くなった日本など護ろうとしないのではないでしょうか? たとえが不適切かもしれませんが、遊び相手の女として楽しむだけ楽しん であとはポイということになりかねないと危惧されます。
 
 そんな卑屈な同盟関係ではなく、かつての日英同盟のように、なるべく同盟国の尊敬を勝ち得るような同盟関係を築いていくべきではないかと思います。尖閣諸島を始め、我々は命を懸けて祖国を護るという覚悟を示し、また実際に護り抜くだけの軍事力をなるべく自力で持とうとしてこそ、同盟国の信頼と協力を勝ち得るものと思います。いくら日本の国内市場で米国資本に儲けさせてやったところで、それが本質的に日米同盟を強化するようには私には思えません。やはり、同盟関係は第一義的にお金の問題なのではなく、精神の問題なのだと思います。
  
 
 
 また、日米同盟の強化のためとはいっても、その目的はもちろん我が国の国防のためであります。
 北朝鮮、ロシアの問題もありますが、とりわけ支那帝国主義の膨張にどう対処するかが一番重要な問題です。
 「だからこそ、日米同盟が重要なのだ!」という声が聞こえてきそうですが、私も現状において日米同盟が我が国 にとって死活的に重要であるということに何ら異論はありません。資源を求めて、国内矛盾のはけ口を求めて、尖閣諸島や沖縄に対していよいよ牙をむき始めた 支那帝国主義に対処するには、どう見ても日米同盟が死活的に重要であり、強大な軍事力で支那を抑止することが極めて重要です。
 しかし、支那は馬鹿な国ではありません。正面からの正規戦より、「超限戦」と言う言葉に象徴されるように、ありとあらゆる戦いを仕掛けて相手国を制しようとします。サ イバーテロ、金融危機、心理戦、宣伝戦(NHKを使った贖罪意識の植え込み、テレビ・新聞への買収工作)、経済戦争、投機戦争、土地買収(北海道、沖縄、 静岡、新潟、名古屋、仙台、池袋、麻布、沖縄、尖閣等)、ハニトラ、自衛隊・海上保安官などとの結婚(中国人妻)、東北地方など農村の日本人との結婚(中 国人妻)、日本への大量移民、支那人への数次ビザ発給(沖縄への移民?)、外国人参政権、自治基本条例、国防動員法・・・ありとあらゆる戦争手段を取ります。
 もちろん、日米離間は支那が仕掛ける最大の計略(伐謀)であり、我が国はこれを最も警戒すべきものであると思います。しかし、反面「日米同盟がしっかりしていれば、それだけで大丈夫か?」というと、支那が我が国に仕掛ける「超限戦」の現実を考えれば、日米同盟だけで対処できるとは言えない段階に来ていると思います。
 いくら日米同盟が強固であったとしても、たとえば昨今NHKが報道するように、我が国が”縮小する内需(国内 市場)”を補うために、支那人の大量移民を行い、外国人参政権が成立すれば、我が国は「民主的に」支那人に乗っ取られることになります。日米同盟を基軸に ハード面だけ強化しても、民主党政権が唱道するような「開国」をすれば、我が国は内部から崩壊し、支那に乗っ取られかねません。軍事力だけ見ていてはいけないという所以です。
 
 
 とりわけ、昨今懸念されるのが、我が国の経済の弱体化だと思います。土地買収、技術の買収、人材の買収・・・、次々に日本の富が支那資本によって買収されつつあります。
 例えば、今年4月に中国大使館が東京・港区(南麻布)の一等地(5677平方メートル)を日本の国家公務員共 済組合連合会(KKR)から60億円強で落札したことは皆さんもご記憶かと思います。こうやって支那は我が国の経済的弱体化をいいことに、我が国を乗っ取 ろうとしつつあります。私たち保守派が支那による土地買収にいくら異を唱えたところで、日本経済が成長しない限り、阻止するのが益々困難となってしまいま す。確かに新潟、仙台、名古屋などは保守派の努力により一時的に阻止することに成功しましたが、これは尖閣沖支那工作船事件の影響を大きく受けて、土地買 収にストップがかけられたという経緯があります。しかし、我が国の経済弱体化がさらに進めば、今後も同様に反中の世論が盛り上がり、支那による買収工作を 阻止できるかどうかは全く予断を許しません。
 
 それどころか、不景気で疲弊する地方の首長たちはすでに支那人観光客を大歓迎する時代です。大阪も、北海道 も、沖縄も、全国津々浦々で支那人観光客の誘致合戦をやっているような状況です。このような中で、土地買収の阻止だけでなく、人材の買収、技術の買収まで どうやって防ぐのか? とてもではないですが、一々これに抗議して阻止することなどできません。それよりも、我が国の経済を根本的に復活し、成長させることが重要です今や、台頭する支那を面前にして、我が国経済の大復活は、重要な国家戦略そのものになっていると言えます。その意味で、経済を軽んじることは、我が国の進路を大きく誤るものであると考えます。
 
 しかし、TPP参加はどう考えても、我が国の経済を成長するには全く足りず、それどころか、益々デフレを激化 させ、我が国を経済的に弱体化させること甚だしいと考えられます。我が国はTPPに参加して何か外国に頼ろうとするのではなく、まともな経済政策を取りさ えすれば、日本経済は必ず復活します。ちまたの財政破たん論、成長限界論などは極めて悪質な誤情報、誤誘導です。
 TPP参加がなぜ我が国経済にとって大きなマイナスであるか? いかにすれば我が国経済は復活するか? については次回以降の記事に続けて書かせていただきたいと思います。
 
 
 

転載元 転載元:  蘇る日本! 日本を良くすることができるのは、わたしたち日本人です