さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。さくらの花びらさんの引用された中西氏の視点は、たしかに的を射ているのかも知れません。東日本大震災での、日本人の冷静で秩序ある行動に、東南アジア、南アジアの人々は日本人はやっぱり変わってなかったという喜びをあらわした人がけっこういたようです。彼らは、いつか日本がもう一度毅然とした日本を取り戻すのを期待しているのでしょう。
阪神大震災の時も、やはり世界はその冷静さにびっくりしていました。そうした日本人の気質、それらをアメリカ占領軍は非常に恐れ、いつか日本が再び力を盛り返して復讐される事のないように、日本人の気質を改造することに力を注ぎました。その結果、かなり日本人の団結力や、愛国心を薄めたと思っていたのですが、それは平時のことでした。
今回の震災で、どれだけ多くの方が殉職されたでしょうか。自分一人が逃げれば、助かるとわかっていても、逃げずに職務を遂行された方が多かったのです。しかもギリギリまで我慢して、いよいよというときには逃げるというのでもすごいのに、その最後のギリギリでも逃げなかった人が多いのです。中には非番の警察官がわざわざ職務に出かけて亡くなっているのです。
大東亜戦争での特攻隊員も、このような人々と同じで、自分が力をつくすことで、自分の国の未来が変わると思えば、やらずにはおれなかったのでしょう。それくらい国を愛していたということだと思います。それを騙されたからとかいう人は、あまりに馬鹿にしすぎています。騙されなければ、人は命を捨てることはないというのでしょうか、そんなことはありません。また命を捨てるには国などのためには馬鹿らしいとでも言うのでしょうか。
私は昔、「天平の甍」という井上靖の書いた遣唐使を描いた小説の映画を見たことがあります。その時代、日本に仏教を持ち帰って、仏教によって人々の心を救おうと志す僧たちが、長い年月の苦労に耐えて何とか鑑真和尚を連れ帰ろうとする話ですが、その僧たちとは別に、お経を持ち帰ることで仏教を広めようと、経典を自分が大量に写経して、それに命をかけていた僧がいました。ところがその僧の乗った船は沈みそうになって、船員たちに少しでも荷物を軽くするために、その僧が長い年月をかけて写経した大量の経典を海に投げ込まれてしまいます。僧は何とか止めようとしても甲斐なく、絶望した僧は海に身を投げてしまいました。映画のなかで、この場面が一番印象に残りました。
この遣唐使の時代、日本人が少しでも自分の国を良くしようと、船旅の遭難率の多さにもかかわらず、海外の文化や教えを求めていく勇気と、その一生懸命な一筋の志にひどく感動したものです。古代の交通の不便な時代に、何かを伝え持ち帰ろうとすることの難しさ、その努力の上に、歴史が気づかれていったのだと、強烈な印象をあたえた映画でした。
この遣唐使たちも、皆自分の人生をかけて、国のために尽くした人々です。こうした先人の血のにじむような苦労の上に築かれた部分が確かにあるということを考えたら、その国をどうして愛さずにいられるでしょうか。
国賓として来日中のブータンのジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王(31)は17日昼、衆院本会議場で演説を行った。
国王はブータンの民族衣装で壇上に立ち、東日本大震災について
「大混乱と悲嘆をもたらしたであろう事態に、日本国民は最悪の状況下でさえ、静かな尊厳、自信、規律、心の強さをもって対処された」と述べた。
また「日本は歴史を通じてあらゆる逆境から繰り返し立ち直った」と日本をたたえた。(産経新聞)
我々はこの心強いお言葉をしっかり受け止め、これ踏まえて中西輝政氏の著書より以下引用いたします。
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戦後六十余年、中国や北朝鮮、ロシアといった「危ない国々」を隣人に持つにもかかわらず、日本が一度も攻め入られなかったのは、なぜでしょうか。
こういう議論になると、必ず「憲法九条のおかげだ」「いや、日米安保のおかげだ」という二元論になるのですが、実は全く別のところに、おそらくはもっと大きな理由があります。
戦後六十余年、日本が平和であり続けたのは、ひと言で言えば、「神風特攻隊」のおかげです。
原爆で本土に潰滅的な被害を受けた日本は戦争に負けました。通常、敗戦国は戦勝国に弱者とみなされ、見くびられ、後世にわたってつけ入られることになるのですが、日本の場合は、戦後も長い間、事情は違いました。
スターリン、毛沢東、金日成。日本を取り囲む国の独裁者たちは、おしなべて戦中世代です。
彼らにとっては、日本が原爆でひどい被害を受けたことよりも、無敵のアメリカ空母めがけて、神風特攻隊が決死の攻撃を繰り返したことの方が、鮮烈に記憶に残っています。「日本恐るべし」ということが、体感として染みついているのです。
戦後の日本は、実際にはGHQにほぼ骨抜きにされ、国家として大きく弱体化しました。しかし、彼らは、あまりにも特攻隊の記憶が強すぎて、日本の弱体化をそのままの姿として受け止められなかったのでしょう。いまはおとなしくしているが、日本はいずれ恐ろしい敵になるかもしれない、と思っていたのです。
たしかに日本国内では「憲法九条」を掲げて「もう戦争はしない」と宣言し、「外国が攻めてきたら白旗を揚げろ」と公言する政治家までいる。しかしその一方で、靖国神社では毎年大々的な祭りが行われ、天皇陛下や首相をはじめ、参拝する日本の指導者や政治家も少なくない。
中国、北朝鮮、ロシアからすれば、だから、まだまだ恐ろしさを秘めた国と思い、日本には慎重に対応し続けたのです。
「今は静かにしているが、こちらの出方次第では何をするかわからない。寝た子を起こすようなまねはやめよう」
こうして彼らは、警戒意識をもって戦後日本を遠巻きに眺め続けたのです。これこそが、戦後六十年余りも、日本がどの国からも攻め込まれなかった一番の要因と見るべきでしょう。
現に、毛沢東や金日成、スターリンやブレジネフも、第二次世界大戦当時の日本軍を詳しく研究しています。
いまの北朝鮮の軍隊は、行進の仕方、号令のかけ方など、表面はロシアの軍隊をモデルとしているように見えますが、大本は日本の軍隊です。金日成は、配下の者に「かつての日本軍のような教育をせよ」と言って、自国の軍隊を再教育させたと言います。
毛沢東も日本軍の戦意や組織を高く評価していましたが、うまくそれを利用しました。戦中は、日本軍の影を感じるやいなや、一目散に逃げまわって、蒋介石の国民政府の方へ日本軍をぶつけるように仕向けました。そうして、対立する蒋介石の力を殺ごうとしたのです。
また、戦後、毛沢東は党主席直轄に「情報調査分析局」というインテリジェンスの組織をつくり、徹底的に日本軍を研究しました。単なる研究から「いかにして日本軍のような強い軍隊をつくるか」にまで論考を進め、今日の中国軍を育てようとしました。
毛沢東が、古くはチェ・ゲバラ、最近ではアルカイダなどが熱心に読むようなゲリラ戦の古典的著作を仕上げたのも、日本軍に勝つには「これしかない」と思っていたからでした。
さらにソ連は、日本が原爆攻撃を受けてから日ソ不可侵条約を破り、満州や日本に攻め込みました。この裏切り行為が、日本が徹底的につぶされた後に行われたということ自体、スターリンがどれほど日本軍に恐れをなしていたかの表れといえるでしょう。
ことほどさように、これらの独裁者たちはみな、日本をひどく恐れていたのです。
アメリカが、戦後日本をせっせと経済大国に育てたのも、日本がもう一度、強い軍隊を持つことを何より恐れたからです。
ところが、各国の政治リーダーたちの世代交代が完了してしまえば、「日本恐るべし」の記憶がもたらしてくれた効力も消えることでしょう。今日、各国が日本を完全に舐め出したのは、このことも大きく関わっているのです。
しかし、「何千という飛行機がアメリカの空母めがけて突っ込んだ」という歴史的記憶が、実に六十年余りも影響したことは注目に値します。つまり、「歴史の記憶」というのは、実はその後の現実に対し、長く予想を超えた大きな影響を及ぼすことがある、ということです。
歴史はただの過去のことではないのです。
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特攻隊というと、悲劇というでしょう。
しかし、上記の文章を呼んでいるだけでも英霊たちが戦後も日本を護っているということは、疑いのないことかもしれません。
「二度と子供たちを戦場に送らない」というのは日教組であり、護憲派の左翼であり、そして彼らの言い分に乗せられた人たちです。
戦争は決してすべきではありません。
しかし、一旦緩急あれば、祖国を捨てて逃げるような日本人では先人たちに申し訳がないでしょう。
2010年5月9日、ロシアの「対独戦勝記念日」にアメリカ軍やイギリス軍までパレードに加わり、
その上でメドベージェフ大統領は記者会見でこのように発言しました。
「第二次世界大戦でカタがついているのに、いまだに領土返還を求めるような敗戦国がいる。
戦争で出た結果は戦争でしか変わらない」。
この発言は産経新聞が少し触れた程度で、日本のマスコミ各社は一切報じず(下の動画の通りです)、そのために日本国民の多くはこの事実を知らないはずです。
この発言は「敗戦国の日本が領土を返してほしければ戦争するしかないぞ。いまの日本なんか戦争などできないし、その勇気もないだろう。今の日本などヘタレだ」と言われているように受け取れます。
これほど日本人を馬鹿にした発言はないでしょう。
では、日本はどうするべきか。
そのために今何をすべきか。
その答えはおのずから出てくるはずです。
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転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」