「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (4)

2015年02月17日 20時31分46秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
私たちは、 意識的にであろうが無意識的であろうが、
 
現実に対してなんらかの妥協をしながら 生きている。
 
そうせざるを得ないのが 現実というものの制約である。
 
「人は、 どんな結果をも受け入れる (肯定する) しかない」 し、
 
「現実を受け入れ肯定しなければ、
 
その中で (適応して) 生きていくことができない」 [20]。
 
だが、 そうであるからこそ、 妥協というものを一切拒み [21]、
 
みずからの思いに 百パーセント純粋であろうとする BPDの患者が、
 
現実への 「不適応」 をおこすのは 当然のことであると言える。
 
当人にとっては、 みずからの感情の発露であるとしても、
 
現実を回そうとする周りにとっては
 
はた迷惑な存在としてしか映らないのも また理解できよう。
 
いずれにしても、 BPD患者が 「現実を生きる」 ということは、
 
このように矛盾のただなかを 生きざるを得ないということであり、
 
そのことだけですでに BPD患者は疲弊してしまうことは、 想像するに難くない。
 
場面1では、 心子にそのつもりがなくても、
 
心子の言動は 稲本を巻き添えにし、 共倒れに追い込むものであろう。
 
他人には  「私はどう生きていけばよいのか」 などという問いは、
 
端的に言って 答えられないものである。
 
それを、 場面1における心子は 問わずにはいられない状況だった。
 
稲本も述べているように、 心子にとっては 稲本がどう答えようと その答えじたいは、
 
乱暴に言ってしまえば どうでもよいのだ。
 
むしろ、  「このような問いに 私はとらわれているからこそ、 私は生きづらい」
 
と解釈してもよいのではなかろうか。
 
答えなどどうでもよいが、
 
そのようなどうでもよい答えを 求める問いを 生きざるを得ないことを、
 
心子は訴えているのではなかろうか。
 
だからこそ、 稲本がどのように答えようとも、
 
あるいはその問いを前に 稲本がかりに沈黙したとしても、
 
問うている心子本人には ほとんど響かないわけである。
 
[20]土屋[2012:5] 。
 
[21] 矛盾するようだが、
 
BPD患者は時として  「妥協を許さない」 態度とは まったく正反対の
 
「諦念する」 という態度をとる。
 
しかしこれも考えてみれば、 みずからが傷つかないように
 
「0か1か」 の思考パターンが 身についてしまった
 
BPD患者の特徴なのかもしれない。
 
さらに、  「みずからが傷つかないように」 と述べたが、
 
「どうしようもなく みずからをメチャクチャにしたい」 という願望も、
 
おそらくは持っている。
 
根底にある  「自分など必要とされない、 自分が生きていても価値がない」
 
という思いが、 そのような願望を抱かせてしまうのである。
 
〔「境界性パーソナリティ障害の障害学」 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)