「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (9)

2015年02月26日 20時36分12秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【さらに考察を進める。
 
BPD患者が  「答えのない問いを生きる」 とき、
 
最終的には みずからの犠牲によって  「解決」 しようとすることが多い。
 
多くの場合は、 周りの人たちを巻き込んでしまう。
 
心子は 最終的に究極的な自己犠牲、 つまり自殺によって この世を去った。
 
なぜ、 BPDを患った者が、
 
このように 生きることそれじたいに 苦しまなければならないのか。】

【BPD患者の織り成す世界の ひとつの魅力とは、
 
純粋なるものへの 激しいまでの渇望である。
 
ただし、 その世界においては、 現実と折り合いがつくことはない。
 
折り合いがつかないからこそ  〈生きづらさ〉 を感じるのだが、
 
そのとき、 現実のほうが間違っている 可能性もあるわけである。
 
言い換えれば、 この種の 〈生きづらさ〉 に関しては、
 
個人を病理化して治療しても、 「病巣」 は社会的不正義なのであるから、
 
〈生きづらさ〉 が解消することはないということである。】

【字義通り、 「答えのない問い」 に 答えることはできない。
 
ならばどうすればよいのか。
 
「答えのない問い」 を 可能な限り 社会からなくしていくことである。
 
すなわち、  「答えのない問い」 に はまり込む手前で、
 
そのような問いを 問う必要のない社会を 作っていくことである。
 
「現実は グレーゾーンであり、
 
白や黒など はっきりと決着のつけられないものである」 と よく言われる。
 
それは一理あるかもしれない。
 
しかしながら、
 
決着をつけるべき問いに 決着をつけようとしていないだけのこともあるだろう。
 
そのような状況を、 BPD患者は 出し抜かずにはいられないのである、
 
みずからの 〈生きづらさ〉 と引き換えに。
 
純粋さが、  「自己犠牲」 へと変わってしまうのである。

BPD患者の 「治療」 を考えるならば、
 
薬物療法と精神療法だけでは うまくいかない。
 
なぜならば、 それらは両方とも、 患者個体に働きかけることによって
 
社会との折り合いをつけることを 目指すものだからである。
 
むしろ、 BPD患者を取り巻く人たちや、 社会が変わらない限り、
 
真にBPD患者の 〈生きづらさ〉 は 焦点化されないと言ってよい。
 
社会的不正義を問題にし、 それを変えていくことこそ、
 
BPD患者の 「治療」 に つながっていくのではないだろうか。
 
BPD患者が社会と折り合いがつけられない、 ではなく、
 
社会のほうが BPD患者と折り合いをつけない、 と見たとき、
 
事態はこのように描くことができるだろう。】

〔「境界性パーソナリティ障害の障害学」 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 
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