「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

教誨 物心両面に負担 -- 死刑執行の現実 (8)

2008年11月18日 22時56分27秒 | 死刑制度と癒し
 
(前の記事からの続き)

 教誨師を30年以上務めた 僧侶は、

 執行直前の教誨をして 死刑囚と別れたあと、

 閉じられたカーテンの奥から  「ガタン!」 という音を 聞きました。

 その日の夜は、 動揺を抑えられなかったそうです。

「 被害者の不幸は悲しい。

 しかし、そのために何故、 加害者が死ななければならないのか 」

 宗教家として 命の尊さを説いているのに、

 死刑執行の一端を担う ジレンマを感じる 教誨師は少なくありません。

「 執行の日は 心が重すぎて 一人でいられず、

 拘置所から帰ると、 教会の人たちに 一緒にお祈りをしてもらう。

 本当は 教誨師をやめたい 」

 真言宗大谷派は 1998年、

 死刑は 宗派の教義に反するという 見解を発表しました。

 しかし 仏教系のある教誨師は、

「 死刑となる人に向き合い、 罪を自覚できる 内面を育てるのが 我々の仕事。

 死刑への疑問を 口にするべきではない 」と 自戒します。


 教誨師に負わされるのは 精神的負担だけではありません。

 経済的負担も のしかかります。

 犯罪被害者の気持ちを知るためなどの 研修会を開くと、

 何百万円もの持ち出しに なるといいます。

 刑場に置かれている 仏像の修理費100万円は、

 教誨師たちが出し合いました。

 国が活動費を支給している 保護司とは対照的です。

 教誨師に対する 国の支出は 交通費のみで、 年間約6600万円。

 一方保護司は 年間58億円です。

 しかし国には 政教分離の原則があるため、

 国が関与することは 難しいといいます。

 最近の拘置所職員は、 国は宗教を 押しつけられないとして、

 死刑囚に教誨を 熱心に勧めないそうです。

 死刑囚が急増しているわりに、

 教誨を受けるケースは 増えていないということです。

 後継者難も深刻化しています。

 国が真剣に考える時期に 来ているのではないでしょうか。

〔読売新聞より〕

(次の日記に続く)
 
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