蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

“日本軍山西省残留問題”長編ドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」を観る!

2006-10-06 02:14:13 | 時事所感
10月5日(木) 雨。終日肌寒し。

 先日の赤旗日曜版の折込にA4の宣伝ビラが入っていた。

『怒りと悲しみと…世界初・元残留兵の長編ドキュメント映画“蟻(アリ)の兵隊”
香港国際映画祭 人道に関する優秀映画賞受賞
「国に捨てられた兵隊」-歴史の真実 満州・残留孤児の棄民だけではなかった…』

ビラの見出しにはこうあった。

 実は、この映画の話、7月頃のNHK,FM日曜喫茶室で監督の池谷薫氏が司会の袴満男と対談しているのを聞いて、えっ、そんな話があるのかとびっくりして、その映画是非みてみたいものと思ったのだった。
 
 それが、思いのほか早く、この山梨で今日上映されることとなったのである。雨のなか10時30分第一回上映に間に合うようでかけた。会場は、甲府市内の県立男女共同参画推進センターである。会場に着いたが入り口付近には何の案内看板もでていない。これは場所を間違えたかなと一瞬迷った。手元のビラを取り出して確認すると2階大研修室とあった。なるほどそうだった。

 受付で切符を買い中に入る。200人は入れそうな会場に、2、30人の人しか居ない。何だか拍子抜けした。東京では、普段、この種の問題に無関心な学生たちが自主上映会まで主催していると聞いていたので、さぞかし大勢の人が来ることかと思っていたのだが…。

 上映に先立ち、共催者の一つ、山梨県日中友好協会山梨支部の支部長さんの話を聞いて納得した。支部ができて2年とか、県民人口90万弱、こういう問題に関心の薄い土地柄なのだ。

 映画が始まった。1時間40分が、あっという間に過ぎた。感想を書くよう求められたが、今見た内容が重くて、とても直ぐには言葉にならない。そう書いて出口の受付の人に渡してきた。

 映画を、観ただけでは、何故、そんなことがあったのか、細かい経緯(イキサツ)省略されていて、大変なことだったんだなとは受け止めても、何故、戦争が終わってからも、そんな一部の人たちだけが残されて、それから三年も、中国共産党軍相手に戦争させられる羽目になったのかが、今一よく飲込めなかった。

 そこで、帰宅して急いで、googleで検索してみた。こういうサイトがあった。”山西残留日本兵問題3” www1.odn.ne.jp/~aal99510/1HA_3.htm これを読んで先ほどの画面を思い出したら、ようやく事の次第がよく理解できた。

 要は、はこういうことらしい。

 昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏した。これに基づいて、日本軍はただちに戦闘行為を止め、しかるべき定められた相手に対して、武装解除されることに決まった。ところが、中国奥地、山西省に展開していた第一軍澄田中将、軍司令官麾下59000人は国民党、蒋介石率の指令で当地の軍閥錫将軍の下で武装解除を受けることになった。
 
 ところが、現地は、中国共産党八路軍の攻勢が極めて強く、錫軍としてはこれに対峙するのにこころもとなかった。そこで、錫将軍は澄田中将に働きかけ、日本軍をそのまま残して自軍に力を貸して共産軍に共に当たってくれないかと持ちかけた。
 
 事の重大さに驚いた澄田等第一軍司令部は始めは動揺しこの提案に抵抗した。しかし、協力してくれれば、澄田中将以下幹部の戦犯容疑は不問に付し無事日本へ帰れるようにしてやろうとの提案に心ならずも、心動かされるところとなった。

 そこで澄田中将は、麾下部隊に一定割合で残留者を出させ、これに協力させ、自分は一足先に帰国してしまうのである。

 この映画の主役奥村さん(80歳)もその一兵士として、軍(日本国家の)の命令と受け止めて、それから3年余り日本軍として、日本軍の再建を夢見て国民党軍とともに中国共産党軍と戦うが、利あらずして共産党軍に降伏し捕虜となるのである。
そしてようやく昭和29年許されて日本に帰国した。この間、残留兵2600人のうち550人が戦死したという。

 ところが、無事帰国してみれば、何のことはない、自分たちは勝手に志願して現地で除隊した上、中国国民党軍閥の傭兵にされてしまっていたのだ。現地逃亡兵として軍籍も剥奪され、一切の軍人恩給、傷病手当金の受給資格も奪われていたのである。

 何故、そんなことになったか?

 それは、昭和31年、このことが国会で問題になり、証人として呼ばれた、第一軍幹部、分けても澄田中将が、自分は残留命令など出していない、彼らが武装解除に応ぜず勝手に現地に残ったのだと証言し、これが採用され承認されてしまったのである。

 この時、同時に呼ばれた下級将校の中には、あれは軍(司令官)の命令だというものがいたがその証言は無視されたのだ。

 若し、この証言を認めると、日本が国家としてポツダム宣言に違反したこととなり、再び終戦時の問題が紛糾することを恐れた政府の政治的判断で、このような理不尽な決定がなされたらしい。臭い物には蓋である。

 こうして、奥村さんらは国家により白昼堂々と棄兵されたのである。

 ここから、一兵士としての奥村さんの日本政府を相手とした孤独な戦いが始まるのである。映画のカメラは、ひたすらそんな奥村さんのひたむきな執念の姿を追うのだ。

 冒頭、靖国神社が映し出される。その境内に奥村さんが写る。カメラマンが聞く。「お参りにこられたのですか?」「いや、侵略戦争のシンボルなんかに誰がお参りするものか」と応える。「あの侵略戦争をどう語っているかをみにきたのだ」という。

 カメラは一転その傍で、焼きソバを頬張る若い子らの一グループを捉えて訊く。「ここへ何しに来ているの?お参り?」中の女の子(18、9歳?)が答える。「初詣」と、「ここに戦争で亡くなった人が祭られてるってしらないの」とカメラ氏が問う。「知らなかった。」カメラ氏が語りかける「このお爺ちゃんね、その戦争で戦って来たんだよ」と。「へえー、それはご苦労様でした」と若い子が、さっきよりは多少見直したような畏敬の目で奥村さんを見る。
 
 奥村さんらは、この国家の決定を不服とし裁判を起こす。そして、澄田中将と錫軍閥将軍の間で日本軍を売り渡した密約の証拠を掴まんと中国へ単身渡るのである。現地に行った奥村さんは、文書の存在を求めて、当時の軍閥関係者を尋ね歩く。

 漸くで尋ね会えた軍閥の参謀は、60年もっ経った今そんなものはどこにもない。ただし密約は確かにあった。それは今や明らかではないか。しかし文書のかたちでなんか残っているわけがない。錫将軍は相手とだけで物事を決め、その内容を周りの誰にも漏らすような人間ではないと。

 奥村さんは、現地を訪ね歩くうちに自分が初年兵として初めて、上官の命令で中国人を銃剣で刺殺した悲痛な体験をマザマザと甦らせる。城壁のまえ縛られて胸をはだけられている相手はものすごい目でこちらを睨み付けている。とてもまともには見返せられない。目を瞑って震える手で銃剣の切っ先を相手にぶつける。だが肋骨にあたって跳ね返される。上官の叱声が飛ぶ。何をやっているかーと。心臓を一突きにしろと。恐ろしくてたまらなかったと。それが初めて人殺しをした体験だと。戦争に引っ張られなかったら、私は小商人の息子として平凡な人生を送っていただろうと回想する。
 戦争とは、一人の何でもない人間を殺人マシンに変えていくことだと、奥村氏は語る。

 ある村を訪ねる。品の良い穏やかな老婦人と対面する。奥村さんが訊く。貴女は日本軍にどんな目にあったかと。
 ある日自分の村に突然日本兵がやってきた。母と私が奥の部屋で隠れていると、見つかって引きずり出され、別の部屋へ連れて行かれ殴り倒されて、6、7人の兵士に輪姦され死んだようになった。すると隊長らしき男が父親に使いを出し金をもってこい。そうすれば娘を返してやると。父親は、僅かな羊を売って金を作り、娘が回復したらまた連れてくるからということでやっと自分をつれもどしてくれることができたと。そして村人からは日本人の女になったと軽蔑の目をさんざん向けられたと。

 こう語る老婦人は目には涙を浮かべたが、決して仇の片割れである筈の目の前の奥村さんをなじろうとはしなかった。それどころか、奥村さんを見て、貴方は、今はとても中国人を殺したなんて悪い人には見えない。今はいい人に見えると静かに告げた。

 中国の検察庁へ行く。そこには捕虜となった日本人の調書が何冊もの文書になって残っている。その中に今、奥村さんと一緒に訴訟を戦っている下級将校のものもあった。そこには道案内に拉致した中国人を用が終わると、自分たちの動静が敵に通報されるのを恐れて、殺してしまえということで一抱えもある石でその中国人の頭を潰したことの贖罪を綴ったものもあった。

 そのコピーを見せられた、今はよぼよぼの鬼将校が、そんなことをやった記憶はまったくないと当惑する。だが事実は厳然と記録されて、この紙片が粉々に風化するまで、かの地に残されているのである。

 最後に、カメラは冒頭の靖国神社の境内に戻る。境内は終戦記念日か秋の例大祭か大賑わいである。帝国海軍の旭日日章旗を掲げて行進するもの。特攻の軍装。日露戦争時の肋骨の軍服で行進するもの。模擬銃を肩に歩調を揃えてそのまま戦場へ将に逝かんとするものらが勇ましく、おどろおどろしく錯綜する。

 中で一人背広の胸ポケットに白い半カチを指してマイクの前で何やら笑みを浮かべてお話になっている老紳士。誰かと見れば、あの最後の皇軍兵士、小野田少尉殿であった。

 その小野田少尉殿が満場の拍手を浴びて降壇したところへ、奥村元兵長がつかつかと、とても普段の足の不自由な80歳の老齢とは思えない足取りで、歩み寄り「小野田さん、侵略戦争を賛美するんですか?」と二度三度呼びかけた。

 最初は聞こえない振りかどうか、向こうへ一旦は歩み去ろうとした小野田少尉が、突然、たちどまり、キッとなってこちらを眼光鋭く睨み付けたと思うやいなや、「…終戦の詔勅を読んでないのか…」と一喝した。

 その形相はフリッピンから凱旋帰国し一転ブラジルに渡り、孤軍奮闘牧場主として成功を収め、その体験を広く故国の軟弱化した青少年に伝えんと、サバイバル教室をボランティアとして開催している温和な風貌からは、想像もできないほどのものであった。

 それは、まさに戦後何十年も独りでフィリッピンのジャングルで抗戦しぬいた帝国軍人の強面(コワモテ)そのもであった。

 今日みた映画の画面の中で、この顔こそが私の脳裏に焼きついた一番の印象であった。
この顔こそが、今の日本人の相当数の人々の心の底流にあるあの戦争への、牢固と化石化した回答ではないのだろうか。

 問題の訴訟については、最高裁は控訴棄却を宣した。

 これが日本国家に、現人神(アラヒトガミ)天皇、大元帥陛下に命を投げ打って十数年を異国の荒野の戦場に身を晒した忠実なる陛下の赤子たる兵士への唯一の答えなのだろうか。国家とは、正義とは、道義とは、一体どれほどの代物というのだろうか?

 と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか。

ー追記ー

 今回、下記にTBいただきました、二つの記事、それぞれユニークな内容です。是非、合わせてお読みいただければ幸いです。 (10月11日記)

私たちは、柳行李(ヤナギコオリ)の煎り豆か?

2006-10-04 01:32:40 | 時事所感
10月3日(火) 曇り、一時薄日射す。暑からず寒からず。

  このところ、いろんな方のブログを見ても、新聞、雑誌を見ても、この国の右傾化を危惧する記事をよく見かけるようになった。

  今日の朝日新聞、<思潮21> 「時代の空気」について ―寺島実郎氏― もその一稿ではないかと思った。

  氏は、この稿で、『時代の空気がおかしい。…「自国利害中心主義」の潮流の中にある。…「主張する外交」を掲げた安倍内閣がスタートした。誰に対して何を主張するのかが眼目である。自分の国の利害については、声高に主張するが、世界秩序の在り方には沈黙するというのであれば、その主張は世界の敬愛を集めるものとはならない。…21世紀の日本の国際的役割は二つに凝縮できる。一つは同盟国アメリカをアジアから孤立させない役割であり、…二つは、中国を国際社会の責任ある参画者に引き入れる役割であり…、改めて国際協調主義と平和主義を貫く意思と構想が必要であろう。…いかなる状況下でも、人々は自らの国、民族に誇りを抱き、幸福を希求しているということである。間違っても自分たちの愛国心が優越していると誤認すべきではない。…世界は特定の超大国が価値を押し付けることのできる状況にはなく、それぞれの自己主張を前提とした全員参加型秩序に向けて変わりつつある。だからこそ、筋道の通った主張への情熱と自らを客観視する冷静さが同時に求められるのである。』と、主張されている。

 真に同感である。先日、当ブログでアップした“石橋湛山の国際協調主義”と軸を一にするものと心強く感じた。

 ところが、この頃、これに反して今まで余りお目にかからなかったような勇ましい論調も目立つ。
 戦後民主主義という言葉を、否、言葉だけではない、戦後、日本国憲法改定以来のこの国の諸々のあり方の全てマイナス面を、十把一絡げに引っ括って、不倶戴天の敵の落し物のようにおっしゃる方々が、枯れ井戸の水位がじわじわと上がってくるような感じで増えている。
 そこには、進歩的文化人とか、人権派に分類された方々もワンセットである。

 確かに、そこには、自分の身丈や体質も禄に考えて見ないで、受け売り便乗型の軽薄な行き過ぎや何やかや、あったことも確かだろう。
 だがしかし、戦後60年の長きにわたり、戦争の銃火に逃げ惑うこともなく、ひたすら高度経済成長の恩恵に浴し、一応の各種社会保障制度の整備もみている現在、そんなに悪し様にけなしてなにになるというのだろうか?
 世界、60億余の人間の中で、我ら日本人、結構な部類に属しているのではなかろうか?

 今や、このような肯定的な物言いをする輩は、「お前、どこみてんねん。あほちゃうか。おめでたいやっちゃなー。もっとよう、眼ん玉ひん剥いて見てみんかい」と、一瞥覚悟のうえである。

 今、世相を賑わし、世人を慨嘆させる親の子殺し、養育放棄、子の親殺し、ぶちきれ殺人等々、それが何で、日本国憲法のせいだろうか?
 むしろ、時代の変化の中で不都合になってきたことを、国民みんなで直視して、喧々諤々の議論を避けて、なし崩しに、無原則に拡大解釈して、糊塗する風潮が、世に蔓延し、法規範が軽視され、倫理観が知らず知らずに喪失してきた結果ではないのか。

 われわれが、何事も事なかれ至上主義で、とことん議論することを嫌い、何でも曖昧に、まあまあでその場を糊塗するいい加減さを改めない限り、何度憲法を弄り、教育基本法を改定したところで、事態は少しもよくはなりそうにないと思えるのだが。

 とにかく、いつも何より思うのは、昔、ラジオ放送の擬音効果の一つとして、柳行李に煎り豆入れて、左右に上下させると、中の豆が一斉に一方向に流れて、ザー、ザーと波の音が出ると聞いて、たいそう面白いことと、未だに頭の片隅にこびり付いているが、この頃の世論とかの動きを見るに、この柳行李の煎り豆のように思えるのは、山家の隠居の僻目、空耳のせいだろうか。

 と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?

ー追記ー

 下記、コメント欄も合わせお読みいただき、どなた様か、ご意見をいただければと思います。よろしくお願いいたします。(10月11日、記)

「殺し得許されるのか」-殺人犯、時効成立で、全てが免罪!の奇怪?―

2006-10-03 00:55:07 | 時事所感
10月2日(月)雨、時々曇り。終日、肌寒し。

 昼前、一通の封書が届いた。弟からだった。めったに手紙なんかくれたことが無い(大抵は電話ですむので)のに、何だろうといぶかりながら開封した。

「毎日のように不条理且つ残虐な事件が発生しています。これらの中でとりわけ私が最近つよく悲憤慷慨を禁じえなかった記事が同封のものです。
折りしも安倍新内閣誕生の浮かれたニュースに隠れていますが、こんな事より、この記事の方が余程重要であり注目されるべきです。一読下さい。」とあった。

同封の記事とは、
<9月25日付け、東京新聞(夕刊)  ―法廷ひと模様―28年前の殺人 2つの時効の壁、遺族「せめて民事だけは」賠償訴訟あす判決
同9月27日付け、時効の殺人賠償認めず
―足立の教諭殺害東京地裁判決―除斥期間、厳格適用
「殺し得許されるのか」―殺人時効訴訟遺族ら会見―、勝訴に向け誓い>の見出し記事のコピーだった。

 私もこの賠償請求事件のこと、知らなかったわけではない。27日のスパモニでも判決結果を報じていた。「殺人罪に何故時効があるのか?」と一人のコメンテータが疑問を呈していた。
 これに対して、別のコメンテータ(弁護士?)が、
「殺人罪といっても、時間がたてば立証がむずかしくなったり、何時までも一つの事件に関わっていられない、あるところで打ち切りにしないと、社会制度上しょうがない。
 また、この制度が導入された当時は、人間の寿命も今のように長くなかったので、このような期間を設けておけば、その間には犯人も死んでしまっているかもしれないというようなことではなかったか…。
 まあ、今のように寿命が長くなった時代においては、15年というのはおかしいですよね。早急に殺人罪における時効制度を見直すべきではないでしょうか」というようなことを答えていた。

 そして、「この犯人、人を殺しておいて、時効だからといって、退職金も、年金ももらっていて、何のお咎めも無しか?それはちょっとおかしいですね」というような、司会者のコメントで締めくくられて次の話題に移ったのだった。

 今、改めて、27日の朝日(地方版)を引っ張り出してみたら、一面は、安倍内閣発足の大見出し。

 本件事件の判決は、社会面(39面)の隅に「教諭殺害時効―殺害の賠償請求棄却―東京地裁 遺体隠し
認定」と出て、「除斥期間」に柔軟な解釈をと、(西川圭介)記者のコメントが付してあった。

 そして、この日反対の38面には、奈良女児殺害 被告、極刑に笑み 両親は遺影抱き涙 の奈良地裁が小林薫被告に下した判決記事が掲載されていた。
 
 なるほど、つい私も28年という時間の経過を聞いた中で、知らず知らずのうちに、より現在の事件、出来事に目が向き、ことの軽重を、時間の風化の中で見失っていたと思い至った。

 ただ、本件は地裁段階の判断であり、上掲、西川記者は、『最高裁は予防接種被害集団訴訟において、不法行為に基づく損害賠償請求の除斥期間を画一的に適用すれば、「加害者は損害賠償責任を免れ、著しく正義・公平の理念に反する」として、限定条件つきながら除斥期間に例外を認めた』とコメントしている。
 このことから、私は、これからの控訴審で十分まだ逆転勝訴の可能性があると信じる。

 公務員の場合、汚職か何かで処罰を受けた場合、年金が8割に減額される規定がある筈だ。それが、正真正銘の殺人犯が、いくら時効とはいえ、満額もらってこの先のうのうと何のお咎め無しでは、何のための法治国家であることか。それでは“倫理無き放置国家”に堕するというものではないだろうか。

 ここで改めて思うのは、この事件も、警察が事件発生時に徹底的な関係者の聞きこみ捜査をやっていれば、そんなに、犯人逮捕は難しい事件ではなかったのではなかったか?ということである。
 米山豪憲君をみすみす死に追いやった杜撰捜査の体質は、秋田県警能代署、オームの神奈川県警ばかりではなく、昔から連綿と流れの澱んだ地下水脈となって今に続いているのだろうか?

 と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?


 


憐れ!殺される熊、猪、…、この地上、人間だけのものだろうか?

2006-10-01 23:18:21 | 田舎暮らし賛歌
10月1日(日)曇りのち雨。
 
 今日は、地域の秋の道普請。朝、8時。てんでに鎌、スコップ、八手を持って集合場所に集まった。幅員16mほどの市道の両側に溜まった泥をこそぎ、草抜いて路肩にほうりあげる。両側は松林や、雑木林だ。
 こ一時間もすると、一休み。キノコの話。蜂の巣を採った話。猿が近くに来た話。イノシシが出没して、山蛭(ヒル)が増えている話。山里でなければ聞けない話だ。
そんな話を聞いていると、私は何か楽しい気分になる。

 ところが帰宅してパソコンを立ち上げたら、次のような記事が目に止まった。

『子グマに引っかかれ軽傷、殴られクマは死ぬ…秋田

1日午前8時ごろ、秋田県仙北市田沢湖卒田の山林で、同市田沢湖神代、無職草なぎ幸雄さん(73)がクマと鉢合わせになり、左手の甲を引っかかれて軽傷を負った。
 草なぎさんは一緒にいた友人と2人で、持っていたなたで頭を数回殴ったところ、クマはその場で死んだ。
 仙北署の調べによると、クマは体長約50センチ。草むらから突然現れ、草なぎさんらが「あっち行け」と追い払おうとしたが、飛びかかってきたという。2人は同日午前6時ごろから入山し、マイタケ採りをしていたという。 (読売新聞) - 10月1日16時4分更新』

 随分と豪傑の爺様である。もっとも二人連れで、相手は子熊だ。最初は追い払おうとしたが、驚いた子熊が、身の程も省みず一丁前に、人間様に立ち向かったのが悪かった。可愛そうな子熊である。
何時まで待っても帰ってこない子熊を母熊はどんな気持ちで、今頃山中をさ迷いさがしていることだろうか?

 今年、例年に無くこうした山の獣たちが、里にあらわれるのは、この夏の異常気象で山の木の実の生育不良にあるらしい。
 先日も、地元局のニュースで、猿による農作物の被害が、約6000万円ほどとかになると報じていた。

 たしかに、一生懸命農作業に励んでいられる方に対して、不謹慎な言い方になることをお許し願えば、案外たいした額ではないなーということである。

 これに比べれば、我々が犬、猫ペットに費やす費用はいかほどの額になるのであろうかということである。今日も、別のニュースで、内縁相手の連れ子の幼児を殴り殺した男が、その子たちを放置しておきながら、自分の愛犬は獣医のところへ連れて行ったという記事をみた。

 人間の身勝手さ、エゴの凄まじさである。
 猿だって、熊だって、猪だって、鹿だってみんな神様が、平等にこの世におつくりになったものである。彼らの居ない山なんて何と寂しいことではないだろうか。どこかの山陰に彼らの気配を感じてこそ、山が平地とは違う異次元の境界として、山に入ることの緊張感と新鮮な感動を得られるのではないだろうか。

 であるならば、彼らにだって、この地上に等しく生きていく権利があるってものだ。それが不幸なことに進化の速度の不均一の結果、異常増殖した人間に生きていく場を次から次へ奪われ、文句一つ言えずに細々と命をつないでいるのである。

 せめてペットにかけるお金の幾分かでも、自然動物の保護と環境保全に基金のようなものを設け、心ある人がいくらかでも寄付できるようにできないものだろうか。
 その中から、これらの野生動物の食害の損害を補填してあげられるような仕組みである。

 日本の森にも、かっては日本狼がいた。彼らは山神様と崇められ、鹿や猪の食害から農作物を守る益獣とされていたと聞く。今も山村の神社のご神体には、山犬(日本狼)を神様と祭ってあると聞く。その時代には同時に、人が山にやたらと入ることの恐れを抱かせ、山の霊性が守られていた。

 だが、明治初年、西欧化の波の一環で、外国犬からの狂犬病が蔓延し、日本狼にも伝染しその数を著しく減じ、明治末年、秩父山中で射殺された一頭を最後に以来、絶えて久しくその姿は見られず、絶滅したものとされている。

 日本狼が絶滅して、日本の山の神性は消失した。人間は至る所にダムを作り、縦横無尽に山肌を切り裂いて林道を張り巡らした。そして今や聖なる山の胸元に産業廃棄物の最終処分場まで作ろうというのである。
 
 神は黙して、ただこの人間の神をも恐れぬ所業を見守っていられる。だが、それですむだろうか。いつの日にか、神様の堪忍袋の緒は切れて、いかなる鉄槌がくだるのだろうか?その鉄槌が現実のものとならない限り、我々はその傍若無人の所業をやめようとはしないのだ。

 と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか。

ー追記ー

 上掲の記事をアップした後、タイミングよくというか、次の記事が出ていた。熊との共存を世界中で考える動きが出てきたとは、喜ばしいことである。

 『軽井沢で「国際クマ会議」=共存テーマに2日から、アジアで初

 クマに人が襲われる被害が相次ぐ中、クマと人間との付き合い方を考える「国際クマ会議」が2日から6日、長野県軽井沢町で開かれる。北米、ヨーロッパ、アジアの研究者との間で、生態や保全、管理に関する情報を交換するのが主な目的。
 会議は1968年にカナダで第1回が開かれ、今回が17回目。アジアで開催されるのは初めてという。 
(時事通信) - 10月1日21時1分更新』
 

裏金作りと無駄遣い!―無責任行政と無関心住民?―

2006-10-01 01:31:04 | 時事所感
 9月30日(土) 晴れ。暑からず、寒からず。
 
 このところ、岐阜県庁は多額の裏金作りの後始末出で、てんやわんやだ。傍から見れば、何おか云わんやだ。一休話のお寺の小僧じゃあるまいし、和尚さんの目を盗んで、壷の甘味をチビチビと舐めて、ほくそえむ厭らしさ。お寺の小僧さんならまだ可愛いが、県庁勤めは、地域のエリートだ。ネクタイ締めて背広着て、もっともらしいお役人が、机の陰でコソコソと、あれこれ書類を偽造して、貯めたお金が邪魔になり、あっちこっちのキャッチボール、あげくの果てが焼却処分の芸の無さ。
 こんな頭で、よくも県政がとれるものだ。

 一方、先日のスパ・モニでは、川崎市が8億円も投下した、市民用(名目は)の保養施設建設計画が、もてあましての始末に困り、6000坪近くの土地を、地元自治体へ無償譲渡とか。
 しかも、ご丁寧にももう1件は、南伊豆の崖っぷちの土地を同じく保養施設向けとかで、6億円で購入した土地を、僅か5千万円余りで不動産業者に売却とか。
 こちらはこの土地を斡旋紹介したのが、市議会議長とか。しかも、購入当時の市場評価額4億円だったとか。
 これを番組で追求する、リポーターが、当時の川崎市長宅を訪ねても、文字通り音なしの構え。
 議会は既に、両案件ともお咎め無しの承認済みとか。
 市民に代わって、行政の無駄遣いをチェックするのが、最大の責務の筈の議員様が、ノーチェックでは、そこの抜けたバケツに市民の汗水税金をながしこむようなものではないか?
 しかも、こちらは、市議会議長が絡んだ話。売り手とすれば、高くお買い上げいただいた斡旋の労をお取りいただいた、ありがたい神様のような議長様にまさか、手ぶらで「この度は、大変お世話になりました。ありがとうございました」だけですまないことは、子供でも分かるはなし。

 これって、一寸頬杖ついてみたら、斡旋収賄罪か政治資金規正法違反嫌疑で司直の手が伸びて不思議のない話ではなかろうか?
 軽く一杯ひっけて、ちょいと夜道を走っただけで、首の飛ぶ世の中だというのに、白昼堂々、数年の間に、16億をもの市民の膏血をドブに捨てたに等しい失政しておきながら、こちらは何のお咎め無しでは、なんとも辻褄の合わない世の中とはなったものではなかろうか?

 そして、東の福島県。18年、5期も県政に粉骨砕身の労をおとりの知事閣下。愚弟、賢兄(?)の心知らずとかで、談合疑惑の漬物ダルだ。

 一体、どっちを見ても、市民、住民どこにいらしゃるのか?今日のオカズ、どっちの店が何円安いなんてことには、労を惜しまれないというのに、年間何万円か何十万円かお納めになる税金の使い道については、ろくに決算書報告書を見ようともしない大らかさ。

 70過ぎた爺様でも、惰性のように何回も、同じ人間を選び続けるとは、「どうか、私どもにはお構いなく、湯水と思ってお使いください」とばかりに、鳶に油揚げ、熨斗つきで差し上げるようなものではないのか。

 これからは、首長再選の際には、選挙公報に在任期間中の当該自治体の財政状況の推移、債務の増減の公表を、最低限、義務付けるべきではないか?

 それに、しても、地方財政の放漫振りが、各地で報じられる現在、何故、地方自治体の多選禁止を与野党ともに口にしないのだろうか。二期8年でも長すぎると思うのに、それが、三選、四選、五選なんて、選ぶ方はどんなお考えで1票をお投じになるのか、とくと伺がってみたいものだ。

 真に奇妙奇て烈、山家の隠居にはどう頭をひねっても理解に苦しむ、開いた大口アングリアだ。
 
 と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?