10月5日(木) 雨。終日肌寒し。
先日の赤旗日曜版の折込にA4の宣伝ビラが入っていた。
『怒りと悲しみと…世界初・元残留兵の長編ドキュメント映画“蟻(アリ)の兵隊”
香港国際映画祭 人道に関する優秀映画賞受賞
「国に捨てられた兵隊」-歴史の真実 満州・残留孤児の棄民だけではなかった…』
ビラの見出しにはこうあった。
実は、この映画の話、7月頃のNHK,FM日曜喫茶室で監督の池谷薫氏が司会の袴満男と対談しているのを聞いて、えっ、そんな話があるのかとびっくりして、その映画是非みてみたいものと思ったのだった。
それが、思いのほか早く、この山梨で今日上映されることとなったのである。雨のなか10時30分第一回上映に間に合うようでかけた。会場は、甲府市内の県立男女共同参画推進センターである。会場に着いたが入り口付近には何の案内看板もでていない。これは場所を間違えたかなと一瞬迷った。手元のビラを取り出して確認すると2階大研修室とあった。なるほどそうだった。
受付で切符を買い中に入る。200人は入れそうな会場に、2、30人の人しか居ない。何だか拍子抜けした。東京では、普段、この種の問題に無関心な学生たちが自主上映会まで主催していると聞いていたので、さぞかし大勢の人が来ることかと思っていたのだが…。
上映に先立ち、共催者の一つ、山梨県日中友好協会山梨支部の支部長さんの話を聞いて納得した。支部ができて2年とか、県民人口90万弱、こういう問題に関心の薄い土地柄なのだ。
映画が始まった。1時間40分が、あっという間に過ぎた。感想を書くよう求められたが、今見た内容が重くて、とても直ぐには言葉にならない。そう書いて出口の受付の人に渡してきた。
映画を、観ただけでは、何故、そんなことがあったのか、細かい経緯(イキサツ)省略されていて、大変なことだったんだなとは受け止めても、何故、戦争が終わってからも、そんな一部の人たちだけが残されて、それから三年も、中国共産党軍相手に戦争させられる羽目になったのかが、今一よく飲込めなかった。
そこで、帰宅して急いで、googleで検索してみた。こういうサイトがあった。”山西残留日本兵問題3” www1.odn.ne.jp/~aal99510/1HA_3.htm これを読んで先ほどの画面を思い出したら、ようやく事の次第がよく理解できた。
要は、はこういうことらしい。
昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏した。これに基づいて、日本軍はただちに戦闘行為を止め、しかるべき定められた相手に対して、武装解除されることに決まった。ところが、中国奥地、山西省に展開していた第一軍澄田中将、軍司令官麾下59000人は国民党、蒋介石率の指令で当地の軍閥錫将軍の下で武装解除を受けることになった。
ところが、現地は、中国共産党八路軍の攻勢が極めて強く、錫軍としてはこれに対峙するのにこころもとなかった。そこで、錫将軍は澄田中将に働きかけ、日本軍をそのまま残して自軍に力を貸して共産軍に共に当たってくれないかと持ちかけた。
事の重大さに驚いた澄田等第一軍司令部は始めは動揺しこの提案に抵抗した。しかし、協力してくれれば、澄田中将以下幹部の戦犯容疑は不問に付し無事日本へ帰れるようにしてやろうとの提案に心ならずも、心動かされるところとなった。
そこで澄田中将は、麾下部隊に一定割合で残留者を出させ、これに協力させ、自分は一足先に帰国してしまうのである。
この映画の主役奥村さん(80歳)もその一兵士として、軍(日本国家の)の命令と受け止めて、それから3年余り日本軍として、日本軍の再建を夢見て国民党軍とともに中国共産党軍と戦うが、利あらずして共産党軍に降伏し捕虜となるのである。
そしてようやく昭和29年許されて日本に帰国した。この間、残留兵2600人のうち550人が戦死したという。
ところが、無事帰国してみれば、何のことはない、自分たちは勝手に志願して現地で除隊した上、中国国民党軍閥の傭兵にされてしまっていたのだ。現地逃亡兵として軍籍も剥奪され、一切の軍人恩給、傷病手当金の受給資格も奪われていたのである。
何故、そんなことになったか?
それは、昭和31年、このことが国会で問題になり、証人として呼ばれた、第一軍幹部、分けても澄田中将が、自分は残留命令など出していない、彼らが武装解除に応ぜず勝手に現地に残ったのだと証言し、これが採用され承認されてしまったのである。
この時、同時に呼ばれた下級将校の中には、あれは軍(司令官)の命令だというものがいたがその証言は無視されたのだ。
若し、この証言を認めると、日本が国家としてポツダム宣言に違反したこととなり、再び終戦時の問題が紛糾することを恐れた政府の政治的判断で、このような理不尽な決定がなされたらしい。臭い物には蓋である。
こうして、奥村さんらは国家により白昼堂々と棄兵されたのである。
ここから、一兵士としての奥村さんの日本政府を相手とした孤独な戦いが始まるのである。映画のカメラは、ひたすらそんな奥村さんのひたむきな執念の姿を追うのだ。
冒頭、靖国神社が映し出される。その境内に奥村さんが写る。カメラマンが聞く。「お参りにこられたのですか?」「いや、侵略戦争のシンボルなんかに誰がお参りするものか」と応える。「あの侵略戦争をどう語っているかをみにきたのだ」という。
カメラは一転その傍で、焼きソバを頬張る若い子らの一グループを捉えて訊く。「ここへ何しに来ているの?お参り?」中の女の子(18、9歳?)が答える。「初詣」と、「ここに戦争で亡くなった人が祭られてるってしらないの」とカメラ氏が問う。「知らなかった。」カメラ氏が語りかける「このお爺ちゃんね、その戦争で戦って来たんだよ」と。「へえー、それはご苦労様でした」と若い子が、さっきよりは多少見直したような畏敬の目で奥村さんを見る。
奥村さんらは、この国家の決定を不服とし裁判を起こす。そして、澄田中将と錫軍閥将軍の間で日本軍を売り渡した密約の証拠を掴まんと中国へ単身渡るのである。現地に行った奥村さんは、文書の存在を求めて、当時の軍閥関係者を尋ね歩く。
漸くで尋ね会えた軍閥の参謀は、60年もっ経った今そんなものはどこにもない。ただし密約は確かにあった。それは今や明らかではないか。しかし文書のかたちでなんか残っているわけがない。錫将軍は相手とだけで物事を決め、その内容を周りの誰にも漏らすような人間ではないと。
奥村さんは、現地を訪ね歩くうちに自分が初年兵として初めて、上官の命令で中国人を銃剣で刺殺した悲痛な体験をマザマザと甦らせる。城壁のまえ縛られて胸をはだけられている相手はものすごい目でこちらを睨み付けている。とてもまともには見返せられない。目を瞑って震える手で銃剣の切っ先を相手にぶつける。だが肋骨にあたって跳ね返される。上官の叱声が飛ぶ。何をやっているかーと。心臓を一突きにしろと。恐ろしくてたまらなかったと。それが初めて人殺しをした体験だと。戦争に引っ張られなかったら、私は小商人の息子として平凡な人生を送っていただろうと回想する。
戦争とは、一人の何でもない人間を殺人マシンに変えていくことだと、奥村氏は語る。
ある村を訪ねる。品の良い穏やかな老婦人と対面する。奥村さんが訊く。貴女は日本軍にどんな目にあったかと。
ある日自分の村に突然日本兵がやってきた。母と私が奥の部屋で隠れていると、見つかって引きずり出され、別の部屋へ連れて行かれ殴り倒されて、6、7人の兵士に輪姦され死んだようになった。すると隊長らしき男が父親に使いを出し金をもってこい。そうすれば娘を返してやると。父親は、僅かな羊を売って金を作り、娘が回復したらまた連れてくるからということでやっと自分をつれもどしてくれることができたと。そして村人からは日本人の女になったと軽蔑の目をさんざん向けられたと。
こう語る老婦人は目には涙を浮かべたが、決して仇の片割れである筈の目の前の奥村さんをなじろうとはしなかった。それどころか、奥村さんを見て、貴方は、今はとても中国人を殺したなんて悪い人には見えない。今はいい人に見えると静かに告げた。
中国の検察庁へ行く。そこには捕虜となった日本人の調書が何冊もの文書になって残っている。その中に今、奥村さんと一緒に訴訟を戦っている下級将校のものもあった。そこには道案内に拉致した中国人を用が終わると、自分たちの動静が敵に通報されるのを恐れて、殺してしまえということで一抱えもある石でその中国人の頭を潰したことの贖罪を綴ったものもあった。
そのコピーを見せられた、今はよぼよぼの鬼将校が、そんなことをやった記憶はまったくないと当惑する。だが事実は厳然と記録されて、この紙片が粉々に風化するまで、かの地に残されているのである。
最後に、カメラは冒頭の靖国神社の境内に戻る。境内は終戦記念日か秋の例大祭か大賑わいである。帝国海軍の旭日日章旗を掲げて行進するもの。特攻の軍装。日露戦争時の肋骨の軍服で行進するもの。模擬銃を肩に歩調を揃えてそのまま戦場へ将に逝かんとするものらが勇ましく、おどろおどろしく錯綜する。
中で一人背広の胸ポケットに白い半カチを指してマイクの前で何やら笑みを浮かべてお話になっている老紳士。誰かと見れば、あの最後の皇軍兵士、小野田少尉殿であった。
その小野田少尉殿が満場の拍手を浴びて降壇したところへ、奥村元兵長がつかつかと、とても普段の足の不自由な80歳の老齢とは思えない足取りで、歩み寄り「小野田さん、侵略戦争を賛美するんですか?」と二度三度呼びかけた。
最初は聞こえない振りかどうか、向こうへ一旦は歩み去ろうとした小野田少尉が、突然、たちどまり、キッとなってこちらを眼光鋭く睨み付けたと思うやいなや、「…終戦の詔勅を読んでないのか…」と一喝した。
その形相はフリッピンから凱旋帰国し一転ブラジルに渡り、孤軍奮闘牧場主として成功を収め、その体験を広く故国の軟弱化した青少年に伝えんと、サバイバル教室をボランティアとして開催している温和な風貌からは、想像もできないほどのものであった。
それは、まさに戦後何十年も独りでフィリッピンのジャングルで抗戦しぬいた帝国軍人の強面(コワモテ)そのもであった。
今日みた映画の画面の中で、この顔こそが私の脳裏に焼きついた一番の印象であった。
この顔こそが、今の日本人の相当数の人々の心の底流にあるあの戦争への、牢固と化石化した回答ではないのだろうか。
問題の訴訟については、最高裁は控訴棄却を宣した。
これが日本国家に、現人神(アラヒトガミ)天皇、大元帥陛下に命を投げ打って十数年を異国の荒野の戦場に身を晒した忠実なる陛下の赤子たる兵士への唯一の答えなのだろうか。国家とは、正義とは、道義とは、一体どれほどの代物というのだろうか?
と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか。
ー追記ー
今回、下記にTBいただきました、二つの記事、それぞれユニークな内容です。是非、合わせてお読みいただければ幸いです。 (10月11日記)
先日の赤旗日曜版の折込にA4の宣伝ビラが入っていた。
『怒りと悲しみと…世界初・元残留兵の長編ドキュメント映画“蟻(アリ)の兵隊”
香港国際映画祭 人道に関する優秀映画賞受賞
「国に捨てられた兵隊」-歴史の真実 満州・残留孤児の棄民だけではなかった…』
ビラの見出しにはこうあった。
実は、この映画の話、7月頃のNHK,FM日曜喫茶室で監督の池谷薫氏が司会の袴満男と対談しているのを聞いて、えっ、そんな話があるのかとびっくりして、その映画是非みてみたいものと思ったのだった。
それが、思いのほか早く、この山梨で今日上映されることとなったのである。雨のなか10時30分第一回上映に間に合うようでかけた。会場は、甲府市内の県立男女共同参画推進センターである。会場に着いたが入り口付近には何の案内看板もでていない。これは場所を間違えたかなと一瞬迷った。手元のビラを取り出して確認すると2階大研修室とあった。なるほどそうだった。
受付で切符を買い中に入る。200人は入れそうな会場に、2、30人の人しか居ない。何だか拍子抜けした。東京では、普段、この種の問題に無関心な学生たちが自主上映会まで主催していると聞いていたので、さぞかし大勢の人が来ることかと思っていたのだが…。
上映に先立ち、共催者の一つ、山梨県日中友好協会山梨支部の支部長さんの話を聞いて納得した。支部ができて2年とか、県民人口90万弱、こういう問題に関心の薄い土地柄なのだ。
映画が始まった。1時間40分が、あっという間に過ぎた。感想を書くよう求められたが、今見た内容が重くて、とても直ぐには言葉にならない。そう書いて出口の受付の人に渡してきた。
映画を、観ただけでは、何故、そんなことがあったのか、細かい経緯(イキサツ)省略されていて、大変なことだったんだなとは受け止めても、何故、戦争が終わってからも、そんな一部の人たちだけが残されて、それから三年も、中国共産党軍相手に戦争させられる羽目になったのかが、今一よく飲込めなかった。
そこで、帰宅して急いで、googleで検索してみた。こういうサイトがあった。”山西残留日本兵問題3” www1.odn.ne.jp/~aal99510/1HA_3.htm これを読んで先ほどの画面を思い出したら、ようやく事の次第がよく理解できた。
要は、はこういうことらしい。
昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏した。これに基づいて、日本軍はただちに戦闘行為を止め、しかるべき定められた相手に対して、武装解除されることに決まった。ところが、中国奥地、山西省に展開していた第一軍澄田中将、軍司令官麾下59000人は国民党、蒋介石率の指令で当地の軍閥錫将軍の下で武装解除を受けることになった。
ところが、現地は、中国共産党八路軍の攻勢が極めて強く、錫軍としてはこれに対峙するのにこころもとなかった。そこで、錫将軍は澄田中将に働きかけ、日本軍をそのまま残して自軍に力を貸して共産軍に共に当たってくれないかと持ちかけた。
事の重大さに驚いた澄田等第一軍司令部は始めは動揺しこの提案に抵抗した。しかし、協力してくれれば、澄田中将以下幹部の戦犯容疑は不問に付し無事日本へ帰れるようにしてやろうとの提案に心ならずも、心動かされるところとなった。
そこで澄田中将は、麾下部隊に一定割合で残留者を出させ、これに協力させ、自分は一足先に帰国してしまうのである。
この映画の主役奥村さん(80歳)もその一兵士として、軍(日本国家の)の命令と受け止めて、それから3年余り日本軍として、日本軍の再建を夢見て国民党軍とともに中国共産党軍と戦うが、利あらずして共産党軍に降伏し捕虜となるのである。
そしてようやく昭和29年許されて日本に帰国した。この間、残留兵2600人のうち550人が戦死したという。
ところが、無事帰国してみれば、何のことはない、自分たちは勝手に志願して現地で除隊した上、中国国民党軍閥の傭兵にされてしまっていたのだ。現地逃亡兵として軍籍も剥奪され、一切の軍人恩給、傷病手当金の受給資格も奪われていたのである。
何故、そんなことになったか?
それは、昭和31年、このことが国会で問題になり、証人として呼ばれた、第一軍幹部、分けても澄田中将が、自分は残留命令など出していない、彼らが武装解除に応ぜず勝手に現地に残ったのだと証言し、これが採用され承認されてしまったのである。
この時、同時に呼ばれた下級将校の中には、あれは軍(司令官)の命令だというものがいたがその証言は無視されたのだ。
若し、この証言を認めると、日本が国家としてポツダム宣言に違反したこととなり、再び終戦時の問題が紛糾することを恐れた政府の政治的判断で、このような理不尽な決定がなされたらしい。臭い物には蓋である。
こうして、奥村さんらは国家により白昼堂々と棄兵されたのである。
ここから、一兵士としての奥村さんの日本政府を相手とした孤独な戦いが始まるのである。映画のカメラは、ひたすらそんな奥村さんのひたむきな執念の姿を追うのだ。
冒頭、靖国神社が映し出される。その境内に奥村さんが写る。カメラマンが聞く。「お参りにこられたのですか?」「いや、侵略戦争のシンボルなんかに誰がお参りするものか」と応える。「あの侵略戦争をどう語っているかをみにきたのだ」という。
カメラは一転その傍で、焼きソバを頬張る若い子らの一グループを捉えて訊く。「ここへ何しに来ているの?お参り?」中の女の子(18、9歳?)が答える。「初詣」と、「ここに戦争で亡くなった人が祭られてるってしらないの」とカメラ氏が問う。「知らなかった。」カメラ氏が語りかける「このお爺ちゃんね、その戦争で戦って来たんだよ」と。「へえー、それはご苦労様でした」と若い子が、さっきよりは多少見直したような畏敬の目で奥村さんを見る。
奥村さんらは、この国家の決定を不服とし裁判を起こす。そして、澄田中将と錫軍閥将軍の間で日本軍を売り渡した密約の証拠を掴まんと中国へ単身渡るのである。現地に行った奥村さんは、文書の存在を求めて、当時の軍閥関係者を尋ね歩く。
漸くで尋ね会えた軍閥の参謀は、60年もっ経った今そんなものはどこにもない。ただし密約は確かにあった。それは今や明らかではないか。しかし文書のかたちでなんか残っているわけがない。錫将軍は相手とだけで物事を決め、その内容を周りの誰にも漏らすような人間ではないと。
奥村さんは、現地を訪ね歩くうちに自分が初年兵として初めて、上官の命令で中国人を銃剣で刺殺した悲痛な体験をマザマザと甦らせる。城壁のまえ縛られて胸をはだけられている相手はものすごい目でこちらを睨み付けている。とてもまともには見返せられない。目を瞑って震える手で銃剣の切っ先を相手にぶつける。だが肋骨にあたって跳ね返される。上官の叱声が飛ぶ。何をやっているかーと。心臓を一突きにしろと。恐ろしくてたまらなかったと。それが初めて人殺しをした体験だと。戦争に引っ張られなかったら、私は小商人の息子として平凡な人生を送っていただろうと回想する。
戦争とは、一人の何でもない人間を殺人マシンに変えていくことだと、奥村氏は語る。
ある村を訪ねる。品の良い穏やかな老婦人と対面する。奥村さんが訊く。貴女は日本軍にどんな目にあったかと。
ある日自分の村に突然日本兵がやってきた。母と私が奥の部屋で隠れていると、見つかって引きずり出され、別の部屋へ連れて行かれ殴り倒されて、6、7人の兵士に輪姦され死んだようになった。すると隊長らしき男が父親に使いを出し金をもってこい。そうすれば娘を返してやると。父親は、僅かな羊を売って金を作り、娘が回復したらまた連れてくるからということでやっと自分をつれもどしてくれることができたと。そして村人からは日本人の女になったと軽蔑の目をさんざん向けられたと。
こう語る老婦人は目には涙を浮かべたが、決して仇の片割れである筈の目の前の奥村さんをなじろうとはしなかった。それどころか、奥村さんを見て、貴方は、今はとても中国人を殺したなんて悪い人には見えない。今はいい人に見えると静かに告げた。
中国の検察庁へ行く。そこには捕虜となった日本人の調書が何冊もの文書になって残っている。その中に今、奥村さんと一緒に訴訟を戦っている下級将校のものもあった。そこには道案内に拉致した中国人を用が終わると、自分たちの動静が敵に通報されるのを恐れて、殺してしまえということで一抱えもある石でその中国人の頭を潰したことの贖罪を綴ったものもあった。
そのコピーを見せられた、今はよぼよぼの鬼将校が、そんなことをやった記憶はまったくないと当惑する。だが事実は厳然と記録されて、この紙片が粉々に風化するまで、かの地に残されているのである。
最後に、カメラは冒頭の靖国神社の境内に戻る。境内は終戦記念日か秋の例大祭か大賑わいである。帝国海軍の旭日日章旗を掲げて行進するもの。特攻の軍装。日露戦争時の肋骨の軍服で行進するもの。模擬銃を肩に歩調を揃えてそのまま戦場へ将に逝かんとするものらが勇ましく、おどろおどろしく錯綜する。
中で一人背広の胸ポケットに白い半カチを指してマイクの前で何やら笑みを浮かべてお話になっている老紳士。誰かと見れば、あの最後の皇軍兵士、小野田少尉殿であった。
その小野田少尉殿が満場の拍手を浴びて降壇したところへ、奥村元兵長がつかつかと、とても普段の足の不自由な80歳の老齢とは思えない足取りで、歩み寄り「小野田さん、侵略戦争を賛美するんですか?」と二度三度呼びかけた。
最初は聞こえない振りかどうか、向こうへ一旦は歩み去ろうとした小野田少尉が、突然、たちどまり、キッとなってこちらを眼光鋭く睨み付けたと思うやいなや、「…終戦の詔勅を読んでないのか…」と一喝した。
その形相はフリッピンから凱旋帰国し一転ブラジルに渡り、孤軍奮闘牧場主として成功を収め、その体験を広く故国の軟弱化した青少年に伝えんと、サバイバル教室をボランティアとして開催している温和な風貌からは、想像もできないほどのものであった。
それは、まさに戦後何十年も独りでフィリッピンのジャングルで抗戦しぬいた帝国軍人の強面(コワモテ)そのもであった。
今日みた映画の画面の中で、この顔こそが私の脳裏に焼きついた一番の印象であった。
この顔こそが、今の日本人の相当数の人々の心の底流にあるあの戦争への、牢固と化石化した回答ではないのだろうか。
問題の訴訟については、最高裁は控訴棄却を宣した。
これが日本国家に、現人神(アラヒトガミ)天皇、大元帥陛下に命を投げ打って十数年を異国の荒野の戦場に身を晒した忠実なる陛下の赤子たる兵士への唯一の答えなのだろうか。国家とは、正義とは、道義とは、一体どれほどの代物というのだろうか?
と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか。
ー追記ー
今回、下記にTBいただきました、二つの記事、それぞれユニークな内容です。是非、合わせてお読みいただければ幸いです。 (10月11日記)