蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

「殺し得許されるのか」-殺人犯、時効成立で、全てが免罪!の奇怪?―

2006-10-03 00:55:07 | 時事所感
10月2日(月)雨、時々曇り。終日、肌寒し。

 昼前、一通の封書が届いた。弟からだった。めったに手紙なんかくれたことが無い(大抵は電話ですむので)のに、何だろうといぶかりながら開封した。

「毎日のように不条理且つ残虐な事件が発生しています。これらの中でとりわけ私が最近つよく悲憤慷慨を禁じえなかった記事が同封のものです。
折りしも安倍新内閣誕生の浮かれたニュースに隠れていますが、こんな事より、この記事の方が余程重要であり注目されるべきです。一読下さい。」とあった。

同封の記事とは、
<9月25日付け、東京新聞(夕刊)  ―法廷ひと模様―28年前の殺人 2つの時効の壁、遺族「せめて民事だけは」賠償訴訟あす判決
同9月27日付け、時効の殺人賠償認めず
―足立の教諭殺害東京地裁判決―除斥期間、厳格適用
「殺し得許されるのか」―殺人時効訴訟遺族ら会見―、勝訴に向け誓い>の見出し記事のコピーだった。

 私もこの賠償請求事件のこと、知らなかったわけではない。27日のスパモニでも判決結果を報じていた。「殺人罪に何故時効があるのか?」と一人のコメンテータが疑問を呈していた。
 これに対して、別のコメンテータ(弁護士?)が、
「殺人罪といっても、時間がたてば立証がむずかしくなったり、何時までも一つの事件に関わっていられない、あるところで打ち切りにしないと、社会制度上しょうがない。
 また、この制度が導入された当時は、人間の寿命も今のように長くなかったので、このような期間を設けておけば、その間には犯人も死んでしまっているかもしれないというようなことではなかったか…。
 まあ、今のように寿命が長くなった時代においては、15年というのはおかしいですよね。早急に殺人罪における時効制度を見直すべきではないでしょうか」というようなことを答えていた。

 そして、「この犯人、人を殺しておいて、時効だからといって、退職金も、年金ももらっていて、何のお咎めも無しか?それはちょっとおかしいですね」というような、司会者のコメントで締めくくられて次の話題に移ったのだった。

 今、改めて、27日の朝日(地方版)を引っ張り出してみたら、一面は、安倍内閣発足の大見出し。

 本件事件の判決は、社会面(39面)の隅に「教諭殺害時効―殺害の賠償請求棄却―東京地裁 遺体隠し
認定」と出て、「除斥期間」に柔軟な解釈をと、(西川圭介)記者のコメントが付してあった。

 そして、この日反対の38面には、奈良女児殺害 被告、極刑に笑み 両親は遺影抱き涙 の奈良地裁が小林薫被告に下した判決記事が掲載されていた。
 
 なるほど、つい私も28年という時間の経過を聞いた中で、知らず知らずのうちに、より現在の事件、出来事に目が向き、ことの軽重を、時間の風化の中で見失っていたと思い至った。

 ただ、本件は地裁段階の判断であり、上掲、西川記者は、『最高裁は予防接種被害集団訴訟において、不法行為に基づく損害賠償請求の除斥期間を画一的に適用すれば、「加害者は損害賠償責任を免れ、著しく正義・公平の理念に反する」として、限定条件つきながら除斥期間に例外を認めた』とコメントしている。
 このことから、私は、これからの控訴審で十分まだ逆転勝訴の可能性があると信じる。

 公務員の場合、汚職か何かで処罰を受けた場合、年金が8割に減額される規定がある筈だ。それが、正真正銘の殺人犯が、いくら時効とはいえ、満額もらってこの先のうのうと何のお咎め無しでは、何のための法治国家であることか。それでは“倫理無き放置国家”に堕するというものではないだろうか。

 ここで改めて思うのは、この事件も、警察が事件発生時に徹底的な関係者の聞きこみ捜査をやっていれば、そんなに、犯人逮捕は難しい事件ではなかったのではなかったか?ということである。
 米山豪憲君をみすみす死に追いやった杜撰捜査の体質は、秋田県警能代署、オームの神奈川県警ばかりではなく、昔から連綿と流れの澱んだ地下水脈となって今に続いているのだろうか?

 と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?