蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

NHK総合、プレミアム10、“サウンドオブミュージック、マリアが語る一家の物語”を視る。

2007-02-06 03:16:03 | 日常雑感
2月5日(月)晴れ。暖。日中、陽だまりの寒暖計は18度近くにもなっていた。それでいて松木立の陰になっているところの雪は、まだ融けずに僅かに残っている。

  夜、10時から11時半まで、NHK総合、プレミアム10、“サウンドオブミュージック、マリアが語る一家の物語”を、徒然なるまま何の気なしに視てしまった。
 
  視ての結論、とても良かった! 92歳の語り手、マリア・フォン・トラップさんの「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」この言葉が…。
 
  話は、1965年に大ヒットしたアメリカ製のミュージカル映画、サウンドオブミュジックには、実在のモデルがあると、いうことから始まった。

  そのモデルの家族の一人、マリア・フォン・トラップさん(92歳)への4日間に渡るインタビューを通して、モデルとなった物語の事実が語られてゆく。
1920年代、オーストリアで幸せな生活を送る貴族一家。語り手、マリアさんの父は海軍軍人で英雄、兄弟姉妹7人の大家族、彼女はその中の次女。
  しかし、彼女が7歳のときに母が亡くなる。彼女は病弱で学校に行けない。父がそんな彼女のために家庭教師を募集する。

  応募してきたのは孤児として修道院で育ち、教師の資格をとって、修道院を飛び出してきた21歳の女性。形式に捉われず自由自在、想像力に富んだ彼女の子供たちへの接し方は、子供たちを魅了し、程なく父親の心をも捉えて、二人は25歳もの年齢の差を超えて結婚する。
  彼女は、7人の子供たちに、それぞれにパートを振り分けて合唱の楽しみを教える。
ところが、1929年の世界恐慌で、父親が全財産を預けていた銀行が破産し一家は無一文になってしまう。家族全員が打ちひしがれる中で、母、マリア(語り手次女と同じ名前)は、持ち前の創造力を発揮して、屋敷を改装して神学生のための寮にしてしまう。

  そして、ある日彼女の家にたまたま、当時、ヨーロッパで有名なソプラノ歌手が泊まることとなった。そのとき、母親が子供たちの合唱をきいてもらうこととした。
ソプラノ歌手はその合唱を絶賛し、ウイーンで開かれるコンクールに出場するよう強く勧める。出場した7人は優勝してしまい、プロモータが付き、ヨーロッパ中をトラップ・ファミリー聖歌隊として演奏して回ることとなった。

  だが、せっかく好転しかけた一家の前に突然暗雲がかかる。1935年ヒットラー、ナチスのオーストリア併合である。
  父ゲオルグと母マリアはドイツのミュンヘンへ様子を見に行く。そこで、たまたま入ったレストランでヒットラーとその側近の食事振りを見る。二人は、彼らのがさつな振る舞いしゃべりかたをみて、たちまち不信の念をもってしまう。

  そうしたある日、ヒットラーから、一家に歌を聞かせてもらえないかとの依頼が来るが、ナチスの宣伝なんかの具にされて堪るかと、一家はその申し出を断る。
  一家の運命は風前の灯となる。幸いなことに、そのときアメリカから公演依頼が飛び込む。
  その申し出を前に父ゲオルグが、家族全員にどうするかを相談する。すると、長く一家の執事を務めてきた男が、自分は実はナチス党員である。一家を見張らされている。国境は間なく封鎖される。今アメリカに行かなければ、酷い目に遭うと、忠告する。

  一家の決断はきまった。着の身着のまま、リュックに身の回りのものを詰めて、アメリカへ向かった。
映画の方は、このオーストリア脱出の際、アルプスを徒歩で越えたことになって終わるが、実際は、列車で出国したそうだ。

  無事、アメリカへ着いたとき一家の所持金は僅か4ドルだったという。
国情の違うアメリカでは、バッハの賛美歌など聞いてくれる人はいない。ましてナチス下のオーストリアから来たということで、ナチスのスパイではないかとの、疑いの目で見られる始末。

  一家の苦闘が始まる。聖歌はやめ、フォークソングなどを懸命に取り入れて、どんな小さな会場へも行って歌って回る旅暮らし。

  1941年アメリカの参戦。1943年、アメリカ市民権を申請して、長兄、次兄の二人が応召する。二人は欧州戦線に回されたのだ。かっての自分の祖国と戦うのだ。しかし、彼らはそうは考えない。ナチスを敵にするのだと。

  この間、一家は、ようやく故郷の地に似たバーモントにローンで土地を買い、父親と残された女たちで自分たちの家を作り始める。そこで畑をつくり自給自足の生活が始まる。
  1943年、ライフ誌はそんな一家のけなげな暮らしぶりを、特集に組んで報じた。一家はたちまち有名になる。
  1945年、長兄、次兄は無事戦争から帰還できた。だが、1947年父、ゲオルグは67歳で亡くなった。1948年漸くアメリカ市民権が認められる。

   1956年、トラップ・ファミリー・シンガーズは解散した。兄弟姉妹それぞれが各々の人生を歩み始めたからだ。長兄は、オーストリアに戻り医者に、次兄は酪農家に、そして三男は、一家の暮らし方を多くの人に伝えるために建てた、トタップ・ファミリーロッジの支配人に。
 
  語り手のマリアは42歳の時にかねての念願であった宣教師になりパプアニューギニアに渡る。そこでの素朴な暮らしが気に入り、引退するまで過ごしてきた。
  今、そこでもっと勉強して教師になりたいという地元の青年を養子にして、アメリカに連れてきて勉学させ一緒に暮らしている。結婚はしなかったけれど82歳で母になったのよと彼女は優しく微笑む。

  傍で、褐色の肌をした逞しい青年が、コーヒーを入れながら、養母について語る。お母さんは、過去を振り返らない。うるさいことを言わない。謙虚なひとである。お母さんから多くのことを学んでいる。お母さんのような人になりたい、と。

  彼女は、ロッキングチェアに座りながら、大きなふるいアコーディオンを取り出し、一つの曲を弾きだした。
  「この中にはねー、小さな人が入っているのよ。こうしてねキーを押して空気を入れてあげるの…。これはアルムのワルツって言う曲。オーストリアの高い山の上の牧草地を歌ったものなのよ」と。92歳とはとても思えない達者な指使いで奏でた。

  若い頃勉強したオーストリアのモーツアルティムとかいう名門音楽学校では巨匠カラヤンと並んで勉強していたとか。
  先生から、どうして貴女はカラヤンのように上手く弾けないのと注意されると、カラヤンはいつも練習ばっかりしているからよ…と、ニコっとちゃめっけたっぷりに巨匠との昔のエピソードを語った。

  一家の苦しい時に話の穂先が向けられると、「苦しいなんて思ったことはない。うちでは、“ひとりはみんなのために、みんなはひとりために”でやっていたから。お金は壷に入れてあるの。必要なものはそこから出してつかうの。お小遣いなんてなかった。母がめいめいに得意な仕事を割り振るの。私は裁縫が得意だったのでみんなの靴下をつくるのが役目だったの。それが楽しかった。今の子見ていると、お皿洗ったらはい幾らなんてことは思いもよらなかったは。」と。

  ラストは、彼女の雑木林を背景に全面には広い芝生が広がるこじんまりとした山荘を写して終わった。
  ピロティになっているテラスの両端に、どういうわけか星条旗とオーストリア国旗が括りつけてあるのに目が惹かれた。

  父、ゲオルグ、82歳で亡くなった母マリアは、今、トラップ、・ファミリーロッジの庭の木立ち片隅で静かに眠っている。

  視終わって、人生は、何があろうとも、やはり、いつも前向きに生きていけば、必ず何とか道が開けていくのではないだろうかということである。
  そう思うことは、甘いのだろうか。こんな例は、ただ運がよかっただけだよと、稀有の例にしてしまうべきなのだろうか。
  大多数は、いくらあがいたってもがいたって、今の格差社会のなかでは、どうにもなるもんではないよ。社会システムが、政治が変わらない限りと、個人の責任や資質を問うのではなく、目を大きく見開いて、こぶしを突き上げて叫ぶべきなのだろうか。

  私は、それも一理あるかもしれないが、そんな他人頼みをしていても、そんな不確かなものをあてにするよりか、やっぱり、先ずは夫婦、子供親子兄弟が仲良く助け合うことから始める意外ないのではと思うのだが…。

  そんな家族共同体の相互扶助精神を賛美するなんて、時代錯誤も甚だしいよということだろうか。
  一旦、切れ切れになってしまった、家族の紐帯、個々の人間同士の連帯を見つめなおし、取り戻そうというのは、適わぬ夢なのだろうか。

  とは言え、親が子を、子が親を、妻が夫、兄が妹を殺しあう事件を毎日のように聞かされる今、こうゆう好い話は、何かこちらの心まで明るく楽しくしてくれ、郷愁のようなものを感じるのだが…。

と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか。



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