蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

秋田県藤里町の連続児童殺害事件、畠山鈴香被告に無期懲役判決に思う。

2009-03-29 01:22:49 | 時事所感

3月28日(土)晴れなれど寒し。
 
  この2、3日、私のブログのアクセス件数がばかに増えている。珍しく何千番かにランクインしている。それはそれでやはり嬉しいものだ。だが、何故なんだろう。何が読まれているのだろうと、たどってみたら、約3年近くも前にアップした『秋田、小一男児殺害事件・畠山鈴香容疑者の生い立ちに思う。(2006.6.17)』という記事であった。
  今頃になってと考えてみたら、この事件について下記のような高裁判決がでたからなのだろう。

『畠山鈴香被告に無期懲役、検察・弁護側双方の控訴棄却
 秋田県藤里町の連続児童殺害事件で、殺人と死体遺棄の罪に問われた同町、無職畠山鈴香被告(36)の控訴審判決公判が25日、仙台高裁秋田支部で始まった。竹花俊徳裁判長は、無期懲役とした1審・秋田地裁判決を支持し、検察、弁護側双方の控訴を棄却した。控訴審では検察側が死刑を、弁護側が有期の懲役刑を求めていた。
 長女の小学4年彩香さん(当時9歳)の殺害について、竹花裁判長は「畠山被告が強い口調で、彩香さんを極めて危険な欄干に上らせ、腰を支えるのを手伝った。さらに、振り返って畠山被告に抱きつこうとした彩香さんを押し返すには相当な力が必要だった」と述べ、1審通りに殺意があったことを認定。「抱きつこうとした彩香さんを反射的に振り払った」として、過失致死罪の適用を求めた弁護側の主張を退けた。
 検察側は、殺意が生じた時点の認定を巡り、「1審判決に事実誤認がある」と主張したが、竹花裁判長は「犯罪事実自体の認定に誤りはない」として退けた。
 また、畠山被告と彩香さんの親子関係について控訴審判決は、「(畠山被告の)母親に世話を任せきりで、彩香さんとの接触に嫌悪感を抱き、彩香さんが足かせとなり、就職できないと感じていた」と述べた。
 「彩香さんが川に転落した後に畠山被告が健忘になった」とする弁護側の主張について、竹花裁判長は「捜査段階で畠山被告は彩香さんを転落させた状況を詳細に供述している。橋にいた事実を忘れようと思い込んだが、その記憶は完全に失われておらず、思い出すことができた。記憶を失ったとは到底認められない」と認定した。
 1審判決では、彩香さんを殺害した事実から目をそらそうと畠山被告が記憶を抑圧させ、2日後には「その記憶がすぐには想起されない状態だった」としていた。
 さらに、捜査段階での自白の任意性と信用性については、いずれも認めた。弁護側は「手続きに違法性があり、証拠能力がない」と主張していた。
 畠山被告は1審で、米山豪憲君の殺害については「(彩香さんの)喪失感から突発的に犯行に及んだ」などと話していた。
 ◆秋田連続児童殺害事件=判決によると、畠山鈴香被告は2006年4月9日夕、秋田県藤里町の藤琴川に架かる大沢橋で、小学4年の長女彩香さん(当時9歳)を欄干に乗せ、抱きつこうとしたところを左手で払うように体を押して落下させ、水死させた。同年5月17日午後、帰宅途中だった近所の小学1年米山豪憲君(同7歳)を自宅玄関に呼び入れ、腰ひもで絞殺、遺体を車で同県能代市の米代川岸に運び、遺棄した。(2009年3月25日11時18分 読売新聞)』

  この判決の可否について、その後、様々な評価も目にした。近く裁判員制度が始まれば、このような判断の難しい事件についても裁判員に選ばれた人は、何らかの判断をしなければならない。それは極めて困難なことだと言う意見も見た。
 
  そこで私もこの判決について、改めて考えてみた。私は、以前から、山口県光市主婦殺害事件について、このブログに記したように、故意又は殺意を以って人を一人殺したら原則死刑に処すべきと主張してきた。
  しかし、この事件のようなケースについては、豪憲君のご両親の無念を考慮してみても、死刑に処することについては、ためらわざるを得ないように思えてしまう。

  その主な理由は、前回のブログにも記したように、やはり被告の余りにも幼少時から親はもとより、成長していく過程で、周囲からの愛情のない環境に育ったことを無視できないからである。
  そのような環境の中で人間としてゆがんだ性情に育ってしまったことの全てを被告一人に背負わせる事はあまりにも救いが無く思えるからである。

  むしろこのような被告こそ、無期懲役という環境の中で社会的に教育しなおしてみて、どう変化、成長していくかを見るべきではなかろうか。
  そのことを通じて、人間にとって人間らしくあるためには、環境と教育と人の愛とがいかに必須であるかということが真に証明されることとなるのではなかろうか。

  そのような中で、いつか被告自身が自らの犯した罪の深さに目覚め、悔い、加害者に許しを乞う気持ちになったときこそ、この事件の全ての関係者にもいくばくかの救いをもたらすことになるのではなかろうか。

  こう考えて見ると、このような被告を幼いとはいえ人間二人を殺したからといって、直ちに死刑にしてみたところで、誰にとっても何の意味もないのではないか…。
  それはただ臭い物に蓋をし、捨て去ってしまうことにしかならないのではないか。これでは、無惨にも殺された幼い命達は、全くの無駄死になってしまうのではなかろうか…、と思えるのだが。
 

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