『本当は手を放す練習をしなくちゃいけないんです。人間は手をギュッと握るのは教えられなくてもできるんですが、手を開くのは練習しないとできないんです』。前回、黒岩語録その2として紹介した言葉です。
それに関わる簡単な譬え話も聞きました。『両手に荷物を持って狭い道を歩いていると思いなさい。そこへ前から車が突っこんできた。そのとき、手をぱっと開いて荷物を放り出し、体ひとつで飛び退けば逃げられるのに荷物を持ったまま逃げようとするから間に合わないではね飛ばされるんですよ』。
これは、持つという動作にしばられている稽古の問題点を指摘しているのです。さらに、持つのではなく持たされるというところまでいくと、意識の固定化に陥ります。動作の主体が相手に移ってしまうからです。これではただの傀儡になってしまいます。これがよく見受けられる、取りに振り回され派手に吹っ飛んでいる受けの実態です。
とは言え、なんでもかんでも手を開いていたら合気道の稽古になりませんから、ここは、なぜ相手の手首を掴んでいるのか、それにどういう意味があるのか、ということをわかった上でしっかり掴む、ということでなくてはいけません。受けが掴む役割を担うことで、取りはそのことに余分な意識を払わず、したがって余計な緊張を強いられずに全体の動きに専念できるわけです。
そのような稽古をみっちり積んで、意識せずとも正しい動きができるようになったら、次の段階では、というか最終的には取りが自分のほうから受けを掴みにいくのです。黒岩先生によりますと、戦前、陸軍戸山学校で大先生の指導を受けた方が、『植芝先生は自分から相手を掴みにいってポンポン投げておられました』とおっしゃっていたそうです。これは実際的武術としてはごく当たりまえのことでしょう。相手に掴んでもらわないと成り立たない武術というのは物の役に立ちません。
そしてこれが黒岩合気道の中核をなす《虚と実》の理論に繋がります。虚というのは、わたしたちが日常的に行なっている稽古法です。つまり受けに掴んでもらって技を施すやり方で、これは、方便といいますか仮の姿といいますか、本質に向わせるための一つの手段です。もちろん、決してムナシイとか嘘という意味ではありません。
そして、実の稽古の(いろいろある中の)一つが、自分から掴んでいくやり方で、本当はそこまでやらないと武術としては不十分です。ただ、自分が掴むか相手が掴むかの違いを除けば、虚の稽古の体遣いはそのまま実の稽古に通用します。そうでないと虚の稽古の意味がありません。ということは、ほとんどの稽古者は考え方を切り替えるだけで、いつでも実の技を遣えるようになるということです。(虚から実への転化法はわたしの文章力では説明しにくいので割愛します。講習会では取りあげていますので機会があればどうぞおいで下さい)。
そしてこの先に、黒岩先生が目指した《使い物になる合気道》があります。もちろんこれだけで使い物になるわけではありません。さらに重要な理論は次回以降に述べてまいります。
=黒岩語録 その3=
『師匠とすれば、弟子がすべて自分の真意をわかってくれるとは思っちゃいないけれど、逆のことを言ったとしても気づいてくれるのが本当の弟子であって、虚を真実と取り違えて喜んでいるのは、そう言っちゃ悪いですけど月謝を払ってくれる弟子にしかすぎないってことです。』
続く