合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
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121≫ 上達法

2010-02-05 17:24:42 | インポート

 いよいよ世界標準作り第3番目の確認事項、≪地道に稽古することでだれでもが上達できる方法の提示≫に入ります。その提示はわたしがするということではなく、全ての指導者、上級者の仕事です。

 まず、ここでいう≪上達≫とは何かについて認識を共有しておく必要がありあます。武技として目指すのは≪遣える合気道≫です。それに向かっての武道的体つくりと武道的体捌きを身に付けるために日々の稽古があります。それを続けるなかである程度のレベルに達することを上達といいますが、≪ある程度のレベル≫については後に述べます。

 その際、なにか特別な才能が必要とされるということでは本来の武道(弱者が強者を打ち負かす技芸)とはいえません。努力次第でだれでもできるようになる、そのために上達論が必要なのです。

 わたしはかつて職人に取り囲まれて仕事をする環境に身を置いたことがあります。一番最初に熟練した職人の技を見た時はとても普通の人が行き着けるものではないと感じられました。長年の作業により、指先が下手な道具より作業に適するような形状に変形しています。それを見ただけでも畏れ入るのですが、それでも、彼らの仕事ぶりを見ているうちにある考えにたどり着きました。それは、玄人と素人の違いは絶対的なものではなく、むしろひとつのことを成し遂げるのに必要な時間、これがおそろしく違うということです。要するに玄人は短時間で良い仕事ができるのです。それで飯を食っているのですからこれは当然のことといえます。一方、素人は玄人の仕上がりに遜色ない程度に近づけることはできますが、それにはほとんど実用的とはいえない時間がかかるということです。

 そのような職人ですが、昔は(あるいは今でも)義務教育を終えるか終えないかのうちに親方のところに弟子入りし、そのそばにいることによって技と考え方を学んでいきます。そんな子供に才能があるかないかなど、親方も本人も当初はわかりっこないのです。ですがどんな弟子でも、たゆまぬ努力を重ねることによって、お金を頂ける程度には上達していくのです。

 玄人と素人の話に戻ると、たとえば手先を使って何かを作ろうとすると、素人は目で仕上がり具合を確かめるのですが、玄人は指先で塩梅がわかります。体が道具であり秤であり物差しであり算盤にもなるのです。合気道においても、初心者と上級者の違いは、そのように体が動きの物差しになっているかどうかです。

 先日これで面白いことがありました。当会の会員に技の説明をしている時、わざと間違った動きをしてほしいと頼んだら、やろうとしてもできないと言うのです。これはダメな動きを体が拒否しているのであり、体に物差しができつつある証拠です。素人から玄人に移る大切な時期であり、これを乗り越えると視界が一気に広がることと思います。

 このように、武道的体つくりと体捌きこそが上達を語る基準となるべきものですが、そのためには細かな動きの一つひとつを正確に繰り返し繰り返し練習するしかありません。ただ、どのような動きが正しい動きといえるのか、これが非常に重要かつ難しい問題ではあります。その目安を言っておくのが、このような論を展開している者の義務だと思いますので、かいつまんで申し上げます。

 合気道の稽古においては取りと受けがそれぞれ定められた動きをする中で技が成立します。ですが、受けが決められた動きとは違った動きをしたり抵抗することもあります。こんな時に取りがどうにも出来ないようでは武道とはいえませんが、ここで言いたいことはそういうことではありません。

 取り、受けとも決められた動きをきちんとこなすのは当然ですが、仮に受けが本来の動きと違う動きをした場合、その原因は何なのかを究明する姿勢が大切です。それが単なる間違いであれば次から直せば良いのですからすぐに矯正できます。そうではなくて、取りの動きにまずいところがあって、受けに無理を強いているようなケースは問題です。受けは取りに主導権をあずけて追随して動くのですから、取りが不正確な動きをすれば受けもそれに見合った動きをせざるを得ません。とりわけ、取りが受けよりも上位者である場合、受けがクレームをつけるのも憚られ、結果として双方が間違った合気道を身に付けていくことになります。

 受けが、抵抗なく窮屈さや度を過ぎた痛みなどを感じることもなく、自然に倒れたり押さえられたりしている場合、それは間合いも崩しも含め、取り受け双方とも正しい動きをしていると言って良いとわたしは思っていますが、いかがでしょう。受けをとるのが気持ち良いとまで感じてもらえるくらいの技を出せたら最高です。これも他の武道では経験しにくい合気道ならではの妙味です。

 合気道の究極の目標は≪地上天国の建設≫ですが、遣える合気道というのはその前提であると同時に必要条件でもあります。そのために体に物差しを作る、これがわたしの上達論です。

※本ブログ管理人からお知らせがあります。

 自由な発言のやりとりを大切にしたい本ブログ使って告知するのは若干憚られるのですが、これまでわたしが述べてきていることを実際に多くの方にお伝えするため講習会を開催しようと思います。黒岩先生のツメのあかでも煎じて飲むのが先だという気もしますが、ある意味でいい時期だとも思っています。

 詳しくはわたしの主宰する大崎合気会のホームページ≪http://www14.ocn.ne.jp/~aga/≫をご覧ください。東北の片田舎までおこし頂ける方はどうぞお気軽にご参加ください。 

 


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2 コメント

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本ブログを読んでいまして、黒岩先生から教えを受... (Book)
2010-02-21 19:06:05
本ブログを読んでいまして、黒岩先生から教えを受けた、「大先生の松竹梅の剣」を思い出しました。松は一教、竹は四方(横)、梅は入身、を示しますが、居合の稽古で感じたの、触れれば切れる刀でこんな捌きが恐ろしくで出来ない。これは体術の極意(基本)を教えた方便と思ってしまいました(もっとも私の居合が未熟だからですが---)。合気道は伝統文化の伝承(師伝)ではなく、講習会形式で普及されたから短時間で世界的な広がりをもったわけですので、次世代は中身の検証する時では、と個人的感じてましたので、ブログを応援しております。
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Book 様、こんにちは。いつもご支援いただきありが... (agasan(管理人))
2010-02-22 10:44:17
Book 様、こんにちは。いつもご支援いただきありがとうございます。
刀でこんな捌きは恐ろしくてできない、というのはとても率直かつ正常な感覚だと思います。
剣が体術極意の方便というのもその通りだと思います。剣を持てば合気剣、杖を持てば合気杖という言い方が、合気道は万能だという誤解を招いています。そうではなくて、合気道家にとって剣や杖は体術を錬るための道具であるというのがわたくしの考えです。
わたくしは黒岩先生のおかげで勘違い人間にならずにすみましたが、合気道が生活向上のための武道であるならば、一番に伝えるべきは案外そういう道理(あたりまえのこと)についてであるかもしれません。もちろん理合や技法を通じてですが。
これからもいろいろご指摘ください。
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