以前に特別寄稿としてご紹介したコメントをお寄せいただいた、わたしの入門当時からの永年の道友であります TAKE様 から、この度また含蓄に富む文章を頂戴いたしました。今回も、お送りいただいた原文のまま《特別寄稿 その2》として掲載させていただきます。
合気道を愛することにかけてはわたしも人後に落ちないつもりですが、同門のよしみなどというけちくさい思惑など入る余地無く、TAKE様には一目も二目も置かざるを得ません。文章からは、柔軟でありながら安易な妥協を許さない、一流の合気道家の理念を汲みとることができると思います。
≪特別寄稿 その2≫
長い間コメントをお送りすることができず、申し訳ありません。私は宮仕えの身の上ですので、「合気道ひとりごと」を読ませていただいても、なかなか自分の考えをまとめるだけの余裕がありません。
さて、私は一昨日ヨーロッパから帰国しました。今夏は、例年のドイツ・フィンランド・スウェーデンの3カ国以外に、ロシアにも指導に行くことになり、非常にきつい日程での22日間でした。
最も、ロシアは、現地の教え子たちの昇段審査受検のための審査前指導ということで、講習会ではなく、審査を受ける有段者中心の稽古指導という形で、基本稽古を1日6時間から7時間行い、ナーバスになって良い部分が出せず、失敗しがちな彼らの支援をして来たつもりです。
ドイツの講習を終えた後、7月下旬に現地サンクトペテルブルグに入り、四段審査受検の4名を含めた人たちに、じっくり基本の確認をしてもらい、その後、私はフィンランドに入りました。最後にスウェーデンに行き、そこでロシアの30名が加わった講習会を持ち、その終わりの現地での昇段審査会で、彼らは昇段審査を受検したのです。
一回の審査会で四段が4名受検し、実力も確かなものでした。学科試験に対してもしっかりした内容で答えてくれ、納得できる審査会でした。
私の場合、ヨーロッパでの講習会では、初日に講習会であるから、ただばたばたと動いて汗をかき、自己満足するのは止めましょうと、念を押して始めます。それでも、いつの間にか参加者の多くは、普通の稽古と同じようにお互いに必死に動き回ってしまうようになります。日本でもそれは似たようなものですが、なぜ、そうなのか奇妙なことです。
技というものは、時間をかけて一つ一つじっくりと慎重に、自分の内面と話をしながら、築き上げていくものでしょう。特に基本技には高段者になっても、繰り返し行う面白味があります。
作りから崩しにかけて気配を消すように十分注意をしながら行い、自分の手・足・腰・身体全体がどのように働いているか、確認をし続けるのは楽しいことです。相手の身体が反応しづらい状態、言い換えると、相手が気がつかないままわずかに崩れていく状態を、基本の稽古で繰り返し、模索していくのは味のあることです。
肩の状態、身体の向き、臂の沈み具合、手首の活き死に、指先の方向性とゆとり、左右の手と上体の連動性等、腕の周辺だけでも働きを高めるところはいくらでもあります。
こうしたことを含めて、指導をしっかりできる指導者は、多くはないのかもしれません。
私は、日曜日に三~六段の人達を中心に、基本技と居合を稽古する会を持っておりますが、五段・六段の人達にも、基本の中の基本を注意せねばならないことが、しばしばあります。
転換の入身の際の足の指の働き・膝の沈み込みと使い方・足指と膝の方向・目付・重心移動・体の軸の作りから始まって、多くの留意点がありますが、これらは初心者の段階で作り上げておくべきことでしょう。
しかしながら、かつて、やむを得ぬことではあったとしても、初心者が初心者を教えるような世界であった斯界では、現実的に基本をしっかりと教え込むというようなことは、困難であったのでしょう。
その繰り返しの結果、初心者が初心者を教えることが特別なことではないような世界になってしまったのではないでしょうか。
この2~3年、私はどこに行っても、肩と股関節、および、その周辺のことに関して、強くものを言うようになりました。それは、あまりにも合気道修行者の肩やその他が固いからです。力んだ稽古・固い棒や氷のような足腰による受け・本人の自覚のないまま行われる押し込んで痛めつけるような二教や三教その他の締めなどが、その一因と思われます。
伸ばすべきところを押し込み、かたくなにきめて後輩に自分の強さを知らしめようとする初心者は、少なくありません。それでは、習う方は、いつの間にか肩その他が固くなってしまうことでしょう。
技の上達に、肩や股関節のしなやかな強さ・可動範囲の大きさは、大きな要素となります。そうしたことを捨ててはいけないでしょう。
上級者は、基本技の稽古を通じて、技の細部に武神がおられることを初心者に示唆できるとよいでしょう。いつか、その初心者は上達し、細部の働きの重要性に目を向ける修行者になっていくはずです。
合気道修行者の多くがまじめでしっかりと稽古に取り組む人達であるにもかかわらず、いまだに稽古法が十分とは言い難いのは、遺憾なことです。
技ではなく、気分で人を投げるような演武は見てもしかたがないでしょうし、無抵抗の人に剣をむけるような行ない(演武)は、人のモラルに関わると誰しもが思うことでしょう。
agasanの文章を十分に読むこともせず、コメントを書いてしまいました。よく読ませていただいてから、コメントを書くべきだったと、軽い後悔を持っております。
少しは書かないといけないなぁと思い続けておりましたので、対話になっていませんが、お許しください。今年、考えるところあって居合道の全国審査を受け、八段をいただきました。ヨーロッパの居合の教え子たちの昇段関係や何やかやの書類を、これから作成しなければなりません。忙しいことです。
TAKE
若い皆さんのコメントもこれからも読んでいきますよ。
実は、昨日、今日(23,24日)と、道主をお迎えしての全東北合気道連盟講習会が開催され、先ほど帰宅したところです。
ここでもやはりTAKE様が懸念しておられる通り、通常稽古の延長のような姿が数多く見受けられました。まことにもったいないことではありますが、それがその方々にとっての合気道の楽しみ方なら、そこから先はわたくしのあずかり知らぬところです。
ただそれは、わたくしには惰性に見えました。惰性からは何も生まれてきません。その反対がBook様がおっしゃる施行(思考)錯誤でありましょう。結構ではありませんか。大いに悩んでください。
そのようなわたくしたちのあり方そのものが後進に何かを訴えかけ、あらためて指導ということを意識しなくても、先達として立派に役立っているのではないでしょうか。
私は、こと技の正確性を含め「動き」が師匠に似ていると評されることにとても喜びを感じます。
常々、かっこいい動きこそ合気道と妄想を抱いておりますし、師匠の体術が芸術的でありますので、まがりになりも似ていると評されることは至上の喜びに他なりません。
さて、私もとある講習会でとある県の偉い先生と組んで稽古をしたことがあります。
二教の裏を稽古しましたが、手首を折る気でもあるのか、渾身の力を込めて痛めつけてきました。
相手を痛めつけないと二教の裏の崩しが使えないのかな~とがっかりしました。
私もまだまだそんな域ではありますが、何をされたかわからないくらい、自然に相手を崩せていることを理想としている私には、たんなる力技としか感じられませんでした。
合気道では、力とはより正確な技術のことを指すのだと思います。
腕力ならば、誰でもできるという黒岩先生の理論が成立しません。
腕力ならば、私のような小柄な者には、非力な女性には合気道を稽古する意義がなくなってしまいます。
少なくとも私は、師匠の目指す合気道についていきたいと思いますし、同じ合気道を身につけたいと思います。
講習会を意義あるものにすることは、指導する側にとっても参加者にとっても本当にむずかしいものです。ちなみに、TAKE様は来月予定されているある県支部の講習会に先立ち、参加者に向け、かなり長文の受講の心得書きを送っておられています。とても行き届いた配慮だと思います。そこまでして講習会に臨む先生は他に聞いたことがありません。
合気道の技は、遣いようによっては必殺技ともなりますが、基本的には自分にとっても相手にとっても体作り、体遣いの鍛錬のためのものであり、おたがいの理解、協働にもとづくものです。そこをわきまえないと、ただのサド趣味、鬱憤晴らしになってしまいます。どちらの偉い先生であろうとも、誤解で成り立っているような人には近づかないことですね。
大胡様はとても良い先生についておられるようですから、益々のご精進を期待しております。