習い事というのはなんでも基本が大切だといわれます。基本のことを《ものごとのいろは》という言い方をします。国語を学ぶときに最初に習うのはたしかに50音で、そこから、次には漢字を学び、短い文章を学び、古今東西の文学に親しみ、論文や小説を書いたりもできるようになります。そのように、一般的には初心者が学ぶ最も単純な知識や技術のことを基本といいます。しかし、武道の《いろは》をそれと同じに考えてよいのでしょうか。
合気道では、四方投げや入り身投げ、一教などが基本の技といわれます。新しく入門した人は、まずこの辺から指導を受けることになります。でもそれは簡単だからでしょうか。
今回のテーマは《だれでもできる》ですが、これは文字通り、みんなに開かれた合気道として大切なことだと思います。ただし、初心者には簡単な技、経験者には難しく高度な技、ということではないだろうと思います。どんな技でも、だれもができるような方法を示し、それに則って稽古すればだれでもできる、ということでなくてはいけないと思います。一つひとつの技には、もともと難易や高低などないのです。
このごろわたしの道場では基本の技のモデルチェンジ(マイナーチェンジですが)を試みています。新しい工夫というよりも、技本来の意味をより踏まえた動きに微調整しているといった方が正しいかもしれません。各々の技において、だれでもできるということを前提に、従来より合理的な方法に気が付いたからです。こうした変化は、苦労も伴いますが、うまく納まった時の喜びもまた格別です。
新たな動きを要求するので、従来の体遣いでは納まりがつかないということでは白帯も黒帯も一緒ですから、みんな同じように苦労してもらっています。有段者が片手取り四方投げや正面打ち一教などを、新人と一緒に『できない、むずかしい』などといいながら、それでも楽しそうにやってくれています。そんな様子を見ていると、合気道の基本というのは、なんと奥の深いものであるかということを感じます。
そういうわけですから、これまでと違う動きに戸惑うのは、むしろ経験の長い人かもしれません。これと同じ風景が、黒岩先生の講習会でよく見受けられます。そこには普段ごく一般的な稽古を積んでいる方が多数参加されていますから、先生の独特な技法をすんなりとは吸収できない様子が見てとれます。それまでに稽古で培ったものが役立つことは大いにありますが、逆に足枷になることもあるのかもしれません。
しかし、普段の稽古で自分の技法に疑問を抱いている人には、黒岩先生の教えは最高の処方箋となるようです。しかもそれは(ここが肝心なのですが)やろうと思えばだれでもできる方法なのです。できない人は、体が動かないのではなく、意識のほうが未体験の動き、考え方に対して躊躇や拒否をしているのです。固定観念を取り払えば大きく視界が開けてくるのですが。
ところで、だれでもできる、という方法は指導する側の能力が問われる方法でもあります。仲間を馬に譬えては失礼ですが、馬を水飲み場まで連れて行くのは馬方の責任、水を飲むか飲まないかは馬の勝手、と言われます。そのように、できるできないは究極的には本人の努力、責任に帰するものではありますが、指導する側は、これぞと思う技法を言葉と実際の動きで具体的に示さなければなりません。それなくしては師弟ともに発展がありません。弟子を見れば師匠の出来がわかる、とはこういう状況をいうのでしょう。
わたしは、それまでと違う変化を求める稽古では、指導法において位の上下や経験の長短では区別しません。そうでないと、自分の責任は棚に上げて、うまくできないのは稽古が足りないからだ、経験未熟だからだといった、指導者としての思考的怠慢に陥る危険性があるからです。それでは、だれでもできる、わけではないことになってしまいます。稽古者を肩書きで区別しないことは、自分自身への縛りでもあります。実はこれも黒岩先生から学んだことです。