今回は、TAKE様(以下T氏)から頂戴した《特別寄稿 2》を読ませていただいての感想を述べてみようと思います。
まず感じたのは、師匠と弟子というのは似るものだなぁ…ということです。以前にも書きましたが、T氏は大学の一年先輩で、わたしと同じ頃に同じ道場で合気道を始め、初段前後の頃から、西尾昭二先生や黒岩洋志雄先生のもとにいっしょに出稽古をするようになりました。その後、T氏は主に西尾先生に、わたしは黒岩先生に師事するようになりました。
西尾先生は公務員としての務めをはたしながら精力的に合気道の普及、指導に励まれました。柔道、空手、剣術、居合道等の研鑽も積まれ、海外での指導もずいぶんされました。
一方、黒岩先生は、本部での指導を退かれてからは、ご自宅からそれほど遠くない所(錦糸町、本所吾妻橋、蔵前など)に道場を借り、R大学合気道会の皆さんのようにきちんとした師弟の契りを結んでおられる方々は別として、わたしのような押し掛け弟子みたいな者たちに稽古をつけてこられました。
T氏は特別寄稿でお分かりの通り、宮仕え(ご本人の弁)のかたわら国内外に多数のお弟子さんを抱え、切れ味鋭い(わたしの想像ですが、間違いありません)合気道を指導しておられます。居合道の高段者であることは文中に読み取れますが、剣道やボクシングの経験者でもあります(このあたりは黒岩先生と共通なんですよね)。
わたしはといえば、黒岩先生の教えを支えに、郷里で細々と(しかし本物を求めて、かな)修行を続けているといったあんばいです。わたしが非才であることを除けば、それぞれ似てると思うわけですよ、なんかね。
その次です。就職や帰郷により道場を離れ、長きにわたり一緒に稽古をすることも談論を交わすこともなかったのに、実に同じようなところに気を配りながら修行を続けてこられたことを知り、喜びもさることながら、それ以上に驚きさえ感じました。T氏とわたしとでは、おそらく見た目の技法はずいぶん異なると思いますが、ここを外したら合気道ではないというところは共通しているのではないかと感じました。
それは体各部の遣い方や稽古相手への気配り、講習と稽古の違いなどに触れられた部分によく表れています。T氏が秀逸な合気道家であることの所以です(それならわたしも、ということではありませんから、念のため)。
文中、技すなわち体遣いの精密性はわたしの最も重要とするところです。また、稽古相手を尊重することの大切さもこれまで述べてきています。それぞれに所感を述べたいところですが、つい最近わたしが関わる組織で講習会(全東北合気道連盟主催で道主が講師を努められました)がありましたので、ここでは特に講習と稽古の違いについての感想を述べてみます。
T氏の論旨はまったくその通りだと思います。講習を受ける側は講師の示す通りに技を展開していくべきであり、いつもの自分の動きと異なる場合は、じっくり時間をかけて、やり慣れない動きを体と心で吟味するのが正しい対応です。しかし、多くは普段の稽古の延長上で自分流の動きをしているというのが現実で、それでは講習の意味がありません。普段と違う動きをやりたくないのであれば休んで眺めていればよいのです。大人なんですから。
また、広範囲から参加者が集まるので、よその人どうしで組むと、なんか△△道場代表とか○○支部代表みたいな感覚をもつのか、変に頑張ってしまう人も多いようです。相手も負けじと頑張るので、力比べみたいになったり、サディスティックな痛めつけあいに見えてしまいます。そんなことで汗をかくのはそれぞれの道場にお帰りになってからどうぞと思ってしまいます。
T氏はまた、初心者が初心者を教えるような状況があるとおっしゃっています。これもまことにその通りで、その人たちが漫然と稽古を繰り返すうちに段位を上げ、まわりが正当な批評すらできなくなるくらいの立場になると、その人のレベルが全体の規準となってしまいます。真摯に道(技も心も)を追究しようとする人にとっては居心地の悪いことになってしまいます。悪貨は良貨を駆逐するというのは経済の問題だけではないようです。
さて、T氏は文末に対話という言葉を使われました。このブログを通じて合気道のあれこれを語りあおうというご趣旨であろうと存じます。その一端として今回はいささかの読後感を述べました。これをご覧いただいている皆様も、どうぞこの対話の輪にお入りください。良貨を決して粗末にはしませんよ。