表裏、虚実、陰陽、内外など合気道は対語で説明するとわかりやすいことがいろいろあります。今回もそのような表現で、合気道がもたらしてくれるものについてお話します。
今回は《浮沈、軽重》。これはO道場時代に奥村繁信先生に教えていただいたものです。奥村先生は本部から派遣されて指導にあたっておられました。本業は税務関係のお仕事をされていたと記憶していますが、当時は丸い眼鏡をかけて、学者のような風貌をしておられました。以前に触れた《守・破・離》も《押さば回れ、引かば回りつつ入れ》も最初は奥村先生に教えていただきました。とても温厚なお人柄で、わたしたち初心者が間違った動きをすると『ほー、新しい技を発明しましたね』とにこにこしておられました。
さて、本題の《浮沈、軽重》です。これは、心持ちは沈静させて、動きは軽やかなのが良いという教えです(軽やかなのと軽々しいのとは違いますからご注意)。反対に、心持ちが浮ついて動きが鈍重なのはよろしくないということです。
通常、気持ちのありようが動きに現れるので、心が浮き立つと動きまで浮き立ってしまいますし、逆に沈んだ気持ちの時は動きも重苦しくなってしまいます。それではいけないということを、この言葉は教えてくれています。奥村先生は戦前、満州建国大学で合気道を始められた方で、筋金入りの合気道を身に付けられた方ですが、わたしたちに見せてくださったのは、入り身や転換のとき袴の裾が旋回舞踏のように(と言えば大袈裟ですが)きれいに開いて回る動きでした。心持は沈めて、動きは軽くという言葉通りの合気道でした。私自身は現在そのような動きはしていませんが、この言葉の意味は大事だと思っています。逆に、口の軽いのと腰の重いのはいけません(ちょっと違うかな)。
話は変わりますが、生きていく上で、主体性を保つことと周りとの調和を図ることは、しばしば対立します。これは本来対立するものではないのですが、判断の基準を一つだけに限定(自分を出すか、自分を引っ込めるか)するとそうなります。そんな時は、沈であり、かつ軽であるというような複眼的な考え方ができれば、自ずと答えは出てくるものです。
多数の人間が社会を構成している以上、それぞれが少しずつ妥協しながら生きていくことは避けようがありません。しかも、妥協の比率が皆に公平であるとは限りません。往々にして、我の強い人がより多くの利益を得るような状況が出来します。そこに不平や不満、不安が生まれるわけです。残念ながら、世間のルールの中にそれに対する合理的な解決方法はありません。
そこで合気道です。合気道は護身術でもあるわけで、護身というのは肉体だけではなく、心をも護れなければ現代武道としては片手落ちです。強い心をもたらす方法は宗教や哲学等でいろいろ紹介されていますが、武道はそれを力で手に入れようとするものです。力で手に入れると言っても、別に力ずくで無理やり奪おうというものではありません。武道の力とは、言うまでもなく武力のことです。武力とは理性にコントロールされた前進力です(最近は、そうではない武力も存在しますが、それは暴力と言うべきものです)。
とにかく、武道家はしっかりした稽古で身につけた圧倒的な武力を以って心を護るのです。例えば、小さな子供が蹴ったり殴ったりしてきても、まともな大人はさらりと受け流すでしょ。本気でやり返そうなんて思いませんよね。それは、相手と自分との間に圧倒的な力の差があるからで、それが心に余裕を生むのです。子供とはまったく違いますが、世間の邪悪な(そうまで言わなくてもいいのですが、好ましからざる状況をもたらす)存在に対しても、圧倒的な武力に支えられた強い心で立ち向かうことが武道家の誇りではないかと思っています。
黙っていればつけあがる強欲な世間に対して、どこかに防衛線を張っておくことは必要かもしれません。これだけは譲るわけにはいかない、というようなものを皆さんそれぞれお持ちでしょう。それを護るため、できるだけの受容の姿勢を示した後は、毅然として拒否すればよいのです。主体性を損ねてまで世間にへつらう必要はまったくありません。それが武道を通じて獲得できる強さだと思っています。
攻める一方ではない、さりとて護る一辺倒でもない、その辺の呼吸を合気道は教えてくれます。複眼的に。