合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
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23≫ 頓と漸

2007-06-07 13:01:30 | インポート

 これまでわたしの拙文にお付き合い頂いている方はお気づきかと思いますが、型あるいは形と記すべきところを《カタ》と片仮名で表記してきています。これは事前にその区別を明らかにしておくべきでしたが、あえてそうしなくても文意を汲み取っていただくことに不都合はないと判断したからです。それは今でも変わらないのですが、片仮名に何か特別な意味があるかのごとく受け取られるの本意ではないので、ここで簡単に触れておきます。

 型はカタと読みますが、形はカタともカタチとも読みます。その一般的な意味は辞書を引いて頂くことにして、わたしが理解している武道的な解釈を申します。

 型は《鋳型》です。決まったスタイル。指導者が教えてくださる、その通りの動き方です。入門した以上これに異論を唱えてはいけません。門下生の義務です。それがいやならやめればいいのですから。

 一方、形は《形状》です。外に現れる姿形(すがたかたち)、つまり個々人の動きです。これは、同じ鋳型によりながらも、薬缶や鍋を作るわけではないので、すっかり同じものが出来上がってくることはありません。体力、体格、稽古に対する目的がそれぞれ違うので、現れてくるものは微妙に違ってくるということです。これが個性です。

 ここで気をつけなければいけないのは、指導者の教えが《型》だとは言っても、指導者自身にとってはそれが《形》だということです。《形》はあくまでも自分の個性なのですから、指導者としては、そこのところをわかっていないと、稽古者の才能を潰してしまうことにもなりかねません。型を大切にしながらも、稽古者の個性を引き出す、これが指導者の義務です。

 稽古事の段階を表す守・破・離という言葉があります。最初は忠実に教えを守り、次の段階でそれまでの殻を打ち破り、最終的には何物にもとらわれない境地を目指すというような意味です。この言葉、茶道からきているとか能からきているとかいわれます。中には合気道からきているというような意見を述べている方もいらっしゃいます(さすがにそれは違うでしょ)。なかなか意義深い言葉だと思いますが、しかし、ここで言う次の段階とはいつなのか、最終的な段階とはどういう状況なのか、誰がそれを見極めるのかが問題です。さらに守の中の様々な段階にそれぞれ破が含まれ、破の中にも守が含まれるという複層構造になっており、段位や級などで計れるものではないのです。少なくとも白帯が守の段階で、黒帯が破の段階だなんていう単純なものではありません。

 これについて、ひとつの考えがあります。それは、ある形において、居心地がよくなったらそれが限界であり、いつまでもとどまるべき場所ではなくなったということです。次の段階(守から破へ)に踏み出す潮時です。ところが、合気道に限って言えば、多くの方がこの段階で満足しておられるように思われます。それが一番現れるのは演武です。往々にして取りのご本人は気持ちよく受けを振り回し、投げ飛ばして、実にお見事なのですが、本当はその時点で既に人前に晒すべきものではなくなっているのです(上のレベルを目指すならば)。逆説的であり矛盾であり皮肉なものです。

 それでは離とはどういう状況のことを言うのでしょう。質、量ともに優れた長年の稽古の末に、ほんの一握りの人が辿り着く所なのでしょうか。そうだとすると、多くの稽古者にとってはほとんど縁遠いレベルと言えます。どうせ獲得できないのだから、考えることさえバカバカしいことになってしまいます。

 しかし諦めないでください。離は実技の範疇ではありません。心の置き所です。武道においては理合(理屈、考え方)がわかったときです。いま自分が合気道をやっている理由と言ってもよいものです。健康法でも格闘法でも精神修養でも、なんでもいいので、その目的にかなっている、理にかなっていると納得できれば、それが離です。だれにも文句を言わせない心持と言ってもよいでしょう。ただし独りよがりになってないか、注意が必要ですけれど。

 守と破は大波小波を繰り返しながらいつまでも少しずつ(漸)前進していきます。ゴールはありません。一方、離は状況が整えば即座(頓)に辿り着けるものです。考えようによっては、守と破の後に離がくるのではなく、離によって守と破が意味のあるものになるということもあるかもしれません。

 合気道は、このように漸と頓、陰と陽、虚と実のように、表裏一体となった型がつくられ、形を楽しむようにできています。合気道が多くの人に受け入れられる所以です。