合気道ひとりごと

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24≫ 礼儀作法

2007-06-15 10:34:46 | インポート

 わたしが礼儀作法について述べるのは、ほとんど天に唾するものであることは重々承知しております。でも、それを抜きに現代武道を語れないことも事実なので、いわゆる道徳とは違う視点で、思うところを勝手に述べてみようと思います。

 礼儀作法と一口に言ってしまいますが、これは礼儀と作法という二つの言葉からなっています。礼儀は相手に対する敬意を秘めた心持ちのことです。作法は、必ずしも敬意を必要としませんが、特定の共同体において、共通の目的にかなった動作、行動を意味します。つまり、礼儀は内なるもの、作法は外に形として現れたものと言えます。

 以前当地には、食事の終わりに、少し残した味噌汁にお湯を注いで薄めた汁を一口飲み、残りを飯茶碗に移して、香の物で椀を撫で洗いし、飲み干すという作法がありました。今でもお年寄りの中にはそのようにする方がいらっしゃいます。これは雲水の食事作法からきたものかもしれませんが、庶民の間に普及させたのは伊達の殿様だという話を聞いたことがあります。食事時に他国からの間者を見分けるため、領内の者達にはそのような作法を躾けたのだということです。

 また、戦場における伝令は主人の前でも馬から降りなくてもよかったという話も聞きました。報告が終わればすぐに前線に取って返すので、降りる暇を惜しんでのことですが、そのかわり鐙から足をはずし、不安定な騎乗状態にしなければならないのだそうです。万が一にも主人に斬りかかっていくことのないように用心したのです。

 これらは実利を目的とし、敬意がなくても作法としては成り立つものです。一方、合気道では、道場への出入りから始まって、挨拶、身だしなみ、稽古場の管理など、稽古に入る前から守るべき作法がたくさんあります。これらは実利的な部分もありますが、仲間に対する敬意がなければ、とてもやれるものではありません。稽古に至っては相手を投げたり、捻ったり、絞めたりするわけで、敬意を持たずにそんなことをしたら、これはもう暴力以外の何物でもありません。おかげさまで稽古ができますという感謝と敬意は絶対に必要です。と、これはまあ力まなくても稽古を続けていくうちに自然に生まれる感情ですが。

 ところで、一般の方からすると、合気道を含む現代武道は、礼儀作法を教えてくれるものと心得ていらっしゃる方が多いようです。 わたしのところでも子供たちに指導をしていますが、以前こんな勘違いの親御さんがいらっしゃいました。『うちのこどもと遊んで頂いてありがとう。躾がなってないのでよろしくお願いします』と言うのです。合気道をライフワークとしているわたしとしては、こどもといえども同じ修行者として扱いますから、遊んでいるなんてとんでもない誤解です。それと、武道入門にあたっては『よく躾けておりますので、ご教授をお願いします』というのが本来です。

 このごろ人気の某若手ボクサーは、礼儀の面ではあまり褒められたものではありませんね。闘志をむき出しにするのはいいとしても、相手に対する敬意がまったく感じられません。プロの格闘家はそれでいいのだと考えているとしたら、それは大きな心得違いというものです。

 そもそも、人を殴ったり蹴ったりしないとご飯が食べられないというのはとても悲しいことなのです。それでも生きていくうえで選んだ道であり、対戦相手も同じ立場に立つ者です。それですから、目の前の敵が実は自分がおかれた境遇の一番の理解者なのだということくらいは気づいてほしいものです。『プロとしては試合をしないと生活できない。あなたが試合に応じてくれたから生きる糧を得ることができる。いい試合をしてお金を出してくれたお客さんに喜んでもらおう。あなたとお客さんに感謝する』。これが本当のプロの料簡というものではないでしょうか。

 人間の強さというものは獣の強さとは違います。人間の強さは愛に裏打ちされていなければなりません。合気道がそのための道標であれば嬉しいですね。