熊本地震は想像以上に大変なことになっているようです。このような事態にあって、皆さんが何を思い、どうなさりたいかはよくわかっておりますのでここで特段申し上げることはございません。とにかく一日も早く状況が安定するよう願うものです。
さて、このブログは合気道に関するものですから、世情のいろいろな局面を通じて合気道に対する認識を深めることも大切だと考えています。そこで、なんでもかんでも合気道に関連付けるのは無節操な感もあり、いささか気がひけるのですが、お叱りを承知のうえでこのたびの震災から合気道を見直してみたいと思います。
大地震をはじめ台風、津波、火山噴火、干害、雪害など、自然が猛威を振るうたびに、人間の日々の地道な営みなど簡単に吹き飛んでしまうことは、つらいけれども真実です。そのような現実を前に、それではわたしたちは日常の営みを無駄なこととして放棄してしまうでしょうか。いいえ、決してそうではありませんね。大自然の脅威と比べたら芥子粒のような人間の努力ではありますが、人類誕生以来のそのような努力の積み重ねが今を作っているわけです。これからもその努力をやめることはありません。
そこで合気道です。わたしは合気道修練の方針として、科学的、合理的であることを大前提にしています。科学的、合理的というのは、ある一定の方法をとれば大概の技法は誰にでも再現可能であること意味します。それはつまり、合気道を特別な能力を持った一握りの人の専売特許にはしないという覚悟でもあります。
そのための考え方や技法展開の方法は折に触れてここで述べてきていますが、あらためて科学的、合理的ということの意義を考えてみたいと思います。
わたしは精密機械のような仕組みと精度こそが合気道技法のあるべき姿だと思っています。これは科学的、合理的な方法でないと手に入りません。しかし、そのようなあり方は、相手が圧倒的な体格、体力を駆使するような場合にはほぼ通用しないということを、残念ながら認めざるを得ません。スイス時計がブルドーザーに踏み潰される光景が目に浮かびます。
それなら、合気道(広くは武道)の修練は無駄なことだから、それよりも体を大きくして力をつけることのほうが価値があるということになるのでしょうか。たぶんこのことは、人間の歴史は戦いの歴史であり、その中で常に戦う者の目の前にある課題であったでしょう。
そして、名のある武術家はそういう絶望的な状況をなんとか克服しようと腕を磨いてきたのです。しかしながら、やはり圧倒的な存在の前には風前の灯であることに変わりありません。それでもその克服の努力をやめられないのですね、人間というものは。
合気道が未完の武道であるということはいつも思っていることですが、未完だからこそ継続する意味があるといえます。要は、武術というものが世に現れて以来の状況が今も続いているということです。そういう意味でわたしたちは武道の歴史の渦中にあると言えます。
さて、その場合、どのような努力が求められるか、もう一度原点に立ち返って考えてみます。自然界も武の世界も、圧倒的な存在の前では無力であるという点で共通しています。しかし、武道はなんとかそれを克服したいという熱情によって発展してきました。そしてこの熱情、努力が武道に限らずあらゆる局面において人間を人間たらしめていることを忘れてはならないでしょう。
その努力の方法が科学的、合理的であるべきだとわたしは強調しておきたいと思います。なぜならば、その一定の方法のもとでは誰でも一定の果実を得られるからです。ただ、それはほんのわずかで、しかも一瞬にして消し去られるものかもしれません。しかしある意味、だからこそ人間の営みは貴重なのだといえるのではないでしょうか。いかに弱くて小さいものでも、だから大切なのだと。合気道はこのこと、人間の尊さを教えてくれる武道です。
いま困難と向き合っている人たちに余計な働きかけをするような無情で無粋なことはしたくありません(それで批判されているマスメディアがありますね)。ただ、17世紀のフランスの哲学者パスカルの有名な言葉を記しておきます。
【人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。(中略)われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。】
=お知らせ=
第12回合気道特別講習会を開催いたします。
このブログで述べている屁理屈を形にしてご紹介いたします。
詳しくは≪大崎合気会≫ホームページをごらんください。
さて、このブログは合気道に関するものですから、世情のいろいろな局面を通じて合気道に対する認識を深めることも大切だと考えています。そこで、なんでもかんでも合気道に関連付けるのは無節操な感もあり、いささか気がひけるのですが、お叱りを承知のうえでこのたびの震災から合気道を見直してみたいと思います。
大地震をはじめ台風、津波、火山噴火、干害、雪害など、自然が猛威を振るうたびに、人間の日々の地道な営みなど簡単に吹き飛んでしまうことは、つらいけれども真実です。そのような現実を前に、それではわたしたちは日常の営みを無駄なこととして放棄してしまうでしょうか。いいえ、決してそうではありませんね。大自然の脅威と比べたら芥子粒のような人間の努力ではありますが、人類誕生以来のそのような努力の積み重ねが今を作っているわけです。これからもその努力をやめることはありません。
そこで合気道です。わたしは合気道修練の方針として、科学的、合理的であることを大前提にしています。科学的、合理的というのは、ある一定の方法をとれば大概の技法は誰にでも再現可能であること意味します。それはつまり、合気道を特別な能力を持った一握りの人の専売特許にはしないという覚悟でもあります。
そのための考え方や技法展開の方法は折に触れてここで述べてきていますが、あらためて科学的、合理的ということの意義を考えてみたいと思います。
わたしは精密機械のような仕組みと精度こそが合気道技法のあるべき姿だと思っています。これは科学的、合理的な方法でないと手に入りません。しかし、そのようなあり方は、相手が圧倒的な体格、体力を駆使するような場合にはほぼ通用しないということを、残念ながら認めざるを得ません。スイス時計がブルドーザーに踏み潰される光景が目に浮かびます。
それなら、合気道(広くは武道)の修練は無駄なことだから、それよりも体を大きくして力をつけることのほうが価値があるということになるのでしょうか。たぶんこのことは、人間の歴史は戦いの歴史であり、その中で常に戦う者の目の前にある課題であったでしょう。
そして、名のある武術家はそういう絶望的な状況をなんとか克服しようと腕を磨いてきたのです。しかしながら、やはり圧倒的な存在の前には風前の灯であることに変わりありません。それでもその克服の努力をやめられないのですね、人間というものは。
合気道が未完の武道であるということはいつも思っていることですが、未完だからこそ継続する意味があるといえます。要は、武術というものが世に現れて以来の状況が今も続いているということです。そういう意味でわたしたちは武道の歴史の渦中にあると言えます。
さて、その場合、どのような努力が求められるか、もう一度原点に立ち返って考えてみます。自然界も武の世界も、圧倒的な存在の前では無力であるという点で共通しています。しかし、武道はなんとかそれを克服したいという熱情によって発展してきました。そしてこの熱情、努力が武道に限らずあらゆる局面において人間を人間たらしめていることを忘れてはならないでしょう。
その努力の方法が科学的、合理的であるべきだとわたしは強調しておきたいと思います。なぜならば、その一定の方法のもとでは誰でも一定の果実を得られるからです。ただ、それはほんのわずかで、しかも一瞬にして消し去られるものかもしれません。しかしある意味、だからこそ人間の営みは貴重なのだといえるのではないでしょうか。いかに弱くて小さいものでも、だから大切なのだと。合気道はこのこと、人間の尊さを教えてくれる武道です。
いま困難と向き合っている人たちに余計な働きかけをするような無情で無粋なことはしたくありません(それで批判されているマスメディアがありますね)。ただ、17世紀のフランスの哲学者パスカルの有名な言葉を記しておきます。
【人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。(中略)われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。】
=お知らせ=
第12回合気道特別講習会を開催いたします。
このブログで述べている屁理屈を形にしてご紹介いたします。
詳しくは≪大崎合気会≫ホームページをごらんください。