先日、わたしの主宰する会の古参のひとりが『大先生の直弟子の方々はまだしも、それ以降の師範方で、これはと言われるような方がいるのかいないのか、なかなか耳にしませんね』と、鋭いことを言ってきました。
もちろん、本部に限らず日本や世界各地において多くの優れた指導者がしかるべく研鑽を積んでおられますから、その成果として合気道が日々興隆しつつあることは疑いありません。ただ、言われるように、それらの方々は良く言えば粒ぞろい、口が曲がる覚悟で言えばドングリの背比べみたいな状況であるのもまた事実かもしせません。
合気道の発展のためには能力の高い一握りの天才がリードしていくのも良いかもしれませんが、これだけの大所帯になったいま、均質かつ良質の技法と心法を伝えていこうとすれば、誰か特定の人が突出するよりは、一定のレベルを維持できるような指導体制のあり方がふさわしいのかもしれません。
ただ、その場合、均質は均質でも低位均質では話になりません。より上等を目指し、各々自分の技法の精度を上げる努力は尽くされねばなりません。そのためには《稽古》という文字面にとらわれず、新しい工夫を取りいれることを考えるべきでしょう。
試合のある武道やスポーツでは、勝利を目指すということは古い記録を塗り替えるということです。そのため技法は常に改善、改良されていきます。合気道においても、試合の有無を除けば進むべき方向はそれらと同じはずです。しかし、多くの合気道家にとって技法の改変はあまり好意的に受け容れられているようには見えません。
なるほど、わたし程度の技量の持ち主が見ても、多くの改変は向上よりは劣化につながっているように感じられますから、あらゆる改変は厳しい淘汰の波に洗われる必要はあります。それでも、新たな工夫もせず勝手に限界を決めて、同じ事を漫然と繰り返すだけの稽古よりは、何かが生まれる可能性があります。
現実にできるできないは武道の大事ではあります。しかし、仮にできない可能性が高いとしても、たとえばいつかは師を超えるのだという志だけは掲げておくべきでしょう。合気道においては、その歴史の出発点において大先生が究極の技法、心法を示してしまわれたので、後に続く者たちは、乗り越えることができない壁を無意識のうちに心の中に築いてしまっているのではないでしょうか。師に対しては最大限の敬意を持ちつつも、いつかは乗り越えるべき対象であるという心構えで臨む、それこそが恩返しというものではないでしょうか。
わたしも、もう少し早く気づくべきでした。
もちろん、本部に限らず日本や世界各地において多くの優れた指導者がしかるべく研鑽を積んでおられますから、その成果として合気道が日々興隆しつつあることは疑いありません。ただ、言われるように、それらの方々は良く言えば粒ぞろい、口が曲がる覚悟で言えばドングリの背比べみたいな状況であるのもまた事実かもしせません。
合気道の発展のためには能力の高い一握りの天才がリードしていくのも良いかもしれませんが、これだけの大所帯になったいま、均質かつ良質の技法と心法を伝えていこうとすれば、誰か特定の人が突出するよりは、一定のレベルを維持できるような指導体制のあり方がふさわしいのかもしれません。
ただ、その場合、均質は均質でも低位均質では話になりません。より上等を目指し、各々自分の技法の精度を上げる努力は尽くされねばなりません。そのためには《稽古》という文字面にとらわれず、新しい工夫を取りいれることを考えるべきでしょう。
試合のある武道やスポーツでは、勝利を目指すということは古い記録を塗り替えるということです。そのため技法は常に改善、改良されていきます。合気道においても、試合の有無を除けば進むべき方向はそれらと同じはずです。しかし、多くの合気道家にとって技法の改変はあまり好意的に受け容れられているようには見えません。
なるほど、わたし程度の技量の持ち主が見ても、多くの改変は向上よりは劣化につながっているように感じられますから、あらゆる改変は厳しい淘汰の波に洗われる必要はあります。それでも、新たな工夫もせず勝手に限界を決めて、同じ事を漫然と繰り返すだけの稽古よりは、何かが生まれる可能性があります。
現実にできるできないは武道の大事ではあります。しかし、仮にできない可能性が高いとしても、たとえばいつかは師を超えるのだという志だけは掲げておくべきでしょう。合気道においては、その歴史の出発点において大先生が究極の技法、心法を示してしまわれたので、後に続く者たちは、乗り越えることができない壁を無意識のうちに心の中に築いてしまっているのではないでしょうか。師に対しては最大限の敬意を持ちつつも、いつかは乗り越えるべき対象であるという心構えで臨む、それこそが恩返しというものではないでしょうか。
わたしも、もう少し早く気づくべきでした。