前回、師を超えろと、やや挑戦的な主張を述べました。でも、やはりこれは正しいのではないかと思っています。
師たる者、(まともな人格者であれば)自分の持てる全てを注ぎ込んで後を襲う人材を育てようとするに違いありません。そうしなければその世界は必ずレベルダウンするからです。師を超える人が輩出されないことの当然の結果です。
そしてもうひとつ、とりわけ合気道のように試合のない武道においては、師の能力を証明するのは往々にして師自身よりは、その教えを受けた門人の出来不出来によります。だからこそ弟子は一所懸命努力して師を超えてみせなければなりません。それが親(師匠)孝行というものです。大相撲の世界でも、世話になった先輩を負かすことを恩返しといいます。健全な競争とはそういうものでしょう。
でも、いずれ師を超える日が来る、とはとても考えられないというのが実際でしょう。わたしもその一人です。師が優れた方であればなおさらです。しかし、それでもやはり超える努力は続けなければなりません。それが師の望みであるだろうからです。
さて、それでは何をどのように超えていくべきか、そのことを考えてみましょう。結論を言ってしまえば、技法の精度を上げていくということです。
師の技法は師の個人的肉体的条件、つまり筋力、持久力、瞬発力さらには視力や反射神経などに制約される、あくまでも師個人の財産であるということが言えます。簡単に言うと、たとえば背の低い師の体遣いを背の高い弟子がそのまま採用することには無理があるといったようなことは理解しやすいでしょう。その限りにおいて、師の技法は師個人の枠を越えることはできません。
それでも、教授にあたってはその師個人に帰属する技法をなんとか普遍性のあるものにしようと工夫するはずです。ただ、教えを受ける側は、その普遍性が必ずしも本来の意味における普遍性ではなく、先鋭さを犠牲にした最大公約数的技法であることを理解すべきでしょう。そこで割愛された部分に重要なファクターが含まれる場合もあるかもしれません。それを見つけ出すことも弟子の義務です。なにしろ、そこから師匠超えが始まるのですから。
ここまで述べたことは、技法の精度を上げようということに関してです。一方、技法の対語としては理法や理合というものがありますが、これは変更や変革になじみません。理というものを変えた時点で、その人はその師の門人とは言えなくなってしまうからです。見た目が同じでも、精神が異なればそれは既に別の物事であることはご理解いただけると思います。大先生の精神を否定して合気道家は成り立たないということです。
ただ、それはその人の変革を否定するものではありません。門人ではなくなったというだけのことで、新しい流儀を確立したということかもしれません。それも師を超えるひとつの方法と言えないこともないでしょう。
いま、わたしの主宰する会の稽古においては、たとえば足運びや手の置き所など、体遣いの一つひとつについて相当細かく指示をします。稽古する側の会員にとっては、なんと面倒くさいことかと思っているかもしれません。
しかし、わたしが理想とする合気道を厳密に伝えようとすると、そうせざるを得ないのです。しかも、そのようにすることによって合気道が本来持っている合理性に気づいてもらえるのですから、これは正しい稽古法ではないかと自画自賛しています。合理的な方法に則れば、だれがやっても上手くできるのです。ですから、白帯の人でも有段者に比べて遜色の無い技を展開しています。
誤解の無いように言い添えますが、それらはなにもわたしのオリジナルということではありません。合気道の稽古法にはもともとそのような働きが潜在的に保持されているのです。教える側も教えられる側もそれに気づくかどうかです。まあ、教える側の責任が大きいとは思いますが。
合気道のカタ稽古(古流などにおける厳密な意味での型稽古とは違いますが)は目に見える動きの中に、単にそれに止まらない深い意味を隠し持っていることにどうか気づいてください(この件、文章では表しきれないので、わたしの主宰する講習会でお伝えします。5月頃を予定しています)。
師たる者、(まともな人格者であれば)自分の持てる全てを注ぎ込んで後を襲う人材を育てようとするに違いありません。そうしなければその世界は必ずレベルダウンするからです。師を超える人が輩出されないことの当然の結果です。
そしてもうひとつ、とりわけ合気道のように試合のない武道においては、師の能力を証明するのは往々にして師自身よりは、その教えを受けた門人の出来不出来によります。だからこそ弟子は一所懸命努力して師を超えてみせなければなりません。それが親(師匠)孝行というものです。大相撲の世界でも、世話になった先輩を負かすことを恩返しといいます。健全な競争とはそういうものでしょう。
でも、いずれ師を超える日が来る、とはとても考えられないというのが実際でしょう。わたしもその一人です。師が優れた方であればなおさらです。しかし、それでもやはり超える努力は続けなければなりません。それが師の望みであるだろうからです。
さて、それでは何をどのように超えていくべきか、そのことを考えてみましょう。結論を言ってしまえば、技法の精度を上げていくということです。
師の技法は師の個人的肉体的条件、つまり筋力、持久力、瞬発力さらには視力や反射神経などに制約される、あくまでも師個人の財産であるということが言えます。簡単に言うと、たとえば背の低い師の体遣いを背の高い弟子がそのまま採用することには無理があるといったようなことは理解しやすいでしょう。その限りにおいて、師の技法は師個人の枠を越えることはできません。
それでも、教授にあたってはその師個人に帰属する技法をなんとか普遍性のあるものにしようと工夫するはずです。ただ、教えを受ける側は、その普遍性が必ずしも本来の意味における普遍性ではなく、先鋭さを犠牲にした最大公約数的技法であることを理解すべきでしょう。そこで割愛された部分に重要なファクターが含まれる場合もあるかもしれません。それを見つけ出すことも弟子の義務です。なにしろ、そこから師匠超えが始まるのですから。
ここまで述べたことは、技法の精度を上げようということに関してです。一方、技法の対語としては理法や理合というものがありますが、これは変更や変革になじみません。理というものを変えた時点で、その人はその師の門人とは言えなくなってしまうからです。見た目が同じでも、精神が異なればそれは既に別の物事であることはご理解いただけると思います。大先生の精神を否定して合気道家は成り立たないということです。
ただ、それはその人の変革を否定するものではありません。門人ではなくなったというだけのことで、新しい流儀を確立したということかもしれません。それも師を超えるひとつの方法と言えないこともないでしょう。
いま、わたしの主宰する会の稽古においては、たとえば足運びや手の置き所など、体遣いの一つひとつについて相当細かく指示をします。稽古する側の会員にとっては、なんと面倒くさいことかと思っているかもしれません。
しかし、わたしが理想とする合気道を厳密に伝えようとすると、そうせざるを得ないのです。しかも、そのようにすることによって合気道が本来持っている合理性に気づいてもらえるのですから、これは正しい稽古法ではないかと自画自賛しています。合理的な方法に則れば、だれがやっても上手くできるのです。ですから、白帯の人でも有段者に比べて遜色の無い技を展開しています。
誤解の無いように言い添えますが、それらはなにもわたしのオリジナルということではありません。合気道の稽古法にはもともとそのような働きが潜在的に保持されているのです。教える側も教えられる側もそれに気づくかどうかです。まあ、教える側の責任が大きいとは思いますが。
合気道のカタ稽古(古流などにおける厳密な意味での型稽古とは違いますが)は目に見える動きの中に、単にそれに止まらない深い意味を隠し持っていることにどうか気づいてください(この件、文章では表しきれないので、わたしの主宰する講習会でお伝えします。5月頃を予定しています)。