合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
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184≫ オリンピック点景

2012-08-03 15:53:21 | インポート

 きょう日、テレビでは一日中オリンピックの話題を取りあげています。オリンピックに出場するくらいの一流の競技者からは、種目を超えて学べることがあります。それは競技結果そのものからではなく、むしろそこに至るまでの経緯すなわち努力の中に見出すことができます。見る者はそこに敬意を払うのです。それにはもちろん国籍、人種などというものは関係ありません。

 しかしまた、それと似て非なるものに、進歩的(と称する)文化人や新聞などが発する、国などというものを気にせず、個人として競技に取り組み楽しめばよいのだというような意見があります。が、当の選手本人が『日本で応援してくれている人たちに喜んでもらえるように日の丸を背負って頑張ります』というようなコメントを発し、わたしたちも日本人選手の成績に一喜一憂する、これが現実であり自然な反応というものでしょう。日本人が国家を意識すると困る人がいるのでしょうか。

 ところで、今回のオリンピックで使用されている≪君が代≫は斉唱用の前奏付きですね。あれは、相撲の千秋楽のように全員起立のもと皆で歌うならいいですけれど、オリンピックのセレモニーにはどんなものでしょうか。また、北朝鮮と韓国の国旗や呼称を間違えたりもしているようで、そんなこんなで英国人らしからぬ手違いが多いようです。テロ対策で街なかに大砲だかミサイルだかを配備しているわりに、入場行進に部外者が簡単に紛れ込んだりしていますしね。

 さてここは武道のブログですから柔道に関して触れておきましょう。 

 その柔道、きょう(8月3日)までのところ、多くの国民の期待値(もちろんごく勝手な)を100とすれば60点くらいのところでしょうか。60点というのは大学の試験でいえばぎりぎりの合格点、わたしの出た大学では≪可≫と評しますが、人によってはその下の≪不可≫と見ているかもしれません。

 しかし、これ(わたしも含めた部外者の評価)もまたこの競技に対する偏った見方に起因していると言わざるを得ません。競技においては強い者が勝ち、弱い者が負けるという明白な結果が待つのみです。日本発祥といえども、競技としての合理性にもとづくルールの中では、練習の量と質、それにいささかの天性によってもたらされる優位性が勝敗を決定します。本家だの宗家だのという看板はこの際なんの足しにもなりません。

 60点だから八つ当たりして言うのではありませんが、オリンピックで見るような柔道は武道である必要はないと思うのですが、いかがでしょうか。つまり、レスリングはスポーツだが、柔道は武道であるという分け方に合理的理由はあるのかということです。

 現代武道のもとになっている武術は、そもそも敵を制圧、あるいは殺害するための技術です。その制敵技法を精錬する過程で、心のあり方が工夫されました。それが結果的に人格形成、精神教育に利するということから、道(人倫)を武術のサブタイトルとしたというのが術から道への経緯でしょう。

 それでは現代武道家がすべて人格者であるかといえば、それははただの幻想に過ぎませんが、そのような要求があることもまた事実でしょう。中学校での武道教育導入がそれを表しています。人を殺す技を用いて人を活かす方法を編み出した先人の知恵にはただただ脱帽です。それこそが、現代において武道が市民権を得ている最大の理由でしょう。まがりなりにも武道は体技の面から道徳教育の一端を担う手段のひとつとして認知されていることになります。

 武道に対するそんな背景や期待もあってか、今回のオリンピックでも、日本選手の多くは、勝っても負けても最低限の品位を失うことのないような気遣いをこれもまた60点程度には持ち合わせているようです。

 しかし、外国選手のほとんどは勝てば諸手をさし挙げて素直に喜びを表しています(日本人選手に全くないわけではありませんがね)。オリンピックの場において、勝者としての慎み、また敗者の諦観など、武道家なら普通に持ち合わせる徳目は特に求められていないようです。ここにおいて、柔道はJUDOとなり、武道ではなくスポーツになったことが見てとれます。良いか悪いかではありません。本質が変わったのです。競技化、国際化とはそういうものです。

 それにしても、道着の乱れも気にせず、帯を結び直すときも立ちっぱなし、吊り手は誰も彼も奥襟ばかり、わたしの知っている柔道とは明らかに違います。

 嘉納治五郎師は残念でしょうが、師自身、それまでの伝統的稽古法のうちのひとつに過ぎなかった乱取りを用いて競技化し、柔術の世界に質的転換をもたらしたのですから、現在の姿に至るまでの変遷のエネルギーは師の時代からもともと内在されていたものと考えてよいでしょう。

 さてしかし、わたしはやはり武道の香り高い柔道が好きです。そこで提案します。柔道の総本山たる講道館はこれまで世界に向けての柔道の普及に最大の役割を果たし、その功績は大いに賞賛されるべきものです。そこまではみんなわかっています。ですから、それはもういいじゃないですか。他のだれかがやってくれます。

 これからは武道本来のあり方に立ち戻り、講道館のモットーである精力善用、自他共栄を事実として表す方策を、すべての柔道家に示すことに注力されてはいかがでしょう。そのために必要なことは、哲学的思索ではなく、日常の稽古とそれにつながる試合のありようの改革(あるいは先祖返り)です。

 その場合、東京オリンピックでヘーシンク戦に苦杯をなめた神永昭夫氏が、後に指導者となり『子供のころから試合が多すぎる。技が身に付かずかたちも決まらないうちは試合をすべきではない』と言われたことは傾聴に値します。(神永氏は既に故人ですが、人格者として知られており、JUDOが柔道で、武道であった時代の香りを感じます。ちなみに氏はわが県の出身で、仙台にはお身内の経営される飲食店があり、わたしもお邪魔したことがあります)。

 それはいいとして、提案を続けますが、講道館は高段者が見せてくれる、起倒流に源を発する古式の型をもっと普及させてはいかがでしょう。体力のピークである20代で一線を退くのでは、達人は出てきません。試合に関係なく技法の研鑚を積むためには、古式の型を楽しみながらの熟達者ならではの修行というものがあるのではないでしょうか。

 また、試合は礼儀正しく、昔通りの一本か技ありだけ、もちろん体重別なんてありません。そのかわりツボにはまったら電光石火の早業が観るものの度肝を抜く、そんな柔道を見てみたいものです。全日本選手権がそれに近いのですが、やはり世界に出て行くことを前提にしているので、ポイントによる勝ち負けや大男だけが活躍する様子は、本来の姿とは趣を異にしていると言わざるを得ません。

 柔道は良くも悪くも競技化、国際化に伴う課題をわたしたちに突きつけました。合気道は試合がない分、変質の度合いが小さいのだと思いますが、これとても、ぼんやりしていたらどうなるかわかりません。事実、国々の事情によって求めるものが違います。そのような環境の違いによっても変わることのない核をしっかり確立しておく必要があります。

 ある人から、オリンピックに剣道はないのかと尋ねられました。ご存知のとおり、世界選手権はありますが、日本の武道に分類されるものでオリンピックに採用されているのは柔道だけです。それも、上に述べたように今や武道の枠から外れようとしています。海外展開はそのあたりのことも良く考えて行なうべきではないでしょうか。なにしろ剣道のもとになっている剣術は日本武道の精華なのですから。

 某国が、剣道の起源は自国にあると言ったとか言わないとかいうオハナシもあることですし。