合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
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120≫ 武術性の意味 

2010-01-28 15:59:25 | インポート

 このたびの黒岩洋志雄先生のご逝去に際し、このブログを通じ多くの方から哀悼のお言葉を賜りましたこと、門下に連なる者として心から御礼申し上げます。

 いよいよもって、自分の責任と能力において先生の遺産を次代につなぐ役割を果たすべき時が来たという思いです。皆様からの一層の叱咤を望みます。

 さて本題です。 

 先般申し上げました世界標準作りにあたっての2番目の確認事項であります≪現代武道における武術性の意味≫について今回は考察いたします。正確にいうと、現代武道たる合気道に対し、必ずしも闘争技法としての武術性が期待されているわけではなく、また合気道家自身もそれを是とする現状が本当に正しいのかを確かめようということです。これもまた、わたしの勝手な思い入れではなく、開祖植芝盛平先生(大先生)をはじめとする先師方の言動をもとに、その意味を明らかにしてまいります。

 大先生は愛と和合を説かれ、争いの手段ではない、世界平和や社会の向上に寄与する武道としての合気道を世に示されました。このことは合気道が現代社会に受け容れられるための最重要要件であろうと思います。ただしここで争いの手段ではないという意味は、単に卑怯未練に争いを避けるということではなく、圧倒的な差をもって勝利するだけの力量を持つゆえに争いを未然に防ぐことができるということであらねばなりません。その力量を身につけることこそが日々の稽古の中心であるべきなのです(わたしがその力量の持ち主であるということではありませんのでお間違いなく)。

 このことは終生武人であられた大先生にとってはごく当たりまえのことだったのではないでしょうか。大先生は≪勝つ≫ということを合気道理解の中核に据えておられます。たとえば、合気道の技の解釈について問われた際に『要約して「正勝」「吾勝」「勝速」になります。正勝は正しきに勝つ。吾勝は自己に与えられた天の使命に打勝つ。勝速とは速きに勝の心いきです』とおっしゃっています。この言葉はよく用いておられますが、もともとの出処は古事記の神代などに登場する≪正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命:まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと≫に由来します。この神は天照大神と建速須佐之男命との間に諍いが起きたとき、勝った(どちらが勝ったかは異説あり)ことの証として誕生した神です。ですから、命名の原点において勝つことが意識されていた神であり、大先生はそこから引用されたのですから、≪勝つ≫ことは武道たる合気道の重要なキーワードといえます。もちろんそれは単に敵対するものに勝つというようなレベルのものだけではないことは言うまでもありません。

 また、二代道主吉祥丸先生は、『合気道が武道である限り、それは飽くまでも強くなければならない。どんな邪まなものが来ても、いかなる不正な事象に対しても、断乎としてこれを払いのけて、正しきを護るだけの強さは常に持っておらなければならない』(合気道:光和堂)と明確におっしゃっています。ここまではっきりと方向を示されたら、わたしたちが何をすべきかはもはや議論の余地がありません。すくなくとも日々の稽古においては一つひとつの技法と丹念に取り組み、体を錬り、≪遣える合気道≫を目指して努力するのが本来のあり方です。

 ただし勘違いしてはいけないのは、一つひとつの技法と丹念に取り組むといっても、それがそのまま武術的に、というか制敵技法として有効であるということではありません。言い方を変えれば、そのままでは遣える合気道とはならないのです。なぜならば、見える形で表されているものは技法の一表現形式ではあるけれどもその全てではなく、しばしば真実は巧妙にあるいは意図的に隠されているからです。

 大先生は、同じ技を二度見せたら盗まれるといって、弟子の前でも一回だけやって見せてさっといなくなってしまうのが常だったそうです。そんなことですから、それぞれの技法がもつ意味を懇切丁寧に教えたとはとうてい思えません。しかし開祖であり指導者であるわけですから、ニセモノを教えたわけではありません。自分が示したものの中から本当の価値を探り当てろ、それをわかった者が技を継げばよいということだったのでありましょう。合気道の上達には真面目な稽古以外に特別の才能を必要としませんが、あえて言えば、この真実に気付く能力が将来を左右することはあるかもしれません。

 表には本物を出さないというのは伝統武術にもよく見られる考えで、それはやはり武術が持つ危険性への配慮(悪用されないため)と見破られて敗れることへの警戒心からくるものでしょう。同様の対処をしておられたということになると、大先生の武人としての面目躍如たる語り草ではあります。

 さて、以上のように、合気道が闘争技法としての武道、武術の埒外にあるものではありえないことはご理解いただけると思いますが、だからといっていたずらに敵だとか勝敗だとかの言葉を持ち出して薄っぺらな闘争心や功名心を煽るのはまともな大人のなすべきことではありません。そこのところを吉祥丸先生は前掲著において次のように戒めておられます。

 『およそいかに立派なものと思われ、どんなにすぐれたと考えられるものであっても、それが永久不変の本質を備えると共に、その時代に正しく即応して生き得る社会性がなければ本物ではない』。

 つまり、武道としての矜持を保ち日常生活に資するものであるべきだということです。その上での武術性であって、現代に生きる武道として、社会に善を働きかけ、その社会と調和することこそが先人の願いであり、わたしたちの務めであることを忘れてはいけないでしょう。