合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
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119≫ 合気道の徳

2010-01-14 14:12:37 | インポート

 人生を豊かなものにするために、わたしたちは日々の生活に趣味や娯楽を取り入れ、その助けとします。そういう中でわたしたちの場合は何らかの縁で合気道に出会いました。世の中には面白くて楽しいものがたくさんある中で、あえて合気道を選択し、今もって続けているからには、そこには他にない優れた点があるからだろうと思います。それがいったい何であるのか探ってみようと思います。

 一般の方でも≪武道≫といえば≪心身の鍛錬≫とすぐ口をついて出てくるくらい、武道には楽しさ以前に体を鍛え身を修める手段としての役割を期待されています。ここで、身体の鍛錬はわかるとしても、武道と心の鍛錬がどのように結びつくのかについては少々考察が必要です。

 普通は、厳しい稽古を乗り越えることで忍耐力がつくとか、克己心がつくといったような捉え方がなされます。ここでの心の力は直接的には己自身に向けての精神の強さであって、他に対する配慮を意味するものではありません。それはそれで結構ですが、道を通じて身に付けるべき徳とは要するに≪道徳≫であって、これは社会の一員としての個人が全体の幸福にいかに寄与するかということを眼目とします。

 道徳は善悪という概念と基準が確立されていることを前提に成り立ちます。しかしながら武道そのものに善悪を判断し、かつ善を勧める機能が内在しているというわけではありません。そのようなものは、日本においては儒学などを通じて教育されてきたのであり、したがって、武道をすることがそのまま道徳的人間をつくることにつながるということではないのです。

 ところが、合気道においては開祖の遺された哲理により、合気道をすること自体が世界に平和をもたらす営みであるとされています。なぜかと問われても、その因果を正しく説明することはわたしにはできませんが、開き直って言えば、座禅をしたり南無〇〇と唱えれば悟りに至るとか救済されるということだって合理的に説明することは難しいのと同じです。このあたりが合気道が宗教的側面を持つといわれる所以です。

 開祖の身近におられた方々の中には、この領域とは距離を保っていた方が多いようで、開祖ご自身が『嫌うべきものではないのに』とぼやいておられたとかおられなかったとか。いずれにしろ、合気道がそのような背景をもった武道であることをわたしたちは認識しておくべきであろうと思いますし、素通りするわけにもいきません。

 これは開祖の霊的直感と神道の素養にもとづく宇宙観によるもので、その核となる観念は≪むすび≫です。むすびとは陰陽、強弱、表裏といった対照的な力の和合によってあらゆるものが産み出されるという考えです。その原理を武産合気(たけむすあいき)と称します。森羅万象の形成から日常的現象にいたるすべてがむすびによって成り立っていて、むすびに順なるものが善であり逆なるものが悪ということです。合気道はそのむすびの武道的表現であって、それがそのまま禊であり祓いであり、そして生成のエネルギーであるとしています。したがって合気道をすることによって世界を清らかにし、豊穣の世を作り上げることができるというのが開祖のお考えで、これを地上天国の建設と表現されました。

 もちろん、そのようなことに頓着せず、一般の武道と同じようにただ純粋に合気道を楽しむことにまったく問題はありません。ただその場合、道徳を語るにあたっては別に教学を導入することを求められるかもしれません。

 ところで、開祖の哲理は宗教的ではあっても宗教そのものではありません。宗教は信じないとその哲理の恩恵に与ることはできませんが、神道がそうであるように合気道が依って立つ哲理は信ずることを強制しません。そうであっても、宇宙の仕組みを知らなくても太陽の恩恵を平等に受けているように、また自分の知らない自分以外の多くの存在のおかげで生かされているように、意識するしない、認める認めないにかかわらず、わたしたち合気道家が開祖の宇宙観の中にあることには変わりないのです。ですから、わたしたちは何事もないかのように普通に生き、そして合気道から汲めども尽きぬ、清らかで優しく強い力を吸収していけばよいのです。

 わたしたち一人びとりの力は微々たるものですが、合気道に親しむことによって、自分自身の日常生活をより豊かなものにすることはもちろん、少しでも世界平和と人類を含む全ての存在の和合に貢献していると考えると一層楽しいではありませんか。これを合気道の徳と申します。