このブログの読者は、ある程度修練を積んだ方が多いようなので(実数はそれほど多くはないでしょうがね、こんなくどい文章に付き合ってくださる方は)、今回はそんなレベルの方々が出会うであろう稽古のありようについて述べてみます。
稽古を積んでそこそこ動けるようになると、カタと称するただの約束に基づく動きでは物足りなくなってきて、取り、受けどちらの場合でも、その約束の枠を外れてみたらどうなるか、そんな思いにかられることはないでしょうか。単なる興味で普段と違うことをやってみたくなることもあるでしょう。また、受けをとっている時、あまり崩れていないのにカタ通りに運んでは、かえって相手のためにならないんじゃないかとか、取りのとき、受けが間違ったのに、それを直させるのではなく、こちらの動きを変えることで対応してみるとか、そういうようなことがあると思います。
そのような気持ち、わたしはよくわかります。稽古を重ねるうち、決められたカタ通りに投げたり押さえたりすることは実際にはなかなかできないのだということがわかってくるからです。善意であれ悪意であれ(そういう人はあまりいないと思いますが)、相手が少しでも抵抗したりすると、とたんに技がかからなくなるという経験は誰にもあるのではないでしょうか。そのような場合の対処法は、これまで多少紹介してきていますが、今回のテーマは、そもそも稽古においてそういうこと(イレギュラーなこと)をしていいものかどうかということです。
まず結論を言っておきましょう。とりあえず初、中級段階においてはダメです。それは、合気道に何を求めるのかという本来の目的に適わないからです。健康法であれ実戦的格闘法であれ、中心となるものを確立しないまま対症療法的な稽古を続けても、何も得るものはありません。
わたしは合気道の稽古に必要以上に精神論を持ち込むのは好みませんが、だからといってただ相手を投げたり押さえたりするのが究極の目的だとも思いません。真理はちょうどその真ん中くらいにあって、それは稽古を通じて武道的身体を作ることとその遣い方を学ぶことだと思っています。その過程で武道的思考法も身についてきます。
そうだとすると、技の上手下手はとりあえず措いといて、カタの示すところに従って適度な負荷を与えながら体を動かすことで、まずは核となる部分を練り上げることが大切なのではないでしょうか。その実践の過程で、うまく技を施すことができなくてもさしあたり気にすることはありません(どうせ大部分の人が上手にはできていないのですから)。
そして、多くの人にとっては、以後もここまでのレベルを保つことで十分だと思います。少なくとも平均値以上の合気道にはなっているでしょう。
さて、合気道に対してある種の思い入れがある、端的に言うならば、自身の実力はいざ知らず、合気道そのものは強くて優しい理想的な武道であるとお考えの方々は、さらなる上を目指すことでしょう。そのうち優しさは人格に属するものですから、それは個々におまかせしましょう。そこで強さですが、これはやはりカタ通りの稽古では乗り越えられない壁があるのも事実です。そこで工夫が必要となり、それに応じた稽古法が求められるわけですが、この段階の技法は正規の稽古カリキュラムにはありません。なぜならば、それは現代武道としての合気道の幹をなすものではなく、枝葉に属するもので、はっきり言えば、やらなくても良いものだからです。
でも、やってみたいですよね、武道家としては。しかしこれはなかなか良師を求めて、というわけにはいかないのが現実です。ですから多くは自分で工夫することになるのですが、その場合は『これは正規の技法ではないよ』ということを稽古相手に伝え、互いの了解のもとで、行なってください。それも道場の隅っこで遠慮がちに。それを見て先生がいやな顔をしたらすぐやめましょう。本当は人に見られるようなところではやらない方が良いくらいのものです。工夫技法というのは、相手に勝ちたいという、やや未成熟な思いの表れですから、大人にはちと気恥ずかしいのですよ。本当は実効性があるので他人に見せたくないということもあるのですがね。いずれにしろ、思い入れのある方だけのひそやかな楽しみに留めておくべきものかもしれません。
それでもひとつだけ肝心なことを書き添えておきましょう。技に工夫を加える場合に必要なのは、合気道の知識よりは他武道の知識であるということです。合気道のように決められたカタを繰り返す武道では、どうしても独善的な技法と理法(事と理)に陥りがちです。それを矯正してくれるのが他武道の存在です。それに通用するものでなくては、工夫もなにもあったものではありません。
重ねて言いますが、わたしはこれを一般の愛好者に求めているのではありません。一定以上のレベルにあり、さらに強く優しい(絶対不敗の)合気道を実現したいと思っている人に向けての話です。