合気道ひとりごと

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86≫ 転換

2008-11-24 15:47:36 | インポート

 今年の夏、道主をお招きしての講習会に参加しましたが、道主の転換の動きは想像以上に速かったのが印象的でした。稽古、講習としては、ちょっと速すぎるかなと思いましたが、道主がそうされているのであれば、それが現在の基準なのでしょう。

 大先生が転換を毎回の稽古のはじめに採用されたのにはいくつかの理由があるはずです。大事な体捌きだからということだと思いますが、ではどこがどのように大事なのか、そのあたりのことを考えてみたいと思います。

 まず、転換は入り身とともに合気道を代表する体捌きで、相手の攻撃を避けながら、自分優位の位置取りをするための動きです。180度も回るというのは複数の敵を想定する合気道の特色でもあるでしょう。実戦であれば、その出来、不出来で自分の生命を守れるかどうかを分けるとても大切な動作です。

 そうであるからこそ、正確な動きを身に付ける必要があるのですが、単に180度回ることは、合気道の稽古をしようとするくらいの人にとっては何でもない動きです。でも多くの場合、それは武術的に見て意味のある動きにはなっていません。手、足、腰の構えが本来あるべきかたちになっていないのです。その理想的なかたちを文章で説明するのはもとより諦めていますが、それぞれが信頼する指導者の構えを真似るにしても、まずはゆっくりと確認しながら動いてみることが大切だと思います。

 そのようにして、いくつもの技を学ぶ大前提として転換の動きをまずは学ぶのです。一教がどうだとか四方投げがこうだとかいう前に、体捌きのひとつとして正しい転換の動作ができていなければ、技そのものが精彩を放つことはないでしょう。

 転換のもうひとつの意味は、臍下丹田を意識、鍛錬するための動作であろうと思います。このことはバックナンバー32で簡単に触れていますが、もう少しこだわってみたいと思います。丹田を意識する動きであるとはだれかに教わったわけでもありませんし、いろんな教本を調べてもどこにも書いてありません。わたし自身の修行から感じたことです。

 いや、どこにも書いていないと言いましたが、実は関係した文章があることはあるのです。以前にも引用した吉祥丸先生のご著書≪合気道≫で、転換法を説明する中に、《なお、腰は言うまでもなく中心をなすものであるから、転換の際の安定には特に注意しなければならない。それには、常に臍下丹田に気を込める練習が必要である》とあります。しかしこれは論理がひっくり返っているのです。転換をするために丹田に気を込める練習が必要なのではなく、転換こそが丹田の鍛錬法なのです。

 ただこれも稽古に馬齢を重ねてきただけの一介の田舎武道家の思いつきですから大ハズレの論かもしれませんし、まして道主であられた方の教えを素直に受けとめないのは甚だ畏れ多いことですが、その場合は臍下丹田の高さに掌を上に向けて構える姿勢の意味をどなたかに説明していただかないといけませんね、これは。

 ところで、臍下丹田は気の集まるところ、気を錬るところであるといわれますが、物理的実体として存在するものではありません。あくまでも修行、稽古の結果として得られる個々人の感覚でしょう。しかもそれは、客観的な評価基準のない、あいまいな、よくわからない、思い込みかもしれない感覚です。そのような、きちんと説明できないものを変に有り難がるのはわたしの流儀ではありませんし、そもそもわたしは《気》がわかりません。

 ただ、臍下丹田といわれるところは、ほぼ体の重心ではあるので、体移動に伴う力の出どころであったり、動きの中心であったりというふうに、自己の主体性を意識させてくれるものではあります。

 要するに、丹田を意識するということは、運動としては重心を意識するということと近似のことです。体を動かすことはバランスを崩すことです。構えるということはバランスを整えるということです。これを一連の動作として行う場合、丹田(重心)を意識するととてもスムーズにつながっていくのがわかります。

 稽古にあたっては、棒立ちにならないようにひと腰落とし、その高さを保って動くと、バランスを崩しつつも姿勢は崩れない動きができますし、下半身に適度な負荷もかかって鍛錬になると思います。その場合も、速さではなく、意識の置き所を確認しながら、ゆっくり運ぶことが大事です。

 転換でもうひとつ大切なこと、それは相手をそのままにして自分が回るということです。よく、相手を導くという言い方をして、受けを振り回している人がいます。このことは以前にも述べていますが、まったくの間違いです。自分にできることは自分が回ること、相手が回るかどうかは相手の勝手です。転換は、実はこのことを教えようとしているのではないでしょうか。それを多くの人は逆に受け取ってしまっているのではないかというのが、わたしの結論です。