今回は形骸化しない動きについて述べてみようと思います。
言い換えると、生きた動きということですが、それはひとつの動作には複数の意味があるという理解のもとに実現されるものです。ひとつの動作がひとつの意味しか持たないとしたら、二千とも三千ともいわれる合気道の技と同じ数の動作がないといけないことになります。そんなことは常識的にありえません。そこまでいかないとしても、一教はこう、二教はこう、四方投げはこう、小手返しはこうと、一つひとつの技に個別の動作があると思っていらっしゃる方は多いのではないでしょうか。しかしそれらは少数の共通の体遣いからできているのです。
例えば手についていえば、掴みにいく手は、そのまま打てる手です。片手取りの間合いなら直突き(ストレート)、肩取りの間合いなら鉤突き(フック)、もっと踏み込めば肘打ちなどが打てる間合いになります。ですから、片手取りといっても、なにも相手の片手を掴みにいくことだけが期待されているわけではありません。むしろ掴み方の違いによって作り出される間合いの違いを学ぶためのものではないかとさえ思います。そこから当身も含めて幾通りもの攻撃が展開できますから、掴まれる側も、掴まれることにだけ気を取られてはいけないのです。相手は気が変わって打ってくるかもしれませんよ(稽古ではあり得ませんが)。
反対に、掴まれる手は掴める手です。通常の稽古において、片手取りなどでは受けが取りの手を掴むところから始まりますが、取りのほうから積極的に掴みにいくというのが実際的ではないでしょうか。取られて施す動きと同じ動きで取っていくことができないと、以前言った≪虚≫の稽古が真実だと思ってしまいます(バックナンバー15参照)。掴んでもらって技をかけることのメリットもありますからそれはそれでよいのですが、あくまでも稽古の上での約束事だと理解しておく必要があります。そうでないと、どなたかのように『気が流れているから手が離れない』などと寝ぼけたことを言ってしまいます。
このように、手を取る、取られるというだけのことにも、いろいろな状況が想定され、ひとつの動作に複数の意味がこめられているということがおわかりいただけると思います。
それと、当身についての考えを述べておきます。
技のはじめに当身をいれる動作を取り入れる方は多いと思いますが、合気道において、当身はそのような限られた場面でのみなされるのではありません。例えば正面打ち一教表において、まず手刀を合わせ、あいた手であばらなどを打ってから腕抑えにいくかたちをとる場合がありますが、これは手刀を相手の打ち込みの防御、またはせいぜいフェイントとしての当身と考えているからです。しかし、最初に繰り出す手刀こそが第一撃の当身にならなければいけないのです。当然もう一方の手は第二撃としての当身ですから、いうなればワン・ツーの当てになります(普段の稽古でそうすべきだと言っているのではありません。考え方です)。
片手取り四方投げにしても、漫然と片手を取られるのではなく、受けの出端を牽制するように手を突き出すのです。いきすぎて当たってしまったらそれもよしという感じです。そのようにすると受けは少しのけ反りながら腕を取りにくるようなあんばいになります。さらに、取りは受けの手を掴みかえしますが、このときの手も、さらに相手の腕に添わせる手も全て当て身に変化できます。この場合はワン・ツー・スリーになります。
合気道は打撃を主とする武道ではありませんが、当身七割といわれたりもします。その意味は、一連の動作のほとんど全ての局面で当身に変化できる動作を含んでいるということです。また、通常ほとんど意識されていませんが、足底蹴りや膝蹴りなどに移行できる動作もいろいろあります。
通常の稽古でだれでもそのような動きをしているのですが、教えてもらっていないからわからないだけです。抑え技であれ投げ技であれ、また関節技であれ、乱暴な言い方をすれば、当たってしまえば当身になるのです。当てるつもりが関節技になったなんてことはめったにないでしょうがね。
生きた動きとは、その時々の状況に応じて適切な対処ができることです。その時、求められる動きの種類は少ないほどよろしい。剣道なら面、胴、小手、突きだけ、ボクシングはフック、アッパー、ストレート、おまけでジャブだけ。相撲や柔道は技数がたくさんありますが、得意技とされるのはだれでも一つか二つでしょ。その程度の持ち駒であらゆる難局を切り抜けていくのです。大事なのは応用力なのですね。
いつもの慣れた動作にいろんな意味があります。それこそが技法としての真理なのです。なにも特別なことではありません。