合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

61≫ 先生

2008-04-06 21:02:18 | インポート

 また技法をはなれて、茶飲み話でも申し上げます。

 わたしは30年以上前の某私立大学の出身者です。大学では普通3・4年のときにゼミといって、興味のある専門科目の先生に就いて一段深い勉強と研究をします。その成果が卒業論文にまとめられるとともに、その時のゼミ仲間とは生涯の付き合いとなることも多いようです。

 そのころのわたしは合気道が好きになりかけでしたので、不埒なことに、授業で選択すべき教科も、その内容ではなく稽古に差しさわりのないような曜日、時間の科目を選んでいました。

 しかしゼミは通常の授業とちがって、一定の曜日、時間以外に、必要とあらば何曜日でも何時間でも研究に取り組まねばなりません。それで、ゼミをとるのがなんとも不自由な気がしたのです。

 たまたまわたしの学部では、通常の授業を2科目分多く履修するとゼミを選択しなくてもよかったので、結果的にわたしはゼミをとらずに過ごしました。ですから卒論も提出していません。ただ大学というところは高度で専門的な学問をしに行くところですから、その象徴たるゼミをとらないというのは学生であることの価値を半減してしまうことのように思ったのも事実です。

  そんなわけで、ほとんどの学生にとり、師事したという意味での先生として思い浮かぶのはゼミでの指導教授のことが多いようですが、わたしにとってはそのような存在がありませんでした。

 そういう時に出会ったのが西尾昭二先生や黒岩洋志雄先生でした。わたしなどは多くの弟子の中の一人(それも押しかけ弟子)でしかなかったのですが、出会いの当初から惹きつけられるものがあり、この方こそわたしにとっての先生だと勝手に自分の内で決めたのでした。

 西尾先生は日々技が進化していく天才的な武道家でいらっしゃいましたし、黒岩先生は合気道の秘訣に触れる最高度の技法論を確立されていました。そのような指導者の、謦咳に接するどころか実際に手ずからの指導を受けることができたのは、誠に幸運なことでした。

 ≪事と理≫ということがあります。事はかたちに表れるもの、理はその裏付けとなる考え方です。理屈ばっかり言ってもできなければなんにもならない、反対に、なんでそんなことをやっているのかわからなければやっても意味がない。武道というのはそういうものだと思います。両先生はその事理の両輪が、並外れて優れていらっしゃるのです。

 さて、一ヶ月ほど前にこのブログに頂戴したコメントを特別寄稿というかたちでご紹介いたしました、敬愛する道友Takeさんとは、かつて、ともに両先生のもとで稽古に励み、ある頃から、Takeさんは西尾先生に、わたしは黒岩先生にと、図らずもそれぞれの道を辿ることとなりました。そして長い時を経た後に、またお互いの修行の成果を伝えあえる日が到来したことに、大きく深い縁を感じずにはおられません。

 ところで、Takeさんとわたしが、それぞれどちらかの先生に就くについては、その時点での合理的判断があったはずです。が、それぞれの先生とわたしたちの間には、どうもそういう理屈だけでは割りきれない、心に直接働きかけてくる何物かがあったようにも感じます。気分といってもいいですし、好みといってもいいのですが、それだけでもないように思うのです。わたしは決して神秘主義者ではありませんが(むしろ現実的合理主義者です)、合気道という武道には、強い弱い、上手下手のまえに、なにか人間存在の根源を揺り動かす不可思議な力が秘められているのではないかと思うことがあります。大先生が≪愛と和合≫とおっしゃったのはそのことなのかもしれません。その力が大先生から直弟子の先生方、そして現在のわたしたちまで、綿々と続いているのだとしたら、次にそれをつないでいく義務は、当然わたしたちにあるのでしょう。

 情けなくもわたしは事と理のいずれにおいても自分の先生を越えることはできそうにもありませんし、不可思議な力が何であるのかも実際のところわかっていませんが、自分が得たものは能力の限りにおいてできるだけ忠実に次なる人に伝えようと思います。さらに、いささかの自分なりの考えも、そうであるとことわった上でオマケで付けてあげようかとも思っています。ダメなオマケなら捨て去られるでしょうし、意味あるものであれば生き延びるかもしれません。

 それにしても、出会ったときの両先生、いまのわたしよりずっと若かったんだよね、しかし。